6.曇っていた目
その夜会から数日後、再び父に執務室に呼ばれた。
「シャルロッテ嬢との婚約は白紙にした」
「はっ?」
サイラスの頭の中が真っ白になる。何を言っているのだ。自分とシャルロッテは愛こそないが順調にいっている。家の都合の婚約で結ばれたとはいえ良好な関係を築いている。それなのに白紙にするなどありえない。
「新たな婚約者はこれから探していく。まずは候補者を決め顔合わせを――」
「待ってください! 私たちは上手くいっていた。それを白紙にするなど理由を教えて下さい!」
父はサイラスに対して呆れたような表情で話にならないとばかりに首を左右に振る。
「本当に分からないのか? サイラス、お前の行動は非常識だった。一度注意したが理解できなかったようだな。シャルロッテ嬢が婚約をやめたいと言い出して当然だ。お前は上手くいっていたと言うが、そう思えるのは彼女の献身のおかげだ。今回のことはお前に厳しく正さなかった私にも責任がある。できることなら自分で気付いて改めて欲しかったのだがな」
ここまで父に糾弾されてもサイラスは何を指摘されているのか本当に思い当たらない。シャルロッテとは会えば楽しく会話をした。彼女から不満を向けられたことはない。自分はいつだって婚約者として誠実に接してきた。それにサイラスは令嬢たちからの人気が高く自分が誰かに拒絶されることなど今まで経験がない。格上の侯爵家に嫁ぎたい令嬢は多い。伯爵家の娘がみすみすそのチャンスを手放したいというのか。
「改める? 私の一体何が悪かったというのですか? それに業務提携のことを考えての婚約ですよね? 婚約を白紙にしては両家とも仕事で困ることになるのでは?」
父は憐れみの眼差しを自分に向ける。
「ディアス伯爵とは初めから仕事と婚約は切り離して考える約束をしている。二人の関係性が進展したら正式に婚約を結ぶことになっていた。お前は進展どころか他の女性に現を抜かしていたな」
「他の女性? 現を抜かしたりなどしていません! シャルロッテにも誠実に接してきました!」
「ふん。夜会の度に婚約者の隣で他の令嬢に見惚れることをお前は誠実だと思っているのか? 社交界ではお前とキャンベル伯爵令嬢の悲恋の噂が流れているくらいあからさまだ。その噂を聞いたシャルロッテ嬢はどんな気持ちだっただろうな?」
「うわさ……」
サイラスは頭を抱えた。噂なんて知らない。そんなつもりはなかった。密かに夜会で一目ソフィアを見ることが出来ればいいとは思ったがそれだけだ。その証拠にソフィアに話しかけたことだってない。シャルロッテだって一言、噂を教えてくれてもよさそうなものだ。そうすれば気を付けたのに。だいたいソフィアにはサイラスよりも身分の高い婚約者がいる。彼女との結婚を考えたことはない。少しだけ妄想はしたがありえないことだ。なぜシャルロッテはそれを理解しないのか。
「誰もがお前とキャンベル伯爵令嬢の関係を勘繰りたくなるほど見つめ合っていたらしいじゃないか。目は言葉より雄弁だ。なあ、サイラス。キャンベル伯爵令嬢は確かに美しいのだろう。だがガルシア公爵と言う婚約者もいるのになぜそれほど入れ込んだ? シャルロッテ嬢に不満があったのか?」
「シャルロッテに不満はありません。ですがソフィアは……落としたペンダントを拾ってくれて、それで……」
「ペンダント? 何を言っている? あれはシャルロッテ嬢が拾って届けてくれたものだ」
父は怪訝な顔をする。
「そんなはずはありません。ソフィアが拾ってくれたと言っていた」
「本当にキャンベル伯爵令嬢が拾ったと言ったのか? だが届けたのはシャルロッテ嬢で間違いない」
父が後ろに視線を向けると側に控えていた執事が一歩前に出て、サイラスの目を見ながら口を開いた。
「届けて下さったのはシャルロッテ様で間違いございません」
「そ、そんな……」
ソフィアが届けた、そう言っていたはずだ。サイラスは必死にソフィアとの会話を思い出す。あのときソフィアは……。
『サイラス様。大事なものが戻ってきてよかったですね』
届けたとは言っていない――――。
『キャンベル伯爵令嬢が届けてくれたのだろうか?』
サイラスの問いかけに笑っただけで「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。どちらとも取れるような返事で、むしろ誤解を与えるようなものだったと気付く。礼をしたいと言った時の返事もあやふやなものだった。
『サイラス様の笑顔を見ることが出来て嬉しいです』
サイラスはソフィアの美貌に見惚れそうであればいいと思い込んだ。ソフィアがサイラスの勘違いを正さなかったので自分の都合のいいように解釈したのだ。そう思いつくと全身の血が引いていくような気がした。サイラスは普段やっかいな令嬢に付き纏われることが多かったので、美しく優しい令嬢との運命の出会いに潜在的に憧れていたのかもしれない。
「ペンダントの件でお前が珍しく女性に興味を示した。私は出来ればお前に思い合える伴侶を与えてやりたかった。その為にわざわざディアス伯爵と業務提携までしてシャルロッテ嬢に声をかけたのに……」
その言い方では業務提携による婚約ではなく、婚約するきっかけ作りの業務提携だと聞こえる。
そんな、まさか……。父の落胆の表情が真実だと物語っている。父はサイラスの女性不信を知って心配してくれていた。だから婚約者を決めるのはゆっくりでいいと焦らせることなく見守ってくれていた。ところが学園卒業後すぐに婚約の話をしたからてっきり大事な仕事関連で必要な婚約だと思っていた。まさか自分の幸せを願って決めたものだと想像もしていなかった。
「シャルロッテに謝りたい。そして改めてもう一度婚約を――」
父はサイラスの言葉をバッサリと遮った。
「謝ってどうする? サイラスはキャンベル伯爵令嬢が好きなのだろう? シャルロッテ嬢を愛しているというのなら再度婚約を望むのも分かるが、そうでないのなら何のために? それは彼女を不幸にすることだ。ディアス伯爵はシャルロッテ嬢に愛のある結婚を望んでいる。もう彼女との縁は終わったと思え」
「………」
勘違いしたとはいえ自分はソフィアに恋をした。それは事実だ。落とし物を届けたのがシャルロッテと分かったからと言って気持ちは変わらない。だけど心には得体のしれない焦燥感がある。シャルロッテとの縁を失いたくないという思いが湧き上がる。今まで築いてきた友愛をこんなに呆気なく終わらせようとするその薄情さに憤りも感じている。シャルロッテは不満があるならサイラスに直接言うべきだ。勝手に我慢して突然縁を切るなんてひどい女だとも思った。
二人で過ごした楽しかった時間をまるで無価値のように捨てられた。それはサイラスのプライドを傷つけた。彼女が白紙にしたいというなら好きにすればいい。サイラスほどの条件なら結婚したいと望む令嬢はいくらでもいるのだから。この考えはサイラスの逆恨みのようなものなのだが自分は正当だと信じている。噂になるほどソフィアを見つめたことは悪かったかもしれないが、サイラスは具体的な浮気をしていないのに白紙を望まれたのを理不尽に思い、シャルロッテに対して悪かったという気持ちは希薄だった。
「今後、シャルロッテ嬢にむやみに接触するな。それと不名誉な噂がある程度消えるまで夜会には出席しないように」
「分かりました」
サイラスは不機嫌さを露わに返事をした。これでは自分がシャルロッテに振られたみたいじゃないか。