第二話「覇権、動く」
夏が近づく頃――この家では、小さな騒動が立て続けに起こっていた。
まずは、夕食後。
洗い物中だった主婦が、包丁の刃に指先を軽く当ててしまった。血はじわじわとにじみ、止まる気配を見せない。
「あっ……やっちゃった……」
慌てて救急箱を引っ張り出す。フタが開かれる、その瞬間。
薬たちの間に緊張が走る。
「来たか」
オロナインが静かに立ち上がる。包丁による切り傷。これは――自分の得意分野である。
正露丸は黙って身を引き、ムヒはすぐに「違うな」と表情を緩めた。
オロナインの身体が、主婦の指にそっと押し付けられる。乳白色の軟膏が、まるで“安心”そのもののように広がっていく。
「痛くない……やっぱり、これが一番」
そんな声が聞こえたような気がした。
オロナインは、その言葉を誇りとして胸に刻む。いや、胸というか、チューブの中身に。
「ふふ……やはり、私は“信頼”という名の薬よ」
救急箱の中では、誇らしげに光を放つオロナインの姿があった。
だがその輝きも、束の間のものだった。
数日後――家族旅行先の民宿で、孫娘が訴えた。
「お腹いたい……うぅ……」
慌てる祖母。少しパニックになりながらも、旅先に持参したミニ版救急箱を取り出す。そこにいたのは――正露丸だった。
「俺の出番だ」
そう呟いて、瓶がカタリと動く。数粒、紙コップに取り出される。孫娘の喉を通っていくその粒の一つ一つが、まるで戦場に赴く兵士のようだった。
「ん……ちょっとクサいけど……効いてきたかも」
数分後、表情が少し和らぐ。
「やったぜ……やっぱり、胃腸薬界の大将だな、俺は」
正露丸は救急箱の中で、静かに胸を張った。いや、瓶なので胸はないが、香りが堂々としていた。
そして、翌週。
家の庭でBBQをした日、事件は再び起こる。
日も暮れかけた頃、小学生の親戚が蚊に刺され、脚をかきむしり始めた。
「かいぃぃぃっ……ムヒないの!?」
その悲鳴に、家中が一斉に動いた。
まるでヒーローの登場シーンのように、冷蔵庫に保管されていたムヒが手渡される。
「さあて、スースー行くぜ」
一瞬のぬり心地。爽快感が皮膚を駆け巡る。
「きもちいい~!これじゃないとダメ!」
ムヒはクールに、そしてどこか小さな勝利に微笑んだ。
救急箱の中に戻されたとき、三者はそれぞれ、わずかに目を合わせた。
かつては、オロナインの独擅場であった家庭内。だが今や、使用頻度も、評価も、かつてほど一枚岩ではない。
「どうやら、簡単には決まらなさそうだな」
正露丸が低くつぶやく。
「俺たち三者三様。状況に応じて、どれが“主役”かは変わるってわけだ」
ムヒが小さく笑った。
「でも、忘れないで。家庭の中で一番信頼されている薬――それが教授にふさわしいのよ」
オロナインは、穏やかに、だが確かな闘志を込めて言った。
この日から、救急箱の中では「教授選」に向けた、水面下の動きが始まる。
次なる戦いの火蓋が、静かに、しかし確実に切られようとしていた。
(第2話 完)