9.名前の謎 解明編
まずは入国の記録だ。
シュターデンの故国から来ている者は、他に誰がいるか。
彼らが例の一派であったとして、そもその一派はごく少数だ。シュターデンの故国からの来訪者の大多数は関係ないだろう。
それでも一応、入国の記録を確認し、直近の二十年程度の入国者はリストに上げた。
シュターデンの動きは、人を使って見張らせている。
……とはいえ、あの家の者は何をしているのか、家を出る事が殆どない。
シュターデン家は現在、三人家族だ。『大旦那様』と呼ばれる先代伯爵、シュターデン現当主、そしてその妻だ。……この『妻』は、シュターデンが例の一派として、その事実を知っているのだろうか。
これも調べる必要がある。
そして後は、フィオリーナだ。
この正体も良く分からぬ家に、養女として迎え入れられた娘。
ただ私は、彼女がそういった異教の信者でない事を知っている。
そういう類の嘘が吐けるような娘でもない。
殺生は良くない事、怖い事と言っていたし、盗みも嘘を吐くことも「悪い事」と言っていた。それらは私の知る主派の教義と同じだ。
ならば何故、あの少女はシュターデンに養女に入ったのか。
出奔した兄の子、という触れ込みであった。
けれども、シュターデンが異教の徒であった場合、そんな子供を引き取る理由がない。
記録によれば、シュターデンの兄が出奔したのは事実であった。
フィオリーナが生まれる四年前だ。
シュターデンの者の言によれば、兄とやらは市井に愛する女性が居て、彼女と駆け落ちを……云々という理由なのだが、『シュターデン家の長男』だ。他宗教の女性と駆け落ちなどするか?
それに、ただ家を出るのではなく『出奔』だ。相応の理由がある筈だ。……例えば、その兄が改宗なり棄教なりを望んだ、だとか。
もしそうだとすれば、その兄は恐らく、既にこの世に居ない。
そしてもしもフィオリーナが真実シュターデンの血を引いているとしても、改宗なり棄教なりを望んだ者の子など、彼らからしたら唾棄すべき異端だ。
というのに、その子を引き取る理由は何だ?
王都にとて孤児は居る。近郊にも養護院はある。そこから子を引き取るのではなく、何故フィオリーナだったのか。
その理由が分かれば、もう少し何かはっきりするかもしれない。
* * *
「すごい……! 近付いてる! クリス様、じりじりと近付いてますよ!!」
思わず拳を握ってしまった。
いっけなぁ~い☆ 淑女のやる動作じゃないゾ、セラフィーナ☆ ……猫はどこや。私の可愛いつやつや猫ちゃんは。
しかしクリス様は恐らく、『やり直し』の中で『私』をご存知だ。
「猫ちゃん? ああ、あの子なら出て行ったよ。あれは、そう……、寒さが骨まで沁みるような、そんな雨の日だったねェ……(煙草プカー)」とでも言いそうな、被る猫など放り投げた私を。
ぐぐっと拳を握る私に、クリス様は「ふふ」と小さく笑われた。
「とはいえ、私にはまだ雲を掴むような話だったけれどね。点と点が繋がりそうではあるけれど、繋げてしまって良いかも分からない。そういう状態だ」
* * *
一回目に見聞きした様々な事を、朧げにしか覚えていない。それがとにかくもどかしい。
確かに聞いた筈なのに、見た筈なのに……という事が多すぎるのだ。
フィオリーナの身の上話にしてもそうだ。
彼女は何という村の出身と言っていただろうか。私は確かに聞いた筈なのだ。
国内の詳細な地図を見て、小さな地名一つ一つを眺めていく。何か引っかかるものはないだろうかと期待して。
だが、フィオリーナの言っていた事だ。彼女が口にしていた村の名が、その村内だけの通称である場合もある。そしてフィオリーナであれば、皆が通称で呼んでいたならば、『きちんと国に届けられた正式名称がある』などという事には気付かないだろう。
そうだとしたら、完全にお手上げだ。
地図を当たりながら、ふと気付いた事があった。
当たり前過ぎて考えもしなかったが、彼女の名前『フィオリーナ』だ。
この国では少々珍しい、異国風の名前。
確か、そうだ……。二百年ほど昔、その語圏の者たちを大量に移民として受け入れた地域がある。そしてその周辺では未だ、方言のようにその語圏の単語などが残っている。
もしやフィオリーナは、その辺りの出身なのでは?
その地域の地図を隈なく探し、「恐らくここだろう」という小さな集落を見つけた。
私は城の隠密に、そこへ行きフィオリーナという娘が居ないか探してきてくれ、と頼んだ。
* * *
名前が……! イタリア・ドイツ連合軍な名前が……! まさかのヒロインちゃんの出身地の鍵になるなんて……!
でもまあ、そりゃそうか。
私の『セラフィーナ』は、フツーにこの国で珍しくない名前だ。クリス様だってそうだ。珍しくないのは、『同じ語圏であるから』だ。
そこにある別語圏の名前は、『そこに暮らす人』からしてみたら、ちょっと珍しく感じるものだ。
「……で、彼女は見つかったんですか?」
訊ねると、クリス様はくすっと笑われた。
「見つかったね。……しかも私が頼んだ隠密の腕が良かったのか、様々な事を聞き出してきてくれてね。フィオリーナの父親というのは、彼女が二歳の頃に事故で亡くなったそうだ。そしてその父親というのは、彼女の母の幼馴染で同じ村の人間だという事まで分かった」
「すごい……」
隠密スゴイ。
感心する私に、クリス様は呆れたように笑った。
「予想以上の成果に驚いて、隠密に『誰からどうやって聞き出したのか』を訊ねたのだけれど……。その隠密はなんと、フィオリーナの母親自身からそれらを聞き出してきたそうだ」
「え!? 本人から!?」
どうやって!?
「そう。『一人放浪の旅をする旅人』の振りをして、フィオリーナの母親に道を訊ねる風に声をかけたのだそうだ。……そして呆れた事に、そこから二人で二時間もお茶をしながら世間話をしたのだそうだ。その会話の中で、フィオリーナの母親がそう言っていた、と」
……隠密のコミュ力がスゲェ……。
「あと、フィオリーナがひよこ豆が嫌いで、スープに入れてもいつも避ける、とか。フィオリーナの母は最近、天気が崩れる度に膝が痛むようになって辛い、とか……」
隠密……、それ、報告する必要なくねぇか?
「まあとにかく、その時点で私は十歳だった。フィオリーナは九歳だ。彼女がシュターデンに拾われるまでに、あと八年。そして、彼女の母親が亡くなるまでも、あと八年だ」
* * *
これではっきりしたのは、フィオリーナという娘は、シュターデンとは全く縁もゆかりもないという事だ。
フィオリーナの母がはちみつ味のクッキーを焼くのが得意、というどういう顔で聞いたら良いのか分からない情報以外にも、隠密は様々な事を世間話ついでに聞き出してくれていた。
その中で有益であったのは、フィオリーナの母は今の自給自足の暮らしに限界を感じている、という話だった。
生活自体に不満があるのではない。
フィオリーナの母という女性は、過去に足に大怪我を負っているらしい。現在、歩くにも走るにも不足はないのだが、無理をすると膝が痛み曲がらなくなるのだそうだ。
その身体での農作業が少々辛い、と。
けれど、フィオリーナより読み書きは出来るとはいえ、学はない。計算も出来なくはないのだが、得意ではない。
その自分が街へ働きに出たとして、上手くやっていけるのだろうかという不安が強く、今の生活を続けるしかないか……と半ば諦めている。
それに自分が働きに出て家を空ける事になってしまうと、幼いフィオリーナの面倒は誰が見るのか、という問題もある。
フィオリーナは年の割にしっかりした子ではあるが、幼い事には変わりない。
どうしたものかしらねぇと、少しだけ困ったように笑っていた、と言っていた。
そこで私は考えた。
連中がフィオリーナに目を付ける理由として、フィオリーナが孤児である、という理由は大きいだろう。
いかな貴族といえど、肉親が手放そうとしない子を、誘拐同然に養子になど出来ない。というか、それをやったら普通に誘拐だ。
通常、貴族が平民を攫う……というのは、それをする理由が特にないので起こらない事態である。時折あったとしても、大抵の場合、平民側が泣き寝入りをする事が多い。
だが、犯罪は犯罪なのだ。……表に出辛いだけで。
フィオリーナの状況を変えてみるか?
そしてそれをした事によって、他に何がどう変わるのかを見てみよう。
少なくとも、私の十八の生誕祝賀の宴での出来事は何かしら変わる。
私は隠密に、フィオリーナの母は引っ越しなどは厭わないのだろうかと訊ねてみた。
返事は「恐らくは承諾するとは思われますが、彼女はやはり生まれ育った土地に愛情が強いようでもありました」だった。まあそれは当然か。
ならば、彼女は再婚などは考えていないだろうか。
訊ねた私に、隠密が身体を乗り出す勢いで言った。
「良い人が居たら吝かでもないけれど、とは言ってました! 言ってました!」
……そ、そうか……。何故繰り返したかは分からんが……。
「殿下! 私から提案があるのですが!」
どうぞ?
「私が彼女の家へ、彼女の再婚相手として潜入する……というのは、どうでしょうか!? 体力には自信があります!」
…………あ、うん。
* * *
……隠密よ……、貴様、惚れたな……?
つうか、何だこのキャラ濃い隠密……。隠密って、こんなキャラ濃くていいモンなのか……?
「村へ旅立つ日の彼の眼は、希望できらきらと輝いていた……」
遠い目で乾いた笑みを浮かべるクリス様。そうなる気持ちも分かる。この隠密、謎過ぎる……。
「フィオリーナという娘は、とても素直で明るくて、そして貴族の中にあっても見劣りしない愛らしい容姿をしていた。当然、その母親も美しい女性だったようだよ」
「成程……」
美人で朗らかで優しい未亡人か……。
上手くやれよ、隠密。その魚はデカいぞ。釣り逃さんようにな。
* * *
隠密には定期連絡を約束させ、他にもいくらかの注意事項を告げ見送った。私が彼に頼んだのは、次の通りの事だった。
まず、家や村に見慣れぬ人物が出入りしたら教えるように。可能であれば、その人物の素性と裏を取って欲しい。
次に、フィオリーナの母は、十年以内に身体を壊す、若しくは死亡する可能性がある。ただそれはもしかしたら、何らかの陰謀に巻き込まれての謀殺である可能性もある。故に周辺には十二分に注意を払っていて欲しい。
特に、飲用の井戸や、農業用水などの毒物の混入が容易な場所には、普段から気を付けてほしい。
そして何らかの異常を感じたら報告して欲しい。
「お任せください! 彼女は私が守ってみせます!」
あ、ああ……、うん……。……まあ、いいか。
別に私は、彼女を守りたい訳ではないのだが……。まあ、結果としてはそうなるのか。
やる気と希望に満ち溢れた隠密を見送り、私は報告を待ちつつ、次の作業に手を付ける事にした。
『これまで』を思い返してみると、一回目が恐らく、シュターデンにとって最も上手く事が運んだケースとなる。
その概要は、五人の友人に話す為に書きだしてある。それと共に、彼らから出た意見を照らし合わせ、何が出来るかを考える。
この十歳くらいという頃に、特に目立って起こる出来事はない。
事態が動き始めるのは、十八からだ。
けれどそれは、『連中の準備が整って、表舞台へ出てくる』のが、私が十八の年というだけだ。
連中の下準備は、きっと今も着々と行われている。
考えつつ、一回目の概要やそれまでの友人たちとの会話のメモを眺めていて、ふと一つの意見に目が留まった。
公爵令息が言ったのだ。
王子が愚かで担ぎ易かった事が『謎の貴族』に利用されたのであれば、王子自身が担がれぬ程度に知恵を付けたら良いのでは?
そうだ。
あの、どこまでが計画されたものなのかも分からぬ事態だ。
結果として最悪まで転がっていったが、奴らに担がれる王子――つまり私に、あの頃よりやり辛いと感じさせる程度の知恵や知識があったならどうなる?
実際、現状としては一回目とは大違いなのだ。
私は使用人たちから遠巻きになどされていないし、両親に見限られても居ない。友人も居るし、手足となってくれる隠密や他の者も居る。
聡明……とまではいかなくとも、少なくとも『常識すら理解せぬ化け物』ではない。
フィオリーナに常識を教え「王子様はスゴいですね!」と言われても、きっと苦笑いで礼を言うのが精いっぱいだ。
……もしかしたら今回は、連中はフィオリーナに接触しないか? まあ、それはそれで構わないが。……一人の隠密が幸せになるだけだ。良い事だ。……多分。
連中が動かぬのなら動かぬで、それはそれで良い。
ならば今出来る事は何だろうか。
……とりあえず、シュターデンに連なりそうな者と、簒奪派に与していた者を洗うか。
出来そうな事を地道に潰す日々なのだが、『友人が居る』というだけで、それまでの何度かのやり直しと違って楽しい日々だった。
彼らとは週に一度決まった日にお茶をする事になっていた。
それは父と私の教育係とが決めた事だったのだが、始めこそ渋々と登城していた彼らも、次第にその日を楽しみにしてくれるようになっていた。
公爵令息はとても博識で、少々皮肉屋で、けれど国や領地を愛する心を持ち、それらの発展に情熱を注いでいる。高位の貴族でありながら、平民を見下すような事もない。
子爵令息は学者肌で少々気難しい。領地を持たない家で、家は医療関係者が多い。彼も将来は医師になるつもりだという。そんな彼の夢は、平民にも分け隔てない医療を、という壮大なものだ。
侯爵令息は明るく面倒見が良く、いつも楽しそうに笑っているのだが、その実一番『人』を見ている。「笑顔は最大の武器ですよ、クリス様」と、人懐こい笑顔で言われた。……恐ろしい、と思った。
公爵令嬢は女性ながらに学問が好きで、本当は遠方の学術院に留学してみたいのだ……と言っていた。だがそれは、彼女の家から許可が下りていないそうだ。理由は「女が学問など究めてどうするのか」というものだ。何と答えたのか訊ねたら「どうもしませんが、と答えました」と返ってきた。……その答えがまずかったのでは?
そして、侯爵令嬢は……。
遠い遠いあの日、一回目の五歳の顔合わせの日、私が一目惚れをした相手だ。
『人間の心の機微』など分からぬ化け物であったから理解できていなかったが、私はあの日、間違いなく彼女に恋をしたのだ。
幼いという事以前に、心の機微に疎い化け物は、それをそれと気付かなかったが。
その彼女に、私は二度目の恋をしていた。
一回目の時と違い、私の言葉に返事をくれる。笑ってくれる。名を呼んでくれる。
……一回目の時は、冷え冷えとした温度を感じさせない声で「殿下」と呼ばれていた。どれ程嫌われていたのか、それだけでも良く分かる。
私が「セラ」と呼ぶ度、「私の名は『セラフィーナ』です、殿下」と訂正されていた事からも、相当に嫌がられていた事が分かる。
* * *
……ホンっっトーーーに、嫌いだったんだろうなぁ、セラフィーナ。
好きになれる要素、ほぼないもんなぁ……。
あとねぇ……、クリス様がさっきからずっと、こっち見てにこにこしてらっしゃるのよ……。
ちょっとそっち見らんないのよ……。こうも臆面もなく「恋してた」とか言われると、『今』の私じゃないとは分かってても、なんか恥ずかしいのよ……。
「セラ」
笑みを含んだ声で呼びかけられ、「はい」と返事をすると、クリス様の小さな笑い声が聞こえた。
見らんねぇ……。クリス様方面が見らんねぇよ……。
「セーラ」
「……何でしょうか」
くそぅ……、面白がってる気配がするぜ……。そっち見らんないから分かんないけども。
クリス様がくすくすと笑う声がする。
……今度は私が顔を手で覆いたい気持ちなんすけど……。
「セラフィーナ・カムデン侯爵令嬢という少女は何だか風変りで、目の離せない子だった」
『風変わり』……。微妙な切なさを感じさせる表現でございますよ、クリス様……。
「初めて顔を合わせてから暫くの間は、彼女は髪をきっちりと結い、その身分に相応しいドレスを着用して登城していた。……が」
が、と来たぜ……。
猫ちゃん……。猫ちゃんの活躍に期待しようじゃないか……。きっとクリス様と同い年のセラフィーナは、つやつやの毛並みの愛くるしい猫ちゃんを被っている筈だ。
……逆接の接続詞出てきてる時点で、ヤベェ気配しかしないが。
「一年も経つ頃には、まず髪が『とりあえずハーフアップにしただけ』のようなおざなりな結い方になった」
猫ちゃん、大脱走!!
早い! 猫ちゃん、足が早い! サバ並に足が早い!!
「初めの頃はきちんとしたドレスだった筈の服装も、どんどん『この程度の品物であれば、城でも恥ずかしくなかろう』とでも考えているかのように、質素に簡素になっていった」
猫なんて、居なかったんや……。
今度こそ本気で、私は顔を両手で覆ってしまった。
これは恥ずかしい……。
気を抜き過ぎだゾ、セラフィーナ☆ いやマジでお前、何してくれとんねん。『今』の私でも、そこまで気は抜いてないぞ。
顔を覆って項垂れる私を、クリス様はやはりくすくすと笑って見ておられる。
ああ、笑うがいいさ!
「それまでの私の知るご令嬢というのは、精々がフィオリーナだ。公爵令嬢も少々変わり者ではあるけれど、セラは更に変わっていた」
やめて……。クリス様、もうやめて……。セラフィーナのライフが、ぎゅんぎゅん減ってるから……。
「自分は侯爵家を継げないから、大人になったら『やりたい事』をやるのだ、といつも楽しそうに言っていた」
それはまあ、今もそう思わん事はない。
私の現状としては大人になったら王太子妃になるのだが、それがなければきっと、広い世界へミステリーをハントしに行っただろう。……行ってみてぇ。世界の不思議を発見してぇ……。スーパーセラフィーナちゃんを没シュートされても行ってみてぇ……。
あと、クリス様の仰る『私では侯爵家を継げない』というのは、単純にこの国では女性当主を認めていないからだ。
貴族で女児しか居ない家は、普通に婿養子を取るか、縁者から後継を選ぶ。
まあ我が家には兄が居るので、特に後継問題に頭を悩ませることはない。
――と思ったのだが、クリス様の次の言葉に仰天した。
「家の事は弟に任せれば問題ないだろうから、自分が無理に婿を取るような必要もないだろう、と」
「弟!?」
って、ダレ!? 私には性格ねじ曲がった兄しか居ませんが!?
詰め寄る勢いでクリス様を見た私に、クリス様は何故かにっこりと笑った。
……何すか、その笑い。
「やっとこっちを見てくれた」
えらく嬉しそうな声で言われ、私はまたバツが悪くなり視線を逸らした。
慌てて不自然に視線を逸らす私に、クリス様はやはりくすくすと笑っておられる。ライフが……、ライフが減っていくよぅ……。
「あの、クリス様……、私の『弟』というのは……?」
話題を戻さねば!
クリス様の甘ぁい雰囲気を何とかせねば……!
「君の弟は私たちより二つ年下で、ローランド・カムデンという名の少年だ」
「兄……ですが……」
ローランド・カムデンとは、紛う事なき我が兄の名前だ。
今日もここへ来る前に挨拶をしたら、「お城の廊下を走ったりするんじゃないよ? 段差にも躓かないように気を付けなさい。あと、幾らソファがふかふかだからと、その上で飛び跳ねたりするんじゃないよ?(どれかやって来なさい。面白いから)」と言われた。相変わらず、副音声が煩い。
その兄が、弟……。……かっわいくねぇ……。
可愛い弟に「おねぇちゃん」と呼ばれたいのに……。アレが弟になっても、可愛らしさが見出せねぇ……。
というか、クリス様の二つ年下と言ったか。
それは現在の兄と同様だ。
……という事は何だ? クリス様の繰り返された『やり直し』の中で、今回の私の年齢だけがおかしな事になってる……?
「ローランドも、今と変わらず優秀な人物だった。確かに、侯爵家は彼に任せて問題はないだろう。だからセラは、家で弟に気を遣われて過ごすより、世界を見て回りたい、と言っていた」
ああ……、行き遅れのお姉ちゃん居ると、そりゃ弟は気を遣うわね……。
その両者にとって針の筵に座り続けるくらいなら、旅にでも出た方が建設的だわね。
「この国しか知らないから、世界でもっと不思議なものを沢山見てみたい、と。……『ミステリーをハントしたい』と言っていたかな」
クリス様もうやめて。セラフィーナのライフはゼロよ……。
ねえ、セラフィーナ、貴女はどこまで気を抜いて生きる気なの……?
『今』の私が、どれ程居た堪れない気持ちになってるか、分かっているの?
きっと『やり直し』の中のセラフィーナにはまだ色々とやらかしがある、にスーパーセラフィーナちゃんを賭けてもいい。
「言動は型破りなのだが、きちんとすべき場では一端の淑女らしく振舞ってみせる。公爵令嬢はそれを見て『いっそ見習いたい程だ』と言っていた」
猫ちゃん、逃げてなかった!
……あー……、その五人、ホントに仲良かったんだ……。
* * *
私の友人として、という名目で集められた五人だが、うち二人が少女だ。当然、この二人の少女は『妃候補』という側面を持っていた。
私がもしも、二人の内のどちらかを妃として選んでも、何の問題もなかった。逆に、選ばなかったとしても特に問題はない。その辺りは、あちらの家にも事前に通達してあったそうだ。公爵家にしろ侯爵家にしろ、妃となるに不都合は特にない。特に『王太子妃』や『王妃』という椅子に色気がある訳でもないから、選ばれなかったとしても『ああ、そうですか』くらいの感想しかない。
『妃』という地位は、王の添え物としての役割が大きいものだが、それでも重圧などはそれなりにある。
外交の場に出る事も多いので、覚えねばならぬ事や、最低限やらねばならぬ事などもある。
そういった事を考えた時、私は相手を選ぶのに躊躇してしまった。
いっそフィオリーナ程に何も出来ぬ娘であるなら、逆に悩まなかっただろう。ああも清々しい程に何も知らぬ娘であれば、教育係も逆に無理は言わないだろうから。
本当の最低限だけを教え、「後は何もする必要はない」と言い聞かせて終わりだ。……それこそ、一回目の私のように。
けれど友人であるこの二人の少女たちは、二人ともが優秀だ。
ただの『王の添え物』以上の役割を、周囲は期待するだろう。
そしてその期待に応えられねば、勝手に失望する。
そんな地位に、愛する者を就けて良いのだろうか。
うだうだとそんな事を悩んでいられるのだから、本当にそれまでの『やり直し』と違い、余裕のあるものだとつくづく思ったが。
それに私には、その『やり直し』という問題もあるのだ。
やり直さずに済む人生であるならば良いのだが、全てが上手くいかない限り、私は二十五歳で死んでしまう。
早世する王太子の伴侶など、恐らく楽な人生ではないだろう。
……いや、私が死なねば良いだけなのだろうが。
問題を解決しない限り、伴侶などは持てそうにないな、と、その問題は先送りする事に決めた。
その決心を後悔するのは、やはり十八の生誕祝賀の宴の日になるのだが。
フィオリーナの村に送り込んだ隠密からは、定期的に文が届いていた。
彼はあちらへ行った半年後には、どうやったものかフィオリーナの義父の立場に収まっていた。定期連絡の手紙と一緒に、『再婚のお祝いで、村の皆に配ったものです。よろしければ、殿下もどうぞ』と粉菓子が同封されていた。……浮かれすぎてやしないか? と思ったが、まあ、めでたいのは事実だ。
炒った小麦か何かの粉と、砂糖やはちみつを混ぜて固めた菓子だった。可愛らしい野の花の形に固められていて、素朴な味で美味しかった。
フィオリーナには、城の高級な飾り立てられた菓子より、こちらの方が似合うな……としみじみと思ったものだ。
返礼に、フィオリーナやその母にあげてくれ、と、職人に小さな飴玉を沢山作ってもらって送っておいた。後に、フィオリーナはそれを大切にし過ぎて食べられず、夏の陽気で全て溶けて一つの塊になってしまって泣いていた、という微笑ましいエピソードを聞く事になる。
家のヤギに子ヤギが生まれただの、卵管に卵詰まりを起こして死んでしまった鶏を皆で泣きながら食べたが美味かっただの、「これはお前の日記帳か?」と問いたくなる報告が多いのだが、ある日の報告は様子が違っていた。
隠密がいつもどおり畑仕事に出ようとしたら、農業用の井戸近くに人影が見えたそうだ。
人影は隠密に気付く事なく、隠密と入れ違いになるように何処かへ去っていったらしいが。
彼はフィオリーナとその母に関する事以外には、優秀な隠密だ。私が『水に気を付けろ』と言った事を、きちんと覚えていた。
井戸に細工をするならば、中に直接毒物を仕込むか、桶に細工するかだ。
井戸の中に直接……となると、水脈を通って他の井戸にまで影響が出る可能性が高い。それは流石に危険すぎる。
ならば桶か?
『という訳で、井戸から採取した水と、桶をそちらに送りますので、調査をお願いいたします』と、井戸から外した桶を丸ごと送ってきた。
……優秀なのだが……、やり方がどうかと……。
採取したという水は、きちんと送ってきた桶以外の桶から汲んだものだ。優秀……なんだがな……。
城の医局で解析してもった結果、桶から毒物の反応が出た。水からは特には何も検出されなかった。
農業用の井戸なのだが、別に飲めない訳ではない。そしてフィオリーナの母は、農作業中はその井戸から水を飲んでいたそうだ。ついでに隠密も、その井戸から水を飲む事はあるそうだ。
そしてフィオリーナはその井戸からは水を飲まないのだと言う。「ちゃんと飲む用のお水がいい」と言って。
シュターデンが動いている。
連中は今回もフィオリーナに目を付けた。
一回目とは、『私』の在り様はあからさまに変わっているというのに、だ。
これだけ変えても、連中はまだ諦めない。
ならば『諦められない理由』があるに違いない。
百年もじっと期を待っていたのに、『今』動く理由は何だ?
連中からしたら担ぎ辛いであろう、『自立し思考する王子』であっても連中が動く理由とは?
あの連中は、何を焦っている?
とにかく私に分かる事は一つだ。
シュターデンが動いているのなら、奴らを何とかせねば、私はまた二十五歳で死んでしまうのだ――。