第六話「白い救箱」
教授職を失ってからというもの、正露丸は救急箱の片隅で、静かに時を過ごしていた。
一日に何度も開け閉めされる白いフタの音。
そのたびに差し込む光。だが、それが自分に向けられることは、もうない。
オロナインが中央に座った日々は、穏やかだった。
ムヒも冗談を言わなくなった。スースー音さえ、慎ましやかだった。
「教授」という重圧を抱えた彼女に、薬たちは一定の敬意を払い、同時に遠巻きにしていた。
正露丸は、もう語らない。
語る資格がないと、自ら思っていた。
だが、ある日。
救急箱に、大きな異変が起きた。
「……新入りが来たぞ」
ムヒが低い声で言った。
誰もが見たことのない細長いチューブ――
「アフターケア軟膏EX」
光沢のあるパッケージに、目を引く金文字。
「すご……なんか、“病院レベル”って書いてある……」
絆創膏(小)がつぶやいた。
新入りは、最初から中央の座をうかがっていた。
使われたのは、なんとその夜。
「オロナインより効くって、ネットに書いてあったのよ。最近のは、進化してるのねぇ」
母の無邪気な声。
だが、オロナインには鋭く刺さった。
翌日も、その軟膏が使われた。
虫刺され、擦り傷、やけど、吹き出物――
まるで万能薬かのように、あらゆる患部に塗られた。
教授席に座るオロナインの立場が、急速に揺らいでいった。
夜。
オロナインは、ムヒにそっと訊いた。
「……私、どう思われてるのかしら?」
「んー……まあ、“古い”とは言われてるな」
ムヒは空気をスースーと吸いながら答えた。
「でも、安心感はある。あと、匂いもレトロで落ち着く」
「……それ、フォローになってる?」
「なってるつもり」
オロナインはふっと笑い、それから目を伏せた。
「教授の座って、こんなに不安定だったのね」
「誰が中央にいても、結局は人間次第さ。俺たちは、使われるだけの存在だ」
ムヒは静かに言った。
そして――次の週末。
救急箱の棚卸しが行われた。
「これ、もう期限切れてるかな……あら、これも」
「最近はこの軟膏一本で済んじゃうから、他のあんまり使ってないのよね」
そう言って、母は正露丸の瓶を手に取った。
「……この子も、もう古いかしら?」
娘が眉をひそめた。
「飲むとにおいが口に残るし、学校行く前には絶対ダメだよね……」
父が苦笑した。
「まあ、昔はよく効いたんだけどな。今は整腸剤も選択肢多いし……」
そして――
正露丸は、透明なジップ袋に入れられ、“一時保管”という名の棚の奥に移された。
誰もが、その意味を理解していた。
夜、救急箱の中。
中央の座に、アフターケア軟膏EXが座っていた。
その輝きはまるで、白く硬質な“新時代”の象徴だった。
「変わったわね」
オロナインがぽつりと言った。
「白い巨塔じゃなくなった」
ムヒが答える。
「じゃあ、何になったのかしら」
「さあな」
ムヒは空気を吸い込んで、ほんの少しスースーさせた。
「でも、きっと――白い、救箱さ」
救急箱の蓋が、静かに閉まった。
外からは、何も見えない。
だが中には、幾多の薬と、幾多の物語が、ひっそりと息づいている。
その夜――
誰もいない棚の奥。
小さなジップ袋の中で、正露丸が、独り言のようにぽつりとつぶやいた。
「無念だ……」
(完)