第一話 春の闇・5
隣町に向かう電車に乗り、志郎は腹を軽くさすった。昼食後、智子お得意の手作りシュークリームをたらふく食べ、しばらく腹休めをしてはいたがやはりちょっと食べすぎてしまった影響が出ている。特に身体を鍛えているわけではない志郎の腹はまだ少しぽっこりと膨れていた。いまは若いからすぐ消化するが、このまま運動不足が続くのはまずい、と志郎は案じていた。同じように積極的には特に鍛えているわけではない総一朗の腹はそれほど膨れていなかったため、やはり日常的にウォーキングぐらいはした方がいいのだろうか、と、志郎はこれからの生活スタイルについて多少考えを巡らせていた。
今日から務めることになる家庭教師の授業は六時からの二時間だった。時間のことを考え五時過ぎまで織部家で世話になっていて、時間的に夕飯はいらないな、と何気なく呟いた志郎の一言を智子は聞き逃さなかった。「このまま夕飯も食べていきなさい!」と叫ばれてしまったのだ。それは確かに悪い話ではないが、バイトがあるので、と志郎が説明したら智子は渋々折れた。玄関先で「またいつでも来なさいね!」と智子は志郎の姿が見えなくなるまで大きく手を振っていた。
悪い人ではないのだが、と、志郎は智子の顔を思い浮かべた。悪い人ではないどころかどこからどう見てもいい人で、多少ハイになることはあれど志郎は彼女のことを鬱陶しいと感じたことはただの一度もない。ただ、できるだけ関わりたくない、という発想がどうしても浮かんでしまうのも事実である。だから志郎は中学卒業とともに一人暮らしを始めたのだ。当然猛反対されたが、しかし智子自身、わからない話ではない、と心で感じていて、だから最後には月五万円の仕送りを受け取ってもらうことだけ了承してもらい快く送り出すことにしたのだった(ちなみに志郎は仕送りの金を一切遣わず全て貯金している)。
悪い人ではないのだ。いつも自分のことを総一朗に対して思うように大切に思ってくれている。感謝してもしきれない。だが彼女は「気ぐらい遣わせて」と言うが、それはただ「気を遣っている」だけではないことを、志郎は知っていた。
やめよう、と、志郎は頭を振った。あまり深いことまで考えるのはやめよう。それより新しい生徒に受け入れてもらえるかどうかを心配した方が建設的だ、と思った。こんな話はとても総一朗にもできない。とにかく織部家には感謝の念を抱いていればいいのであって、余計なことを考えてはならない、と、志郎はいつも自分の心に注意喚起を繰り返していた。
さて、今日から担当することになる高校生とはどんな子だろう、と、志郎は期待半分不安半分だった。一週間前に手続きのため訪れた自宅マンションで、彼女の母親と挨拶並びに契約は交わしたのだが彼女自身には急用ができたということでまだ会えていなかった。一応顔写真を見せてもらったが、ちょっと俯き加減のおとなしそうな少女だな、というのが志郎の感想だった。彼女が思う通りに成績を伸ばしてあげられたらいいのだが。そのためにやれることはやれるだけやろう。もう仕事モードに入らねばならない。いろいろと考えているうちに電車は目的駅に到着して、志郎は降車した。
「……」
志郎はいま目の前にいる女の子の態度に絶句していた。
「だからさ、あたし言ってやったの。『そのセリフそっくりそのままお返ししてやるよ!』って。だって、私が間違ってるなんて頭から決めつけないでなんて言われたら頭に来るじゃん、いやそれおめーだろって」
新しい生徒・谷端汐理は挨拶もそこそこに志郎に対して友達の愚痴を言っていた。それも彼女によると、向こうが勝手に自分を友達だと思ってるだけで汐理自身はその相手に対して別になんとも思っていないとのことだった。志郎がそれを理解するのにはだいぶかかった。それだけ彼女は細かい説明を省きながら喋り通しているのだった。
「……」
「ね、先生はどう思う? やっぱり相性が悪いのかしら。縁切ろうかなーと思うんだけどあたしがハブられたらめんどいし。ああ、そういう子なのよその子。意地悪いよね〜。それもこれもそっちがしつこいからなのにさあ〜」
「……」
「ああ、ごめんね。意見求めといて自分の話ばっかり。で、先生はどう思う?」
いきなり話を振られて志郎は戸惑った。
「どうと言われても……」
「まあねー。でも実はあたしの中で答えはすでに出てんのね。こうなったらその子を利用じゃないけどみんなとうまくやっていくための道具? みたいに思ってればいいのかな〜って。でもさあ、やっぱ腹立つもんは腹立つのよね。あー、高校選び失敗したわー」
よく喋るギャルだ、と、失礼な言いようだと自分でわかってはいたが、しかしそんな感想を志郎は彼女に抱いていた。写真の印象とはだいぶ違っており、そもそも顔が違う。高校デビューでギャル化したのだろうか。メイクと表情でまるで別人だったし、「俯き加減のおとなしそうな少女」とはとても言えなかった。玄関で出迎えてくれた汐理の姿を見て、てっきり姉か妹かと思ったほどだった。だから自分が谷端汐理であると名乗る彼女についついびっくりしてしまい、志郎は少し反省した。
悪い子ではなさそうだった。とりあえず自分が拒絶される心配はなくなったと見ていいだろう。この家庭教師業をする中、なかなか心を開いてくれない児童生徒は別に珍しいものではなかった。ところが汐理は志郎の「学校での様子はどうですか?」という一言で一気に弾けた。まずは数学から始めてみよう、という志郎の計画は早速頓挫していた。彼女がどれぐらいできるかわからなかったためとりあえず数Ⅰの復習からやってみようと教科書を開いたまま志郎はさっきから十五分以上も彼女の雑談に付き合わされている。しかしいつまでも愚痴に付き合っているわけにはいかない。自分はあくまでも仕事で谷端家に来ているのだ。
「でさ、さっきの話に戻るんだけどさあ」
「あの〜」このタイミングで大丈夫だろうか、という一抹の不安をよそに、志郎は話し始めた。「授業をしようと思うんですが」
「するよ? するけどさ? やっぱりこれからしばらくお世話になるんだしあたしのこと知ってもらいたいなと思って」
「喋るのが好きな人なんだろうなと思ってます」
「そう! そうなのよ! あたしよく言われんの。『お前、黙ってればかわいいんだけどな』って。でもあたし思うの、無口な女が彼女ってどうなんだろ。やっぱりコミュニケーション取れる女が一番いいと思うのよ。ていうかていうか! あたしそもそもかわいいし! みんなどこに目ぇつけてんのかしら。あーでもコミュニケーションどうこうっていっても男はちょっと無口な方がいいかも。男はね〜やっぱお喋りはね〜。ま、ぶっちゃけイケメンならそれでもいいんだけどさ」
「はあ」
「いや、先生がイケメンじゃないって言ってるわけじゃないのよ? 先生なかなかイケメンだと思うの。ハマる人はすごいハマるんだろうなーって感じ」
「あの〜」
「ん? 何? あ、ごめん。この言い方じゃ先生イケメンじゃないって言ってるみたいね。いやでもやっぱ頭のよさそうな人だな〜っていうのをまず思う感じの顔よね。実際頭いいんでしょ?」
「勉強はしてますが」
「勉強ね〜。学校って勉強さえなかったらなあっていつも思っちゃう。将来のためにって言われてもなんか説得力ないよね〜って思うの。だってほら、教科書なんてせいぜい一年間限定のお付き合いじゃん? 将来のためっていうならあるいは五年とかは読むべきじゃんね。でさあ」
「あの、谷端さん」
「何何? 面白いこと?」
「あの、本当にそろそろ授業を始めたいのですが、いいでしょうか」ここで切ってしまったらまた相手のペースに乗せられてしまう。そう確信して志郎は続けざまに言った。「僕、別にお喋りをするために来たわけじゃないんです」
「でもさあ、無言で授業っていうのもヤじゃない?」
「いや、無言でってことはないですし、僕でよければそりゃ愚痴も聞かせていただきたいんですが、でも––––」
「やっさしい〜! なに、家庭教師ってみんなそんなに優しいの? だったらもっと早く頼んでればよかった〜」
なんとかして自分のペースに乗せなければならない。とにかく志郎は会話を続けることにした。
「今からでも全然遅くないんですよ。勉強なんて始めようと思った日が吉日です」
「思い立ったが吉日、ね。いい諺だよね〜。いや慣用句だっけ?」
「諺です」
「瞬時にすごいね!」
ここだ、と志郎は思った。
「そういうふうに頭を使えるようになるために必要なのが勉強です。目的があると勉強はとても楽しいんですよ。谷端さんだって何か目的があって僕を呼んだんでしょう?」
「え。うん、そう。そうなの」
おや、と思った。さっきまでの勢いが少し衰えている。自分の説得が効いているのだろうか、と、志郎は失いかけていた自信を取り戻し始めた。
「よかったらその目的を教えていただけたら、これから教える立場の者として充分参考にしますよ」
「う〜ん……そうねえ、そうよねえ……」
なんだか歯切れが悪い。困ったな、という表情を汐理はしていた。あまり踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのだろうか。志郎はちょっと身構えた。
「目的っていうほどのもんでもないけどさ」と、汐理は説明を始めた。「やっぱ頭いい方がいいじゃん。ていうか頭がよさそうって思われたいわけ。だ〜け〜ど〜勉強はしたくないのよね。凄いジレンマ」
「どうして、頭がよさそうって思われたいんですか?」
「その方がモテるじゃん? やっぱ人間誰しもモテたいって思うもんだしさ、それはあたしとて例外ではないわけ。女はバカの方がモテるとか現実問題マジあり得ないし。でしょ? じゃない?」
「いや、僕はモテるとかモテないとかはあまり関心がなくて。ただどんな目的であれ––––」
「え、違うの⁉︎ 先生モテたいって思わないの⁉︎」
あまりにもびっくりされたため、志郎は一瞬怯んだ。
「僕は別に」
「は、は〜ん。わかったわかった」
「何が」
「先生、童貞でしょ」
さすがにあっけに取られてしまった。いくらなんでもプライベートに踏み込みすぎだ。これは毅然とした態度でしっかり抗議すべきだと思った。
「経験ないからリアリティ感じないってタイプね」汐理はニヤニヤしている。「あたしが教えてあげようか」
「結構です」即答した。
「つれないの」
「あの、谷端さん。僕もそこまでプライベートな話はしたくありません。踏み込んでほしくないところに踏み込まれるのは心外です」
「別に恥ずかしいことじゃないのに」
「そういうことじゃなくて」
そこで彼女はシャーペンを手に取った。
「ところで勉強しない? せっかく来たのにいつまでもお喋りっていうのもよくないと思うの。お給料払うんだからちゃんとあたしの成績上げてね。志郎先生って呼んでもいい? あたし先生のことちょっと気に入ったかも」
「……」
なんだか不思議なタイミングでの提案だったが、とにもかくにもようやく授業をさせてくれるようだった。変わった子だな、と、志郎は改めて汐理に対しての感想を抱いた。これからこの子とちゃんとやっていけるだろうか。いや、やるしかない。彼女が言うように確かに給料をいただくのだ。少なくともその額に見合うだけの結果は出さなければならない。そして授業を開始した。しかしそれでも心のどこかで本当にこの子とうまくやれるのだろうか、という不安感が拭えないのもまた正直な感想だった。