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第一話 春の闇・4

 自転車の鍵は、机の上にあった。

 だが志郎はどうしても違和感を覚えずにはいられなかった。机の上に置いた覚えはない。しかし先日自転車を使用したときのことを思い返してみたが、それは三日前に買い物をしたときのことでとてもそこまで細かいことは思い出せなかった。だがそれにしても鍵を置きっぱなしにしていたとして昨夜勉強している最中に気にならなかったのが不思議である。昨日徒歩で買いに行った新しい赤本2冊があまりにやりがいがあったため無視してしまったのだろうか、と思った。細かいことがいちいち気になるタチなのだ。そのおかげで困った目に遭ったこともあれば、役に立ったこともある。一応念のため鍵を手に取って意識を集中させてみたが、()()()()()()()()()()()()()()()()ためやはりうっかりしていたのだろうと結論づけた。気にはなるが、大したことではない。いや、今後のことを考えれば今回うっかりミスをしてよかったと思う。日々生きていればこんなこともあるのだからこれからは気をつけなければならないな、と、志郎は自分を戒めることにしてこの問題に終止符を打った。

 コーヒーを淹れ、一服しようと思い志郎は床に座ってセブンスターを一本吸い始めた。空きっ腹に煙草はきつかったが、やはり美味い。志郎はゆっくりと煙を吐き出した。

 真面目すぎるほど真面目な志郎だが、悪に魅力を感じる気持ちがないわけではない。一人暮らしを始めたとき、興味本位でちょっとだけと思ったのが定着してしまった。いまでは完全にニコチン中毒者である。もっとも1日十本以下程度だが、それも時間の問題だ。なんといってもまだ吸い始めてから二年しか経っていないのだから。

 未成年の喫煙行為は確かに褒められたことではないが、それにしてもそれだけで不良になるほどのことではない、と、志郎は思っていた。だからなんだ、と、この秘密を唯一知っている総一朗にはしょっちゅう言われているが、ただその全面的に自分に非があるというやり取りにちょっとだけ喜びを感じているのも事実である。好きで優等生をやっている志郎だが、そんな自分にいくらかコンプレックスを抱いていた。それにしてももうちょっとはっちゃけられたらなあ、という気持ちを抱いているのだ。しかしどうしても真面目にしてしまう。喫煙は志郎にとってその「ちょっとはっちゃけられ」る唯一の手段だった。しばらく禁煙する気はなかった。そのせいで出費が増えるのも頭の痛い事実だが、そこはニコチン中毒者、自分にとって都合のいいように現実を捻じ曲げ続けているのだった。

 セブンスターを楽しみながら志郎は今日これからの予定を頭の中で反芻した。割と反芻しなければならない用事が一つあった。このあと総一朗の家で昼食をご馳走になったそのあと、アルバイトの家庭教師に一軒だけ行かなければならない。それだけなら日常の出来事なのだが、今日から受け持つことになる生徒というのが今年から高校二年生となった女の子なのだ。まさか高校生の自分が高校生に勉強を教えることになるとは、と、上司からその話を聞いたとき志郎は大いに戸惑った。どうやらそれは向こうのリクエストで電話で志郎を指名してきたということだった。むろん志郎の学力、実力をもってすれば務められる自信はある。だがそれにしても大学生などもっと大人の人間が担当した方がいいのではないだろうか、と、やっぱり考え込んでしまう。しかし、志郎の勤務する家庭教師の仕事は個人の学習塾が並列で行っているもので、どうしても集団で授業が受けられなかったり不登校だったり、通塾することが難しい児童生徒に対しての受け皿として機能している。同世代の自分を指名してきたぐらいだから、あまり大人と関わりたくない少女なのかもしれない、と、志郎は思った。ことの真相はわからないが、仮にそうだとしてその気持ちはわからないでもない。現時点においては全てが想像だったが、最終的に志郎は、やらせてください、と自ら申し出た。そして初日となる今日を迎えたのだった。週二日二時間、英数国三教科を教えることになっている。気合を入れよう、と、志郎は頬を叩いた。

 灰皿に煙草を揉み消し、出かける準備を始めた。織部家で食事をいただくのは毎度のことだった。総一朗の母・智子(ともこ)の料理はどれもこれも美味しい。空腹の自分には特別満足感と幸福感を得られるだろう。期待で胸が膨らむ。コーヒーを飲み干し、志郎はちゃんと自転車の鍵を持っているかどうかを確認し、アパートを出た。


「いらっしゃーい!」

 と、織部智子は満面の笑みで志郎を迎えた。

「なんだか久しぶりね志郎くん! 一週間ぶりかしら!」

 実際に一週間ぶりで、その日も食事をご馳走になっていたのだが、智子からすればそれはそれは長いこと会っていないように感じられるのだった。この母親のテンションにはいつもちょっとだけ狼狽えてしまう。志郎は頭を下げた。

「今日はお招きありがとうございます」

「そんなご丁寧に! いいのよ、この家はあなたの家でもあるんだから! 総くん! 志郎くん来たわよ!」

「その呼び方いい加減やめてよ……」と、総一朗は困り顔で玄関に降りてきた。「おっす」

「おっす」と、志郎は手を振った。「今日はほんとにありがとう」

「気にすんなって」

「なんかあったの?」と、智子は興味半分心配半分で二人に訊ねた。「面白いことだったらいいんだけど」

「僕がちょっと寝坊して」タンデムの件はうまく誤魔化すことにした。「総ちゃんを待たせちゃって」

「あら、寝不足? 大丈夫? ちゃんと寝てる?」

「平気です。うっかりしちゃったみたいで」

「モーニングコールしてあげればよかったのに」と、智子は総一朗を小突いた。「あんたももっと余裕持ちなさい」

 智子の提案に総一朗はハッとした。

「そ、そうか、電話ね……そうだよな、そうすりゃよかった。今度からそうするよ」

 そこで志郎はあたふたしながら前に出た。

「遅刻しないように気をつけるから、だから二人とも、そんなに気を遣ってくれなくていいのに」

「なーに言ってるの! 気ぐらい遣わせてよ! 中学出て志郎くんが一人暮らしなんか始めちゃったから私たち寂しくて寂しくて。総くんいつもつまんなさそうにしてるのよ」

「だってつまんないもん」と、総一朗は口を尖らせ正直に言った。「ずっと一緒にいたのに」

 げらげらと笑いながら智子は自分より遥かに背の高い息子のその背をバシッと叩いた。

「あんたも図体はでかいのに志郎くんいないとダメダメね! ま、とにかくご飯にしましょ! こっちおいで二人とも! 今日はご馳走よ〜!」

 智子に急かされて志郎たちは居間に入った。すでに食事の準備は完了している。メニューは、鶏の黒酢煮・里芋煮・豆サラダ・カルパッチョ・ほうれん草白和え・味噌汁。炊飯器から智子が二人の分のご飯を大盛り、自分の分を少なめに盛ってそれぞれの指定席に並べた。三人で食卓につき、手を合わせた。

「いただきます!」と、智子。

「いただきます!」

 志郎と総一朗は食事を物凄い勢いで食べ始めた。特に志郎はこれが今日最初の食事だ。どれもこれも美味しい。さすがおばさん、と、志郎は味をひたすら噛み締めながらどんどん食べていった。

「いい食べっぷりねえ。さすがDK」

 感嘆する智子に総一朗が空っぽになったご飯茶碗を差し出した。

「おかわり!」

「はいはい。ゆっくり食べなさい」

「あの、おかわりを」

 と、茶碗を差し出す志郎に智子はピシャリと言った。

「おずおずしない! 志郎くん? この家はあなたの家なんだから総くんみたいにしてていいの!」あっという間に志郎のご飯を再び山盛りに盛って智子は言った。「楽に過ごしなさい」

「は、はい」

 いつ来てもこの母親のパワーには圧倒される。他の友達の母親とも何人か会ったことがあるがここまでではない。やはり彼女自身の性格によるものなのだろうか。

 それとも。

「それにしても志郎くん、ほんと大きくなったわねえ」嬉しそうに智子は言った。「この家に来たときはこんなに小さかったのに」

 と、智子は床の上すれすれに手を置いた。

「誇張表現は使い勝手が難しいぜ」

 総一朗の言葉に、智子は笑った。

「でも本当に小さい子だなと思ったのよ。それまではそんな風には思わなかったのに」

 それまで猛スピードで食事をかっ込んでいた志郎と総一朗は一瞬、静止した。その瞬間、智子はハッと自分の失敗に気づいて一気に会話を別方向に展開させた。

「子どもの成長はあっという間ね! たくさん食べてるの見てるだけでこっちもお腹いっぱいだわ。ほらほらもっと食べなさい、おかわりたっくさんあるからね!」

「はい」と、志郎は微笑んだ。「ありがとうございます」

「いいのよ〜!」

 けらけらと笑う智子を横目に、ふと総一朗を見ると、志郎を心配そうにじっと見つめていた。食事を続け上目遣いにうなずきながら、あんまり考えるな、そう言っていた。

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