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第一話 春の闇・3

 始業式は退屈に進んでいった。なぜ退屈に進んでいったかという五年前から勤めている校長の立川普賢(たちかわふげん)が休んでいたからだった。代理の副校長によると家庭の事情だそうで、始業式の日に校長が欠席という事態もこれは仕方がない、と全員が思った。しかし一方でこれは残念な出来事だった。立川校長は人気者だった。

 赴任以来、彼はアッと驚くパフォーマンスを続けてきた。公立の学校の運営に校長の権限がどこまであるのか志郎は知らない。しかし少なくとも職員会議で決定するようなことであれば絶対の権力を持っているのだろう。学校予算を見事に使い、暇ができたと思えば校内を見回り生徒と対話し平和と秩序を守り続けた。おかげで遅刻早退は激減したし、真面目に授業を受けることが生徒たちの平凡な日常となった。しかし決して画一的なスタイルを取っているわけではなく、あくまでも自主的な生活を謳い生徒たちには“考える”ということを訴え続けている。教員たちも積極的にリーダーシップを取ってくれる校長に安心感を抱いていたし、そして彼の政策は多くの生徒たちに人気だった。例えば今回の一斉テストにしろ、もちろんその科目を勉強していない生徒にとっては受難ではあるのだが、なんと一番になったクラスには賞品が出るのだ。今回は校長自腹の無料焼肉券だそうで、だからこそ総一朗も積極的に抗議運動をせず愚痴を言いながらも地道に勉強していたのである。

 他にもそれまで球技大会といえばバスケットボールかバレーボールだけだった篠沢高校に、希望者には追加競技ということでビリヤードを導入した年は誰もが驚いた。確かに“球”技だが……と全員の頭に疑問符が浮かんだのだが、しかしそれが凄まじく大盛況だった。運動音痴の志郎もバスケットボールではチームの足を引っ張りまくったがビリヤードではなかなかの好成績を収めた。さて、今年の球技大会はどうなるのだろう。ちなみにビリヤード台はDIYが趣味の立川校長の手作りで、そのデザインセンスも彼の人気を高めた。

 本来学校行事にさほど興味のない志郎も場合によっては非常に情熱的になった。例えば学園祭。毎年、集客率の高かったクラスには東京大学に進学した生徒の現役時代のノートのコピーが与えられるのだ。よって志郎は学級委員長としての権力、そして成績上位者としての実力を活かして毎年コピーを得た。おかげで東大理Ⅲを受験するにあたってかなりの自信と闘争心をも得られたのだった。

 主に始業式を執り行っていた副校長が今年入学した新一年生たちに改めてこの高校が単位制の学校であることを説明した。必修科目は当然勉強するとして、基本的には自分で履修する科目を選ぶのである。一年生の頃はあまり選択肢はないのだが、二年生からはかなり自由度が高まる。だから例えば志郎と総一朗は学校行事そのものは三年二組で行うが、授業自体はいつも一緒にいるわけではない。むしろ志郎は理系で総一朗は文系なので一緒の教室で勉強することはあまりなかった。お互いの時間割はお互いの要望をすり合わせて決めている。例えば体育の授業は総一朗に合わせてもらい、数学や英語の授業は志郎が、という具合だ。この制度は生徒たちに概ね好評だった。ただ一方で自分で選んだことの責任は自分で取らねばならないというプレッシャーとも戦うことになる。二年生、そして三年生と数学を取らなかった総一朗は進路が大幅に狭められる。それをよく理解した上で彼は選ばないことを選んだのだ。総一朗の志望校は音響系専門学校なのだが、いっときの気の迷いかどうか、彼なりに苦悶した結果である。総一朗の夢はプロのギタリストだった。

 何事もなく始業式は進んでいった。先ほどの多部と同じ警告を副校長が伝えたときは体育館中がざわめいたが、しかし気をつける以外にできることがあるわけではない。志郎もしばらく警戒しながら生活しなければ、と、心に固く誓った。

 その後は各自教室に戻り英数国の一斉テストを受けた。志郎はどの教科も他の生徒たちが半分まで進めた辺りですでに見直し作業に入っていた。普通、どんなに優秀でも得意科目と苦手科目がありそれぞれ多少のばらつきがあるものだが、志郎は全教科満点が常態だった。文理で分ければ理系、というだけで、志郎は大抵の大学ならどこでも合格する自信があった。もっとも体育だけが彼の鬼門なのだが。

 本当に昔から体育が苦手だった。現在百七十三センチメートルの志郎だがその身長は小学生の頃とほとんど変わらない。背の順で並んだときいつも最後尾の総一朗の直前にいたものだ。よって「背が高いから運動ができる」と期待され、そしてやってみて失望されるという理不尽な目に遭い続けてきた。年齢が幼い頃はスポーツができるかどうかで教室内の立場が変わるものである。スポーツ万能で人柄もいい総一朗に何度助けられたかわからない。志郎は親友にいつも感謝していた。

 掃除が終わり、ホームルームである。何事もない一日だった。ただ、志郎は千絵の包帯のことがなんだか頭から離れなかった。彼女とは友人、といえるほどの関係性ではなかったが、二年間ずっと相棒だったし助けられてきた恩もあり、左手とはいえ怪我をしているなら何か困ったことにもなっているだろう、と思い、ホームルームが終わってみんなが帰宅の準備をする中、志郎は千絵に話しかけてみた。

「お疲れ様、宮嶋さん」

「お疲れ様。何事もない始業式でよかったね」と、千絵は笑った。「校長先生はお休みだったけど」

 いい切り口を与えられた、と、志郎は思った。「家庭の事情ってことだけど、誰か病気でもしたのかもしれないね」

「そうだね。何事もないといいけど」

「校長先生のご家族もそうだけど、宮嶋さんも、その手、どうしたの?」

「この手?」

 と、千絵は長袖をちょっとめくった。少なくとも包帯は腕まで巻かれていた。

「怪我でもしたの?」

「昨日ちょっと戦っちゃって」

「え?」

 あっけに取られた志郎を見て千絵はくすくす笑った。

「だから好きだよ、山岡くん」

 彼女が誰に対しても好意を示す少女であることはわかっていたが、それでも好きと言われるとやはりどぎまぎしてしまう。すぐ千絵の冗談であることがわかって、志郎は黙って話を聞いた。

「植木鉢が落ちてきて」

 という千絵の発言に志郎は目を剥いた。

「えーっ!」

「でも、二の腕までいかなくてよかった。これからは気をつけなきゃ」

「気をつけられる? 僕は正直ちょっと自信がないな。そりゃ歩いてれば上から重たいものが落ちてくる可能性があるっていうのはわかるんだけど」

「頭に落ちなかっただけ幸運だった、と思った方がいいんだろうね」

「まあ、まとめ方としては。でも、うん、気をつけて生活していかなきゃ。不審死も相次いでることだし」

 このところ近隣を騒がしている不審死の多発事件というのは、これだけ“不審死”が続けば殺人事件が連続発生していると断じてもよさそうなものだったが、しかしそれはあくまでも“不審な死”と呼べるものばかりだった。他殺かどうか、いまひとつ判断できないのである。例えばゴミ捨て場に手首を切って死んでいた男性がいたと思えば、道路上で自分の爪で喉を掻っ切ったらしい女性がいたり、そういった出来事がこの二週間で七件も続いていた。殺人事件というよりどちらかといえば自殺事件の多発なのである。しかも被害者たちに共通点は何もない。ただ、警察としては「自殺事件が多発しているので自殺をしないように」などととんちんかんなことは言えなかったため、不審死が相次いでいるから警戒するようにという表現にとどめているのである。もちろんこれが他殺ではないという可能性もないわけだから気をつけるに越したことはない。しかし実際のところ住民たちは具体的に何をどう気をつければいいのかわからず、だから概ね多部の説明通りの生活を続ける以外にはなかった。

「ただ掠った程度で、一応検査してもらったんだけど、骨に異常はないけど念のためってことで包帯を巻いてもらったの」千絵はちょっと恥ずかしそうに言った。「みんなにどうしたのって言われて、ちょっと申し訳ないなって」

「罪悪感を覚えることじゃないでしょ」

「そうなんだけど、びっくりさせちゃうから。実際、君もびっくりしたでしょ。なんだか戸惑わせてるみたいで申し訳ないなって。やっぱり場所が場所だから自殺未遂とかって思われても無理ないし」

「そんな。とにかく大事になってないみたいでよかったよ」

「ほんとだね。心配してくれてありがとう」

「何か困ってることがあったら、ぜひ」

「うん。ありがとう」

 千絵はにっこり微笑んだ。

 この女の子はなぜいつもにこにこしているのだろう、と、志郎はいつも不思議だった。なんとなく、家庭環境に恵まれているのかな、と、思っている。ただ家庭環境に関しては自分自身あまり追及されたくないことが多いので、志郎は他人にプライベートなことは聞かないことにしている。ただ、もし家族に愛されている結果の微笑みなのだとしたら、いいな、と、志郎は思った。

「じゃ、また明日」と、志郎は手を振った。

「うん。明日もよろしくね」

 そして千絵は帰っていった。そのタイミングを見計らって総一朗が志郎のもとへ近寄った。

「宮嶋さんと話済んだ?」

「うん」

「おっし、じゃ、うちで昼飯だ。母さんに連絡したらいつでもオッケーだって。志郎が来るならって張り切ってたよ」

「タダ飯食らいで面目ない」

「勉強だったり音楽だったりいつも助けてくれてんじゃん」と、総一朗は白い歯を見せて笑った。「志郎がうちに来れば母さんも父さんも喜ぶしさ」

「“キョンシーおじさん”もいるの?」

「まさか。平日の昼間だぜ」

「おばさんもパートのあとで疲れてるだろうに、ほんとに悪いな」

「ご馳走が作れて嬉しいって言ってたよ。じゃ、帰ろ!」

 二人は教室を出て、帰路に着いた。しかし帰り道はタンデムするわけにはいかない。緊急事態だから仕方がない、と朝は自分に言い聞かせたが、やはり性根が生真面目な志郎にルール違反はできない。いったん自宅に帰ってからお邪魔する、と言って、総一朗を先に帰した。

 青空の下、志郎は考えた。さて、自転車の鍵はどこへやったのだろう。確かにカバンの内ポケットに入れておいたはずなのだが。それは他人からすればあまりにも小さな疑問だったが、しかし志郎からすれば非日常的体験だった。それだけ志郎はいつも几帳面な人間だったからだ。

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