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第一話 春の闇・6

 八時半に谷端家を出て、志郎は駅までてくてくと歩いていた。授業は八時までだったのだがその終了十分前に宅配ピザが届いたのだ。当然汐理が頼んだもので、志郎を夕飯に誘ったのである。家庭教師の仕事をしていて食事をご馳走になることは度々あるため特別断る理由はなかったのだが、しかし志郎は汐理の長い話をひたすら聞くことになるであろうと覚悟することとなり、そして実際その通りになった。Lサイズのピザ二枚を前に、「ダイエット中だから」と彼女はほとんど手をつけずとにかく喋り続けた。おかげで志郎の腹の中はピザで満たされ、高校生の男子とはいえさすがに胃もたれしてしまった。ときどきゲップをしながら志郎は静かに帰路についていた。逐一相槌を打ってくれる志郎を汐理は気に入ったようで、おそらく今後もこういった目に遭うのだろう、と、志郎は改めてこれからの日々を覚悟した。

 十五分の休憩を挟んだ二時間の授業で今日は数学と国語を教えた。予想通り何度も何度も脱線したがそれでもなんとか計画通りに進めることができ志郎はほっとしていた。頭の悪い子ではない、というのが率直な感想で、むしろ彼女はできる方だった。ただ本人の「使ってないから錆びついちゃって」の説明通り、ところどころで正確な理解が追いついていないことがわかった。だから志郎としては今後の方向性が定められたわけだから大きな収穫と言えたし、そして思ったより苦戦しないで済みそうだ、と安堵していた。汐理は何がわからないのかすらわからない、という状態ではなかったからである。

 それにしても、と、志郎は訝しんだ。結局今晩彼女の母親と会うことはなかった。先週出向いたときに父親が単身赴任中であることは知っていたし、母親の仕事の時間が不規則であることも伝えられていた。つまり谷端家は女が一人きりでいる家に男を入れるという状況になる可能性があることを初めから了承していたのだ。その説明を母親から聞いたときもちろん志郎は躊躇したのだが、どうも母親はそのことにあまり興味がないようだった。できるだけ時間内に帰るようにするから、と押されて志郎は渋々引き受けたのである。そして結局今晩彼女の母親と会うことはなかった。まんまと引き受けた自分も自分だが、しかしそれでは娘を持つ母親としてあまりに危機感がないのではないかと志郎は谷端家の家庭の事情にちょっと興味を持ってしまった。むろん、そんなことを汐理に訊ねたりはしないのだが。

 それでも、汐理がなんとなく両親のことを鬱陶しいと思っているらしいということは彼女との会話の中でわかり、かつ学校でもあまりうまくやれていないようであることも話の端々からわかった。「友達たちの愚痴」をひたすら聞き続けたが、志郎の所感ではそもそも汐理自身あまり周囲の人間たちの中に溶け込もうというつもりがなさそうに思えた。今回、なぜ通塾ではなく家庭教師を依頼したのかはついにわからなかったが、見た目より社交的な人間ではないのかもしれない、と志郎は思った。

 辺りはもう真っ暗でここは人通りのない道だった。春とはいえまだまだ寒々しく、志郎はやや警戒しながら進んでいく。この街では不審死の多発事件は発生していないが、やはり警戒しないわけにはいかない。なんといっても殺人事件の可能性もあるのだから。

『先生、童貞でしょ』

 歩きながら、なぜか汐理の言葉を思い出し、志郎はちょっと苦笑した。初対面の人間に対してあまりにも距離感が近いのは生来の性格なのか、それとも何か理由があってのことなのか。まあいい。自分はあくまでも仕事をしに来ているのだ。彼女から悩み事を相談されたりしたらぜひ乗ってあげようとは思っているが、こちらから詮索はしない。それが他人の家に赴き仕事をするという人間のスタイルだ、と、志郎はそう考えているのだった。

「しかし、童貞。童貞ね……」苦笑が止まらず、志郎は星などほとんど見えない夜空を仰いだ。「でも、仕方がないや」

 ため息をついて、独り言を呟く。

「そういうふうにできてないんだもんなあ」

 ぞわっ、と、背中に悪寒を感じた。

 警戒心を露わに志郎は立ち止まり振り返る。直前までの困惑の表情はもはやどこにもない。

 総一朗すら見たことがないほどの鋭い瞳。

 異常な気配。

 張り詰めた空気。

 辺りを見渡す。誰もいないし何もない。だが、()()()()()()()。そう確信した志郎は意識を集中させた。どこだ、なんだ、と、全身全霊で周囲の異変を感知することを自分自身に命令した。

 ––––それはほとんど条件反射だった。突然“それ”が後ろから“来た”とき、志郎は即座に振り返って右手で宙を割いた。右手から赤い光が放たれ、“それ”に直撃し、“それ”はぼとり、と地面に落ちた。

 なんだ? “これ”は? 最大限の注意をしながら志郎は“それ”に近づく。そして、見る。

 “それ”は翼の生えた黒い猫だった。

 そう認識した瞬間、“それ”は消滅した。塵となって消えた、などではなく、まるで初めから存在などしていなかったかのようにその場から一瞬で消滅した。

 もう、周囲の空気は元に戻っていた。異変は去った。志郎の全センサーがそう告げていた。

「……」

 今朝、轢き殺しそうになった黒い猫に似ていた気がする。

「なんだ……?」

 とても理解が及ばなかった。

 だが、心の中に確信めいたものがある。

 これから「飛び出てしまった者」の運命が始まるのだ。

 春の闇の中、志郎はただただ立ち尽くす。まるでそうすることがこれから始まる物語のプロローグであると表現しているかのように。志郎はただ、いまはもう何もなくなった薄暗い空間をじっと見つめ続けていた。

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