第四話「誤用の果て」
夏休みも終わりに差しかかった、ある蒸し暑い夜のことだった。
夜の台所で揚げ物をしていた母が、油の跳ね返りで手の甲に軽いやけどを負った。
「あっつ……!」
思わず蛇口の冷水に手を当てるが、それでもヒリつく痛みは残っている。
「やけどには、何か塗っておかないと……」
慌てて母は救急箱を開く。
白い蓋が、パタンと跳ね上がる音が部屋に響いた。
薬たちの間に、緊張が走る。
「来たわね」
オロナインがすっと姿勢を正す。
「これ以上ないほどの私の専門分野よ。軽いやけど。患部は清潔。湿潤環境。完璧な舞台だわ」
「ご愁傷さま」
ムヒは一言だけつぶやいて、スースーと空気を冷やした。
だが――次の瞬間、信じがたいことが起こった。
母はオロナインを手に取ることなく、救急箱の中央にある正露丸の瓶に手を伸ばしたのだ。
「……えっ」
オロナインが思わず声を漏らす。
ムヒも凍りつく。
「ちょ、ちょっと待て……まさか……俺じゃないだろ……?」
正露丸の声が震えていた。
しかし、無情にも、瓶のふたがキュッと開けられる。
「ほら、これも薬草が入ってるし、殺菌とか効くかも……ちょっと塗ってみよう」
「やめろぉぉぉおおお!!」
正露丸の絶叫も虚しく、母の指先は瓶の中から小粒の丸薬を取り出し――
それをぐい、と潰して、やけどした患部に塗りつけた。
「ぬっ……ぬるぬるしてる……」
「そんな使い方じゃねえぇぇえええええええ!!!」
救急箱中に、正露丸の魂の叫びがこだました。
やがて――患部がヒリつき、色が濃く変化し始めた。
「……なんか、逆に赤くなってきたんだけど……?」
翌朝、母の手の甲は、独特の臭気と共に茶褐色の色素で染まっていた。
そして、なぜかヒリヒリ感が増していた。
「え……これ……逆効果……?」
数時間後、母はかかりつけの皮膚科を受診する羽目になった。
その夜。
ダイニングで、父が新聞をたたみながらぽつりと言った。
「それ、まさか……正露丸、塗ったのか?」
母は気まずそうにうなずいた。
「まさかよ……塗り薬じゃないの?薬って書いてあるから……」
「お前なあ、飲む薬だぞ、あれは……。胃腸に効く薬を、皮膚に塗るか?」
「……だって、“教授”だったじゃない」
その言葉は、正露丸のガラス瓶を凍らせるに十分だった。
数日後。
救急箱が再び開かれた。
「やっぱり整理しようと思って……。誰が何の薬なのか、ちゃんとラベルも貼らないとね」
母が言いながら、ひとつずつ薬を取り出していく。
そして、正露丸をそっと手に取り――“教授席”から外し、端に寄せた。
「……信頼って、難しいね」
その声に、正露丸は何も言えなかった。
救急箱の中央には、静かに、まっすぐと構えるオロナインがいた。
ムヒはそっと、空気をスースーさせた。
オロナインは静かに身を引き、ムヒは少しだけスースーした。
それが前回の光景だった。
だが今回は、正露丸が静かに身を引き、オロナインが教授席に戻ってきたのだった。
(第4話 完)