第五話「訴訟」
その知らせは、ある午後、突然やってきた。
救急箱の中に、一通のメモが差し込まれたのだ。
母の走り書きの文字で、こう記されていた。
「正露丸、誤使用による肌トラブルにつき、一旦使用停止」
「正式に調査すること。信頼に関わる」
静寂が落ちた。
薬たちは、互いに視線を交わしながらも、口を開かなかった。
それがどれほど重大な意味を持つか、皆が理解していた。
「……つまり、“訴訟”ね」
オロナインが静かに言った。
その声音には、同情と、わずかな覚悟がにじんでいた。
「誤って使われたのは、あくまで人間の側。なのに、教授として責任を問われるのか……」
ムヒが眉をひそめた。
「“教授職”とは、そういうことだ」
古びた包帯がぽそりとつぶやいた。
「選ばれし者は、使われたときの結果すべてを、名誉とともに背負う」
正露丸は、じっとメモを見つめていた。
瓶の奥底で、薬草の香りがふわりと揺れる。
「……訴えられるのか、俺は」
「違うわ」
オロナインがそっと言葉を添える。
「あなたが訴えられるのではない。“教授”という地位が訴えられているの」
そう――これは、正露丸という一薬品の失敗ではなく、
教授という立場の責任そのものに対する問いだった。
その夜、救急箱は臨時“評議会”を開いた。
対象は正露丸。議題は「教授としての適格性」。
裁判長を務めるのは、使用期限が1年先の「絆創膏(大)」。
「今回の件について、正露丸殿の弁を求めます」
静かに、瓶が音を立てた。
「俺は……確かに、塗る薬ではない。だが、指示されるままに使われた。拒む手段はない。なのに、俺が責任を負うのか?」
「“教授”とは、すべての判断において最後の信頼を得る存在」
絆創膏が淡々と返す。
「使われ方に誤りがあるなら、それを補う存在であるべき。説明が不足していたのでは?」
「瓶に、服用薬と明記されている!」
正露丸の声がわずかに震えた。
「それを読まずに使ったのは、人間のミスだ!」
「だが、お前は“教授”だった」
ムヒが割り込んだ。
「たとえ明記してあろうと、中心に座っていたお前が、最も信頼されていた。ならば、過信される危険性を見越すべきだったんだ」
その言葉に、救急箱全体が静まり返った。
「……過信、か」
正露丸はふと、父に初めて“頼られた”日のことを思い出していた。
修学旅行の朝、腹痛にうずくまる息子に、父が手渡した瓶。
「これを飲め。間違いない」
それがどれほど誇らしく、どれほど重かったか――。
「正露丸教授に対する、教授職停止を提案します」
絆創膏が厳かに告げた。
そして、満場一致で、その提案は可決された。
夜が明けた。
救急箱の中央――教授席に、今はオロナインが座っている。
「……申し訳ないわ」
オロナインが言った。
「謝るな。俺の慢心だ」
正露丸は短く返した。
「自分が教授であれば、どんな使われ方をしても役に立てると、そう思っていた」
「……あなたは今でも、必要とされているわ」
「違う。必要とされた“つもり”だったんだ」
オロナインが何か言いかけたとき、正露丸は背を向けた。
瓶の中で、小さな粒がわずかに揺れた。
そして――
こうつぶやいた。
「無念だ……」
その言葉は、瓶の内側で深く染み渡り、やがて救急箱全体に、重く、深く、広がっていった。
(第5話 完)