10
どのくらい意識を手放していたのだろう。
(あ……ここって)
茉理は力なく目を開ける。
カラスの黒い瞳が、そっとあたりのものを捉えた。
アンティークのどっしりした戸棚の上。銀色に鈍く光る格子。
意識がはっきりしてくると、彼女は自分の置かれた立場に気付いて衝撃を受けた。
(嘘―っ。どうしよう)
彼女はまだカラスのままで、銀の鳥籠に閉じ込められている。
横には何故かよくインコや文鳥に出される粒粒の餌が入ったケースと水入れがあり、更にみじめな気分になった。
(完全にペットよね、この扱い)
下を見ると、犬の低く唸る声がする。
姫乃がしとやかにソファにもたれ、白い大型犬の頭を撫でているのが見えた。
(困ったな。どうしよう)
茉理はため息をつく。
自分がどれだけ気絶していたのかわからないが、もう相当時間がたっていることだろう。
そして満足そうな笑みを浮かべている姫乃に今言葉を送っても、きっと開放してもらえまい。
(でもなんとかして、ここから出してもらわないと)
茉理は必死に頭の中で策を考え続けた。
場所を屋根の上から生徒会室に移した雅人は、黒眼鏡の同輩に自分の疑問をぶつけてみた。
「後野茉理の声が聞こえたって?」
生徒会室では直樹が首をひねって答える。
「おかしいな。俺の薬は完璧だ。カラスになった時点で人間の意識は無くなってるはずなんだが」
「空耳とかじゃないんですか」
円卓にのっぺりと陥没していた英司が、力なさげにつぶやいた。
「ほら、よくあるじゃないですか。誰かのことを強く思うと、以心伝心で何かが伝わったような気になるやつ――普通の人間だって何かを感じたと思いこむ現象」
「どうだろうね。帝の奴、本気で探してるよ」
雅人が窓から気遣わしげに、屋根の上の王様をみやった。
さっきから帝は目をらんらんとさせ、一生懸命茉理に思念を送って呼びかけている。
「もうすぐ7時だ。そろそろやばいな」
直樹の声に、雅人はため息をついた。
「しょうがないよね。また僕がカムフラージュ役か」
彼は肩をすくめると、パチンと指を鳴らす。
金髪で縁取られた貴公子の容姿が歪み、制服のブラウスとプリーツスカートといういでたちの少女に代わる。
「じゃ、そろそろ帰るわね。あと、よろしく」
茉理そっくりの少女(中身は雅人)は笑うと、生徒会室を出て行った。
「斎、お前ももう帰れ」
直樹が周囲に向かって言葉を放つ。
魔力を使い果たして姿は見えなくなってしまったが、そこには自分達の仲間の一人、斎がまだ留まっているはずだ。
「休んで魔力を補充してこい。俺達は魔力が尽きても肉体が残っているから、まだ何か出来ることがあるかもしれないが、お前には無理だ。力を回復させることを優先させろ」
『はい。すみません、お役に立てなくて』
斎の弱弱しい声が英司の頭に響いた。
「あとのことは、まかせておけよ。何かあったら連絡する」
英司はにっと笑うと、片手をあげて左右に振った。
生徒会室の扉が開いて閉まる。
出て行った人影はなかったが、それだけで斎がおとなしく帰ったのがわかった。
「さて、どうする? 英司」
「どうするも何も、もう少し休ませてください。どうせ暗くなるし、もっと探すのに魔力を使うと思いますから」
英司はそう言うと、また円卓にどさっと身を落とした。
(茉理、どこだ。返事をしろ!)
帝は必死に呼びかける。
しかしあれきり何の応答もなかった。
(俺の空耳か? いや、そんなはずはない)
かすかな気配だったが、確かに手ごたえを感じた。
帝は、じっと目を閉じて考える。
(あいつが俺を呼ぶ声が確かにした)
悲鳴のようなものだった。
助けて、と叫んでいた。
(あいつに何かあったのは間違いない。そうでなければ――認めたくないが、俺の名など呼びはしないからな)
冷静に頭をめぐらせば、いろんなものがみえてくる。
心を沈め、帝はまた思念を送った。
(茉理、返事をしてくれ!)
何度か送って、気配を探る。
すると、ある一方に送った意識に違和感があった。
(なんだ、俺の思念が遮断される?)
そちらの方に魔力を向けると自然に的をはずされる――そんな奇妙な感覚があることに帝は気付いた。
それはまさに自分の邸の方。
彼は眉をひそめる。
自分の邸とはいうものの、正直言って広大な建物のすべてを把握してはいなかった。
彼が立ち入らないように、幼い頃から制限されている場所や部屋が邸の中には複数ある。
そのせいか今だに伊集院家本邸は、どこか彼にはなじめない世界であった。
「どうした、帝」
屋根の上に、直樹が上がってくる。
難しい顔をして、帝はじっと本邸の丸いドーム型屋根を睨む。
「直樹、お前、あっちに向かって思念を放ってみろ」
帝に指示され、直樹は静かに屋根の上に立った。
夕日に染まるドームに向かって思念を放ち、彼も顔をしかめる。
「妙だな」
「お前もそう思うか」
帝は自分同様渋い顔をした直樹を見た。
「だが別に今の状況に、これが関係あるとは思えないが」
「茉理に思念が届かない。さっきから何も反応がない」
帝は考えながらつぶやく。
「彼女の意識を感知したのか」
「さっきは確かに気配を感じた。一瞬だが、あれはあいつだった。間違いない」
帝は断言した。
「しかし仮にそうだと仮定したら、かなり矛盾した話だぞ。普通思念会話は、双方が感知出来る状況のみに発動可能だ。お前が後野茉理の思念を感じられたというのなら、当然お前の思念も後野茉理に届くはず。片方だけというのはありえない」
「……」
帝は唇を噛み締めた。
直樹はポンと彼の肩に手を置く。
「きっとさっきのは空耳だ。帝、深く考えるな」
「そんなはずはない」
「いいや、現にお前は今、彼女と交信不可能じゃないか。仮に彼女がお前を呼んだとしても、お前に届くはずがない――お前の声が彼女に届かないように」
(そんなはずはない。俺は確かにあいつの声を聞いた)
帝の意思はひるまなかった。
こんな状況は前にもあった。
茉理と共にユーフォリアに飛ばされて、ほどなく彼女はおぞましい魔の手にさらわれた。
あのときも確か散々探し、何度か思念で呼びかけてみた。
でも彼の思念に対して何の反応もなく、受け止められたという感覚はまったく沸かなかった。
だが一瞬だけ茉理が彼の名を呼んだのが聞こえたのだ。
それは本来なら完全に交信を遮断されているはずの別空間から。
彼のすべての思念は、空間を作りし巫女によって遮断されていて届かなかったが、茉理の放った意識は、その巫女の力を一瞬だが無効化して彼に居場所を伝えることが出来たのだ。
普通の魔術師ならありえないことを、成しえる力を彼女は持っている。
だから空耳ではない――これは十分にありえる状況なのだ。
(つまりあいつは、どこか外部から遮断された場所にいるということか)
結界、または封印。
日本のあちこちに昔からそういった場所はいくつもある。
また魔術師が故意に魔法で一定の場所を封鎖、外部から遮断することも出来る。
(どこだ、茉理。早く俺を呼べ!)
帝は必死に呼びかけた。
他に今どうする手段もないことに、苛立ちを感じながら――。
(なんか、聞こえた)
考え込んでいた茉理は、黒い首をあげた。
耳ではなく意識を澄ます――するとかすかに彼女を呼ぶ強い思念が迫ってくる。
『茉理。どこだ、どこにいる!』
(帝先輩)
混濁していた意識が、徐々に熱いもので満たされていく。
(帝先輩が、わたしのこと、呼んでる)
意識と意識のつながりは不思議なもの。
言葉しか伝わらないのではなく、言葉の中に込められた想いまでもが伝わってくる。
『茉理! お願いだ、俺(僕)のところに戻ってきてくれ』
二つの想いが一つに重なり、一致して彼女を激しく求めてくる。
(行かなきゃ)
茉理の瞳に迷いが無くなり、力がみなぎる。
(帰らなきゃ、あの人の――帝先輩のところに)
強い決意。何としても目的を遂げたいという想い。
茉理は自然に格子をくちばしでくわえた。
硬い檻は鋭いくちばしでも曲げたり折ったり出来そうにない。
でも。
(ここを出なきゃ。この邪魔な物を取り去って!)
彼女の熱い想いに、体の中から突き上げるような力がこみ上げる。
カラスの全身にそれは満ち、ゆきわたり、体の外側にあふれ出る――。
(何? この感じは)
ソファにくつろいでフォルを撫でていた姫乃は、気配に気付いて戸棚を見る。
上に置かれた鳥籠が、白い光に包まれていた。
(何なの? この光は)
思わず袖で顔を覆う。
小さいが、それは十分に目を覆いたくなるほどのまぶしさを放っていた。
光はすぐに収まり、また元の居間に戻る。
フィルが、うーっと低くうなった。
姫乃は犬を撫でながら、そっとフィルが警戒している方を見る。
棚の上にあった鳥籠は、綺麗に消えていた。
そして黒いカラスが羽をばたつかせながら、じっと彼女を見下ろしている。
『茉理、今の、あなたの力なの?』
おびえながら思念を姫乃は送った。
『あなたは一体何者なの? わたしが一生懸命魔力を込めて作った封印機能付き鳥籠を、一瞬にして消滅させてしまうなんて』
『姫乃さん、ごめんなさい』
茉理は強い意志をこめた思念で返す。
『わたしを帰らせてください。どうしても帰らないといけないんです』
『どうして? ここは嫌い?』
顔をゆがめて悲しそうにする姫乃に、茉理の心はぐっと詰まった。
でもひるむわけにはいかない。
『わたしを待ってる人の声が聞こえました。その人の所に戻らないといけません』
『あなたが戻らないと、その人が悲しむから?』
『はい』
茉理の声に、姫乃はため息をついた。
『わかったわ』
寂しそうに少女は微笑む。
『貴方が大好きよ、茉理。お友達になれて嬉しかった』
『姫乃さん』
『もう二度と会えないと思うけど、わたし、貴方のこと忘れないわ。だから貴方もわたしのことを忘れないと約束して』
『二度と会えないなんて、そんなことありません』
断言する声に、姫乃の瞳は大きく見開かれた。
『茉理?』
『わたし、今日はこれで帰りますけど、絶対にまた来ます。今度は貴方と外で遊びましょう』
『え、外で?』
完全に困惑のまなざしで、ぽかんと姫乃は茉理を見る。
考えもしなかったことを言われたので、どうして良いかわからないという顔をした。
『はい、外です。わたし、必ず今度は人間の姿になって貴方に会いに来ます。それまでどうか待っててください』
『無理よ、そんなの』
姫乃は辛そうにつぶやく。
『出来っこない。不可能だわ。外の世界からわたしの存在を感知することは出来ないの。やまとだけよ、わたしを知っているのは』
『じゃ、そのやまとって人に会って、お願いします。貴方を外に出してくれるように』
『なっ』
姫乃の顔が恐怖でひきつった。
『駄目よ、それは駄目』
『どうしてですか』
『やまとはとても強い人よ。そしてとても怖いの。言うことを聞かないと、どんなことをされるかわからないわ』
『そんな』
『貴方はきっと殺されてしまう。お願いだからやめて』
悲鳴のような叫びに、茉理は励ますように言った。
『じゃ、姫乃さん、このままここにいていいんですか。永久に外に出ないまま、ここで暮らしていいんですか』
『それは――』
『無茶はしません。でもわたし、姫乃さんの友達だから――誰のためかわからないけど、友達がこんな風に閉じ込められてるのを知ってて、ほっとくなんて出来ません』
『茉理』
涙が一筋、姫乃の頬を伝った。
彼女は悲しげに微笑む。
『貴方の気持ちは、とても嬉しいわ。外には出してあげる。貴方の世界にお帰りなさい』
『姫乃さん』
『でもお願いだから約束して。決してわたしのことを誰にも話さないと。あなたの親しい人にも誰にも』
『でも』
『いいから。もしわたしが外の人と会ってしまったことが知られたら、大変なことになるの。やまとが黙ってはいない。彼は何度もわたしに罰を与えたわ。まだ小さい頃、覚えたての償還魔法を使って、わたしは何度か同じ歳ぐらいの子を呼んだの。誰かと友達になりたくて』
姫乃は辛そうに続ける。
『ちゃんとお家に帰してあげたわ。でもね、やまとに見つかって、そのたびに彼はわたしを厳しく罰したの。絶対に外の人間と接触して、自分の存在を明かしてはいけないと』
『そんなひどい』
『必ずわたしと遊んだ子のことを突き止め、そしてその子を――』
苦しそうに姫乃は唇を噛み締め、床に崩れるように座り込んだ。
顔を両手で覆い、肩を振るわせて泣き出す。
声を出せずに泣いている彼女の想いが、茉理の胸を激しく打った。
それ以上、言わなくてもわかる。
彼女が過去、どんな仕打ちを受けてきたか。
(ひどすぎる。こんな小さな空間に押し込めて、幼い頃から自由を奪って)
茉理はやまとという未知なる人物に、そこはかとない怒りがこみ上げた。
こんなの絶対許されていいわけない。
しばらく身を震わせていたが、姫乃は弱弱しく微笑みながら立ち上がった。
『さようなら、茉理。さっきの言葉は取り消すわ。わたしのことは忘れてちょうだい』
『なっ』
『そのほうが貴方のためよ。わたしと関わっては駄目。貴方には外の世界に未来があるわ。それを捨ててしまってはいけない。わたしとは違うの』
すべてをあきらめた少女の瞳に、茉理は息を飲んだ。
こんなのってない。
こんな形で、彼女との関係が終わってしまうのは嫌だ。
『さあ、貴方を送るわ。ありがとう、茉理。短い時間だけど楽しかった』
『あ、あの、ちょっと』
姫乃は両手を組み合わせ、目を閉じた。
声は出なかったが、呪を唱え、魔法をかけているのがわかる。
程なく黒いカラスの周囲に、光の魔方陣が出現した。
『姫乃さん』
さようなら、と姫乃の唇が動く。
『姫乃さーんっ』
完成した魔方陣に吸い込まれていくカラスの姿と共に、茉理の思念の叫びは外の世界に消え去っていった。




