第一話 春の闇・2
……気づいたら正面玄関にいた。
「総ちゃん?」と、志郎はぼんやりしている総一朗に声をかけた。「どうかした?」
その声に気づき、総一朗はハッとした。
「猫は⁉︎」
「さっきの子ならどっか行っちゃったよ。学校には入ってないけど」
「––––」総一朗は混乱した。「え、なんで俺たち学校にいるの?」
「今日が始業式だからだよ」
「そうじゃなくて––––自転車ミスって––––」
「僕も事故るかと思ったけど、そこはさすが総ちゃん」志郎はにこにこしている。「やっぱり運動神経がいいんだなあ」
「……?」
志郎は総一朗の肩をぽんと叩いた。
「パニクって記憶喪失かな」
「えーと」
「とにかく僕らが無事なのが僕の言ってることの正しさの証明じゃない?」
「あー……」
そこで状況を完全に理解した総一朗は目を剥いた。
「いま何時だ!」
「あと五分でホームルーム始まっちゃうよ。急がなきゃ」
「そうだそうだ! 急げ急ごう!」
そして二人は上履きに履き替え、校内に入った。
校内にちらほらいた生徒たちは教室へと入っていく。これからホームルームだ。全生徒が無事進級していた。新年度が始まったことだしそれに安堵の気持ちを抱いている者は誰もいなかった。穏やかな春の朝だった。
階段を上り、志郎たちは三年二組の教室の扉を開いた。
「遅いぞー、学級委員長」と、前年に引き続き担任となっていた多部という女性教師が志郎に声をかけた。「原因は織部かー?」
「ひでえや先生」と総一朗は顔をしかめた。「志郎が手こずっちゃって」
「へえ、山岡にしては珍しいな。ま、それはともかくホームルームだから委員長は準備しとけ」
「ちょっと待ってください」と、志郎は異議を唱えた。「また僕が学級委員なんですか? それは今度のロングで決めるのでは?」
「お前が一番適任だからな。宮嶋はもう納得してるぞ」
多部のそばにいた同級生の宮嶋千絵が志郎を見て微笑んだ。
「おはよう、山岡くん。織部くん」
「おはよ!」と総一朗。
「おはよう宮嶋さん。いいの? これじゃ三年連続だけど」
「いいよ。なんだか板についちゃったみたいで」
「うーん、じゃあ、いいか」と、志郎は諦めた。諦めたのだが、仕方がないな、と、ちょっと笑った。「そういう運命なんだなあ」
そのときチャイムが鳴り、その最中に蒔菜と紗耶香が教室に入ってきた。この二人が最後だった。
「間に合ったー!」
と、紗耶香はため息をついた。
「おはよう真島、飯沢。お前らはいつもギリギリセーフだな。原因は飯沢かー?」
「はい‼︎」と紗耶香は声を荒げる。「蒔菜が定期券買ったのに定期入れに入れてなくて別のカバンに入れてたのバスが来て気づいてあたしらお金なくて––––」
「わかったわかった、まあいつものことだなー。じゃ、ホームルーム始まるから全員席についてー」
それぞれが、席についた。
チャイムが鳴り終わり、志郎は立ち上がった。「起立、礼」
「おはようございます」
立ち上がったクラス全員が、一堂に声を揃えて頭を下げる。
「着席」と、言って、それぞれ椅子に座る。
教壇に立ち、多部はクラス全員を見渡しながら言った。
「おはよう! というわけで担任は引き続き私だ。三年間お前らの担任ができて嬉しい限り。で、今日から新学期だ。みんな元気に最後の春休み過ごしたか? 犯罪っぽいことしてないといいけど。ま、それもそれで青春の一ページにはなるんだけどまあともかく」多部は出席簿を手に取った。「出席をとるぞー」
あ行からクラスメイトたちの名前をフルネームで呼び、呼ばれた生徒が返事をする。
(そうか、最後の春休みだったのか)と、志郎はふと思った。(もう三年生で、もう受験生か。このメンバーとももう最後か)
篠沢高校に入学した日も今日のように穏やかな晴天だったことは忘れられない。満開の桜の木の下でこれからどんな高校生活が始まるのだろうと二年前の自分は面白いぐらいにときめいていたことを思い出す。そして実際楽しいことばかりだった。もちろん嫌な出来事も多々あったが、それが気にならないぐらい楽しい二年間だった。それもこれも総一朗のおかげであり、そして学級委員の相棒である千絵のおかげだった。自分がいい高校生活を送れているのはこの二人が日々たくさん助けてくれたからだった。そしてこの最後の一年間も二人に守られながら過ごしていくのだろう。もちろん自分もこの二人が困っているときは助けてあげたい、志郎はいつもそう思っていたしこれからもそう思うだろう。この高校最後の一年間もいい年になるといいな、と、志郎は前準備のように少しだけ笑ってみた。
「山岡志郎」
と呼ばれ、志郎は返事をする。
「はい」
「はい、九時だよ全員集合」誰も表情を変えない。「知らんか」
先生だって世代ではないのでは、と、志郎はちょっと疑問に思った。彼女が昭和レトロの愛好家であることは知っていた。
「はい、では学級委員のお出ましだ。山岡、宮嶋、おいで」
「はい」
二人は声を揃えて正面へと向かっていく。
「では、ホームルームを始めます」と、志郎が教壇に立ち、千絵はチョークを手に黒板を向いた。「といっても今日これからの予定に変化があるわけではなさそうですが」多部の方を向いたら彼女はうなずいた。「はい。えーと、では、このあと体育館で始業式です。それが終わったら一斉テストです。このテストは中学レベルの英数国三教科総まとめなので、それぞれを今年度の履修科目に選んでない人もみんな受けます。順番は、英・数・国。一科目四十五分、休憩は十五分」千絵が黒板にきれいな字で素早く9:15始業式 9:45〜10:30英 10:45〜11:30数 11:45〜12:30国と書いた。「それから教室と教室前の廊下の掃除をして、ホームルームをして一時に解散です」12:30掃除 12:45ホームルーム 13:00解散「今日の予定は以上です。そして明日からは通常運転。何か質問のある方」
「はーい」
と、総一朗は手を挙げた。
「はい、織部くん」
「何のために三教科受けるんですかー? これからの一年に関係ないじゃないすかー」うんうん、と、総一朗と同じ境遇の生徒たちはうなずいた。「だって、数学の出来が良かろうが悪かろうが全然関係ないじゃんね」
「関係ないんだけど校長先生の趣味だから」
「いやだからさあ」いつも何か企んでそうな表情の立川校長が頭に浮かんだ。「なんで校長の趣味に俺らが付き合わされなきゃなんねーのかっていう」
「それはやっぱり誰も本人に文句を言わなかったからだと思います。実際、総ちゃん何もしなかったでしょ。愚痴ってるだけで」
ぐっ、と、総一朗は言葉に詰まった。
「いやでも常識的に考えて」
「常識的に考えた場合、異議申し立てをしなかった私たちの責任なのです」と、志郎はとどめに入った。「これからは文句があったらきちんと言いましょう。何かが変わるかもしれません。声が大きければ大きいほど」
総一朗たち数学嫌いは、もう何も言えなかった。
そこでいつの間にかみんなの方を向いていた千絵が言ってみた。
「数学そのものというより、数学的思考が大切だって校長先生は言いたいんだと思うの」
「さすが宮嶋さん」志郎はパチパチパチと軽く手を叩いた。「というわけで、他に質問のある方」
誰も手を挙げなかった。
「はい。では、多部先生、よろしくお願いします」
「はい。というわけで重要事項は全部山岡が伝えてくれたので、ここからは警告ね」
警告、という単語に教室中がざわめいた。気にせず多部は続ける。
「みんな知ってると思うけど、最近、この辺で不審死が続いています。他殺の可能性もあるとのことなので、みんな外出時は充分気をつけるように」
「気をつけるとは具体的に」と、志郎は誘導された通りに質問した。
「できるだけ人通りの多い道を歩くこと。夜間の外出を控えること。怪しい人物に近づかないこと。などなど」
「もし殺人事件だとして、犯人に出会ってしまったとしたら?」
「とにかく大声を上げること。どこでもいいから近くの民家に入れてもらうこと。もちろん住人がいることが確認できた場合ね。だからとにかく外出時はそこがどういう場所なのか把握してから行ってください。しばらくは警戒状態が続くと思うので、みんな緊張して生きてってね。万が一のことがあったらここまで対策を説明したんだからそのとき自分の愚鈍さを思い知るがいいわ」彼女のブラックジョークはいつも笑えない。「というわけで警告終了。では、あと三分ほどの〜んびりタイムで」
多部が席に着いたら教室中が騒がしくなった。
「殺人事件か。やだな。怖いな」
「犯人に会っちゃったらどうしよう」
「やられる前にやる!」
「ねー勉強した?」
「全然してない〜。あたしなんかもうダメダメよ〜」
「嘘ばっかり、いつもそんなことばっか言っていい点取るんだから」
「ようやく数学から解放される」
「これで選択肢は狭まったわけだ」
「俺は就職だもーん」
「いいね、いっぱい稼いでいっぱい奢って」
などの声が聞こえる中、志郎はふと千絵の方を向いた。
「宮嶋さん。三年生もどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」千絵はいつも微笑んでいる。「頼りにしてるよ」
「いやあ、こちらこそ。それじゃまた終わりのホームルームで」
「うん。またね」
と、二人は別れ、志郎は窓際の席の総一朗へと近寄った。総一朗はぼんやりと窓の外を眺めている。
「総ちゃん。総ちゃん」
「ん? どした」
「何見てるの?」
「いやー、桜がきれいだなーって」
総一朗にとって先ほどのやり取りはある意味予定調和だった。みんなの疑問を言語化してみただけのことである。それに対して志郎が的確に論破し千絵が見事に説得したため総一朗はじめ今年一年数学を選んでいない生徒たちは納得したのだった。
「なになにー?」
と、蒔菜と紗耶香も近づいた。
「いやー、桜がきれいだなーって」
「織部くんは詩人だもんね」
「いやあ、それほどでも」
「いや、桜がきれいだって言っただけじゃん」と、紗耶香は蒔菜に突っ込んだ。「詩人っていうからには、そこから何かないと」
「う〜ん、そうだな……」と、総一朗はちょっと考えて、そしてゆっくり言った。「ピンクってすげーなーって」
「?」
「いや、冬は白いじゃん。雪とか。空気もぴんって張っててさ。それが桜が満開になるとピンクが全部埋め尽くすだろ。冬がなかったみてーになるじゃん。それがすげーなあーって」
「……」紗耶香はちょっと考え込んで、そして言った。「あんたさ、やっぱ作詞は他の人に任せた方がいいよ」
「え」
「なんか良さげなこと言ってるのはわかるんだけどね。柊先輩だったらなんかすごいいい詞にするんだろうな」
「うるせえ、ルートと比べんな。あいつは異常なんだよ」
「異常なぐらいじゃないとクリエイターは難しいんじゃない?」
「いや、ルートのいま知ってるだろ? 芸大だよ? 芸大音楽学部だよ? 新卒で受かったんだよ?」
「あー、そういうことを言っちゃうってなるとますますクリエイターからは遠のくんじゃなーい?」
「うるせえ、俺はクリエイターじゃなくてプレイヤーだから、いいんだよ」
と、総一朗は顔を背けた。
「でも、ほんとに桜がきれい」
「そうねー」蒔菜との会話に集中することにした紗耶香は、志郎にも話を振った。「いい天気だしね」
「そうだね。もっと早く起きて散歩でもしてればよかったな」
それぞれがそれぞれ談笑していた。穏やかな春の朝だった。そんな中、志郎はふと千絵の方を見た。千絵も普段から仲の良い女子たちといつも通りの静かな微笑みを浮かべながら会話を続けていた。そこで志郎は初めて気がついた。千絵の左手首の辺りに包帯が巻かれている。もっとも長袖に隠れているのでじっくり観察しなければ気づけないのも無理はなかった。志郎が気づいたとほぼ同時に女子たちも包帯に気づき、千絵に心配そうに声をかけた。志郎のいる距離からではその会話の内容は聞こえない。だが、女子たちの一瞬の驚愕の後の安堵の表情からそれほど大したことではないことがわかって志郎も安心した。
そう、例えば、自殺未遂とか、あるいは––––。
少なくとも、先ほどの多部の警告とは無関係のようだったから。