第一話「救箱(きゅうばこ)の静かな夜に」
夜のとばりが降りた住宅街。遠くで犬の吠える声が一つ、また一つ。
小さな家に暮らすのは、父・母、そして中学生の一人娘――ごく普通の三人家族だ。電気が落とされ、台所の奥にある引き出しも静寂に包まれている。
その中に――白いプラスチックの救急箱がある。
赤十字を模した十字マーク。やや黄ばんだ外装。
日焼けしたラベルに「常備薬」と書かれたそれは、かつて“家の守り神”と称された時代もあった。だが今は、時代の変化とともに、少しずつ存在感を薄れさせつつある。
そんな救急箱の中――薬たちは、まるで人間のように、自意識と記憶をもって眠らぬ夜を過ごしていた。
「静かだな……最近はめっきり出番も減った」
重々しく、しかし低く通るような声。
黒光りする小瓶の蓋が微かに震えた。正露丸である。
木の樽を模した重厚なボディ。どこか薬臭いというよりも、宗教的儀式の香りを漂わせるその存在感は、家庭内でも異彩を放っていた。
そのにおい一つで、救急箱を開けた主の後悔を誘う。それでもなお、彼の誇りは揺るがない。
「……なあ、そろそろ次の教授選、近いんじゃないのか」
ムヒがささやいた。
透明感のある細身のチューブ。クールな見た目に反して、若干プライドが高く、何かと突っかかってくる性格である。
「おや、教授職が気になるの? それとも、自分が選ばれるとでも?」
それまで黙っていた、柔らかな乳白色のチューブ――オロナイン軟膏が、静かに応じる。
「教授……そう、救急箱における象徴的な存在。だが私は思うのよ、頻度だけでは測れない、と」
「はっ、そう言うお前こそ、“なんにでも効く”とか言いながら、ニキビに塗ったら余計にひどくなったって娘が怒ってたじゃないか」
ムヒが鋭く突っ込む。
「それは、使用法の問題よ。私はただ、塗られた場所でベストを尽くすだけ」
「ふん、万能感ぶってんじゃねえよ。お前らには胃腸が治せるか? 腸が下れば、ムヒもオロナインも無力だ。俺こそが、非常時の絶対神だ」
正露丸の声には、どこか戦前的な威厳と、自信、そして老いゆく者の哀しみがにじんでいた。
その言葉に、救急箱の中の誰もが一瞬、黙った。
数秒の沈黙――。
そのとき、どこからかカタリ、と音がした。
誰かが寝返りを打ち、床板が鳴ったのかもしれない。いや、ただの冷蔵庫の音か。
「……いずれにせよ、争いは避けられないわね。次の教授選は、きっと激しいわよ」
オロナインがぽつりとつぶやく。
こうして、静かに、しかし確かに――
救急箱の“覇権争い”の火蓋は、切って落とされたのであった。
(第1話 完)