第三話「教授選、開幕」
それは、ある雨の日だった。
家族が外に出ることもなく、台所には鍋の湯気が立ちのぼり、テレビからはニュースの声が流れていた。
救急箱の中に、ひときわ静かな空気が流れていた。
「今夜――決まるそうよ」
オロナインが、しずしずと口を開いた。
「……ああ。俺も聞いた」
正露丸の低い声が響く。瓶の底から鳴るような、重みのある声だった。
「“教授選”。ついに……ってわけだ」
ムヒは、自身のチューブを少しだけくゆらせながら呟いた。
教授とは、家庭内救急箱の象徴的存在。
“第一に信頼され、最も頻度高く、いざというときに手に取られる薬”――それが「教授」の条件だった。
教授に選ばれれば、その存在は“家庭内医薬品”として揺るぎないものとなり、必要なときには誰よりも先にフタが開かれ、手が伸ばされる。
「そもそも、俺たちのなかで“誰が教授にふさわしいか”なんて――わかりきったことじゃないか」
ムヒが言った。どこか焦っているようにも見える。
「ふん。君は“スースーする”だけじゃないか」
正露丸が笑った。「薬効が皮膚にしか届かないやつに、箱全体の指導ができると?」
「なにを!スースーの背後にあるのは、虫刺され、かゆみ、湿疹、蕁麻疹への即効性!それに何より、子どもたちの支持は厚い!」
「子どもたちの支持……ね」
オロナインが優しく微笑む。「私もそうだった時代があるわ」
「過去の栄光を語るな。いま、選ばれるのは“即戦力”だ」
ムヒがぴしゃりと言い返す。
「ふっ……君たち、まだわかっていないな」
正露丸が口を開いた。
「信頼とは“必要なときに、ちゃんと効く”こと。それだけで十分なのだよ。俺のように、ここぞというときに腹痛を止める、それが“教授”の仕事だ」
「ならば訊くけれど、家族の誰が、毎日あなたに手を伸ばしているの?」
オロナインが優しく、だが鋭く突きつけた。
言葉に詰まる正露丸。
確かに、使用される頻度ではオロナインの方が勝っていた。
切り傷、やけど、湿疹、吹き出物……数日おきに、誰かがその蓋をひねっている。
「“頻度”ではなく“信頼”だ」
正露丸は低く言った。
「……俺には、父親の信頼がある」
その言葉を受けて、救急箱の中にどよめきが走る。
――父親。
この家の大黒柱であり、胃腸のトラブルを抱える彼は、旅先にも正露丸を欠かさず持ち歩く。どんなときでも、腹の調子が怪しくなれば、迷わず正露丸に手を伸ばすのだった。
「それは……確かに、大きな支持ね」
オロナインも、さすがに一目置く。
「だが私は、母と娘の支持を得ている。使用回数は最も多いわ」
「俺は、子どもたちの絶大な信頼がある!」
それぞれが支持層を武器に、教授職へ名乗りを上げる。
そのときだった――
救急箱の奥から、古びたサロンパスがカサッと動き、こうつぶやいた。
「昔はな……こうして争わなくても、自然と決まっていたもんだ」
誰も反応しない。サロンパスはもう、開封後5年が経過している。
今や、ただの香り付きの薄紙だ。
やがて日が落ち、部屋に灯がともる。
家族が夕食を囲む中で、母がふと立ち上がり、救急箱を手に取る。
「そろそろ整理しないとね」
その言葉が合図だった。
救急箱が、ダイニングテーブルの上に開かれる。
それぞれの薬たちは、心のどこかで緊張しながらその瞬間を待っていた。
母が、一つひとつの薬を取り出していく。
成分表を確認し、期限を見て、使いやすさを思い出す。
そして――
正露丸の瓶を手に取り、母がこう言った。
「これ……やっぱり、いるわね。お父さん、これないとダメって言ってたし」
その言葉とともに、正露丸は救急箱の中央――“教授席”へと、そっと置かれた。
「……やった」
正露丸は、その一瞬にすべてを賭けていた。
その様子を見届けて、
オロナインは静かに身を引き、ムヒは少しだけスースーした。
教授の座を逃した二人の表情は、潔くも、どこか切なさをにじませていた。
「決まったわね」
オロナインが小さくつぶやいた。
「俺が……教授、か……」
正露丸の声は、どこか戸惑いと、誇らしさと、不安が入り混じっていた。
「よかったな、教授」
ムヒが小さくつぶやいた。
だが、そのとき。
誰も気づかなかった。――この静かなる勝利が、やがて大きな悲劇をもたらすことになるとは。
(第3話 完)