5.クリス様のターン、継続中。
「婚約……」
え!? 前回の私、どうなってんの!?
クリス様の仰る『学術院』は、恐らくあそこだろうな、という場所は分かる。
この国からだと、馬車でごとごと二週間程度かかる距離にある国だ。この世界での最先端の学問と、研究施設がある場所だ。
私が興味を持っても不思議はない。
何なら、今もちょっと興味はある。行けるもんなら、行ってみたい。
「誰と……ですか?」
訊ねると、クリス様は小さく笑った。
「今の君に名を告げたところで、恐らく分からないのではないかな」
まあ確かに、他国の王族クラスならともかく、一貴族でさらにその令息とか、そこまでは分からない。
だが、クリス様が「分からないのでは」と仰ったのは、そんな理由ではなかった。
「君が婚約者と定めた相手は、王侯貴族ではなく、平民の学者の卵の青年だったからね」
まじすか。
私は中身が階級制度に縁のない日本人なおかげで、口が裂けても「まあ! 平民なんて汚らわしい!」などとは言えない。口が裂けたら「ねぇ、ワタシ、綺麗……?」とかは言うと思う。日本人なので。
高位の貴族の娘ではあるが、自身に『高貴なる青い血』などが流れているとも思えない。
そういった選民思想がどのような結果を招くか、それは地球の歴史が証明してくれている。
クリス様のお話しになる『前回のセラフィーナ・カムデン』は、間違いなく私だ。中身が地球産の、この私だ。
婚約者に平民の学者の卵を選んでも、何の不思議もない。
……多分、話がめっちゃ合ったんだろうなぁ……。ちょっと会ってみたいなぁ……。何の研究してる人なんだろ。
「『前回』、セラフィーナがそう言ってきたのが、『今日』だった。十三歳の、冬だ」
今日……。
それはもしかして――
「だからクリス様は、今、私にこのお話をされてるんですか……?」
訊ねると、クリス様は私から視線を外し、軽く俯くように目を伏せ笑った。
また、自嘲するような笑いだ。
「君に全て話して愛想を尽かされるなら、今日が一番うってつけなのではないかな……と思ってね」
全力で後ろ向きィ!
いや、確かに前回のクリス様、色々諸々ヒド過ぎるしありえねぇけども!
「前回の今日、セラフィーナは私に婚約の報告をして……、それ以降、二度と私の前に姿を現す事はなかった」
* * *
セラフィーナが居なくなり、公爵令嬢も当然のように登城しなくなった。そもそも彼女は、セラフィーナを心配して付き添っていただけだ。セラフィーナが居なければ、彼女が登城する必要などどこにもない。
周囲に本当に誰も居なくなってしまった私は、暫く何もする気が起きずにぼんやりしていた。
ただ無為に時間を浪費するなど、本来であれば褒められた行動ではない。
けれど私の場合、普段が普段であっただけに、「王子が大人しくて有難い」と思われていたようだ。
何故、セラフィーナは私を選ばないのだろう。たかだか平民の、しかも『学者の卵』などという現状何者ですらない者を、何故彼女は選んだのだろう。
私には地位もあり、財もある。
私を選んだ方が、絶対に幸せである筈なのに。
……そこで、己を省みる事をすれば良いのに、そんな発想にすらならないのが前回の私だ。
『彼にあって、私にないものとは』などとは、間違っても考えない。
『私にはこれだけのものがあり、向こうには何もない』としか考えない。
向上心も、克己心もない。
ないものだらけというのに、それに気付くだけの能もない。
そんな私の出した結論は、『セラフィーナは愚かなのだな』だった。
当然、愚かであるのは私の方だ。
けれど、世界の中心が自分自身であると信じて疑わぬ化け物には、そんな事は分からない。
愚かで哀れなセラフィーナ。
ここに居れば、どんな望みも叶っただろうに。
そう考え、私はセラフィーナを忘れる事にした。
……セラフィーナの『望み』が、この『誰にも御し得ぬ化け物』から離れる事であるとすら、気付く事なく。
自尊心だけ一人前で、それ以外は人にも満たない化け物であっても、『王子』という地位だけは本物だ。
水面下での様々なやり取りの末、私は立太子される事となった。
妹は前回も今も大差なく、少々気性が激しい以外は優秀だ。本当に……、あの気性さえ何とかなれば……、もうちょっとこう……。いや、今はそれはいいか。
ともかく、『王』とは何であるかも知らぬ化け物などとは比べるべくもない程に、妹は優秀であった。
けれどその優秀な妹には、既に政略での嫁ぎ先が決まっていた。
『政略』だ。そう簡単に覆るものではないし、覆してしまった場合、その後の信用問題に関わってしまう。
しかもこちらから打診して、先方に受理してもらったものだ。余計に、不履行などには出来ない。
そして、『私を推す勢力』というものもあった。……それは、後に気付く事になるのだが。
この化け物を王位に就けたとして、先は『傀儡王』か『暴君』だ。転ぶとするなら、前者の方がマシだ。
背後で操る者が操作を誤らねば、傀儡であっても名君たり得る可能性もあるからだ。……歴史から見るに、操者が傀儡を名君に押し上げるというのは絶望的な可能性であるが。
それでも、私が立太子される事になった当時、私の後見についてくれていたのは、正しい判断の出来る者たちであったのだ。
周囲からすっかり人が去って以来、私はほんの少々だが大人しくなった。
癇癪を起して当たり散らす、という行為に飽きただけだ。それをする労力を『面倒くさい』と感じるようになっていただけだ。
まあ、私の心情はともかく、周囲にとってそれは有難い変化であっただろう。
多少大人しくなった私を、周囲は「あの王子も少しはまともになったのではないか」と評価した。
残念だが、それは見当違いも甚だしいと言わざるを得なかったが。
暴れたりしなくなっただけで、中身は何も変わっていないのだ。
相変わらず、世界の中心は自分自身であり、やりたい事だけをやり、やりたくない事には目も向けない。自分の思い通りにならぬものなどないし、もしあったとしたら、そんなものは『自分の世界』には必要ない。
傲慢で尊大で不遜な化け物は、行いこそ少々人らしくなったが、それ以外はやはり化け物だった。
少々行動に落ち着きが出てきたからと、社交の場に出されるようになった。
まあ当然、私を一人でそんな場に放り込んだりしない。いつでも私を取り押さえられるよう、騎士が常に側に居たし、監視役も数人用意されていた。
酷い癇癪持ちであった私はそれまで、父に紹介されたあの五名の子ら以外に、自分と歳の近い少年少女らを見た事もなかった。
社交の場に出て初めて、あの五名以外の子らを見た。
茶会や夜会だ。
当然、少年少女は美しく着飾っている。
それらを眺め、己の衣装や装飾が一番美しい事に満足していた。……考えるまでもなく、当然の事なのだが。その場で最も地位の高い『王太子』より上に立つなど、常識ある者ならやる筈がない。
しかしその常識すらない化け物は、「ほらな。やはり俺が最も高貴で、偉大なのだ」と訳の分からない勘違いをするのだ。
そして残念なことに、その化け物は、一見して『化け物』と思えぬ見目をしていた。
両親が揃って端正な見目をした方だからであろう。化け物は、その中身に似つかわしくない、とても端正な皮を被っていた。
* * *
「『今』のクリス様と、見た目に何らかの違いなどがあるのですか?」
訊ねると、クリス様はご自身の長めの前髪を指先で摘まむように引っ張った。
「今の方が、少し髪が長いかもしれないね。……他は特に、違いはないかな」
確かに、マンガのクリス様は、ツーブロックっぽい短髪だった。「中世ツーブロ王子……」と、ちょっとした違和感を持っていたものだ。いや、絵はキレイだったけども。
マンガならツーブロ王子も『違和感ある』程度で流せるが、現実だったらけっこうツラい。あれは貴族の髪型ではない。
今目の前に居るクリス様は、後ろ髪が襟に届く程度に長い。前髪もきちんと整えてらっしゃるが、耳の下程度の長さがある。
個人的には、ツーブロより似合ってると思う。
繊細系美人、長髪似合うじゃん!? 異論? 知らねぇな!
「髪、伸ばしてらっしゃるんですか?」
時折、襟足を一つに纏めている事もある。それもそれで良い。
「伸ばしているという訳ではないかな。……なかなか、散髪に宛てる時間が取れなくてね。こうして纏めておけば何とか見られるようにはなるから、今のところそれでいいかな……と」
何とかどころか、超お似合いですけど!?
「それに……、余り短くすると、『前回』を思い出してしまって……」
虚ろな笑顔でどんどん項垂れてしまうクリス様。
この人、黒歴史と地雷多すぎて、生きるの大変そう……。
* * *
それまで私が関わった事のある同年代の子らというのは、何度も言うがあの五名だけだった。
そして彼らは一様に、私の『外見』になど、毛ほどの興味も示さなかった。
確かに彼らは優秀で聡明だ。
一見麗しい外見になど興味を持たず、私の醜怪な中身だけをしっかりと見て、きちんと見限って去っていったのだから。
けれど当然ながら、皆が皆、彼らのようである訳がない。
外側の美醜にしか関心を示さぬ者も居る。
まあそれは個人の価値観の問題だ。良いとも悪いとも言わない。相容れぬ人種ではあるが。
とにかく、私の外見は、そういう人々の興味をひいた。
私の『外側』だけを見て持ち上げてくる人々に、私は「やはり己は特別なのだ」と満足していた。
癇癪を起すことが少なくなり、日々は見かけ上、平穏に過ぎていった。
そして、私の十八の誕生記念のパーティの日になった。
私は当日、なるべく口を開くな、と言われていた。
まあ、それはそうだろう。
立ち居振る舞いも粗野ならば、言葉遣いも乱暴なのだ。
最上段に座らせ、祝辞を述べてくる人々にただ頷かせるくらいしか出来ない。それ以上を求めては、ボロが出る。
「殿下のお声は特別なのです。下々の者に簡単に聞かせる訳には参りません」などと、今考えると『何だその馬鹿げた理屈は』となってしまう言葉に、当時の私は「確かにその通りだ」と納得した。
後見についてくれた者たちは、流石に私の『操り方』を良く心得ていた。
けれど、ただ座って時折頷いてみせるだけの会が楽しい筈もなく。
私は休憩と称してその場を抜け出した。
私には常に見張りがついていた。けれど、意図したものではなかったのだが、見張りとはぐれてしまった。
恐らく、私があまりに無秩序に動くので、騎士たちが私の動きを把握しきれなかったのだろう。
私は「またあの場に戻らねばならんのだろうか。このまま自室へ帰って寝てしまおうか」などと考えながら、城の中を奥へと向かって歩いていた。
奥へと向かう通路だ。
本来であれば、誘導の騎士が居る筈だ。
だが、そんな者はいなかった。
……まあその『本来』の騎士の配置なども、当時は分かっていなかったのだが。後に、そのとんでもない違和感に気付く事になる。
今日はもう寝てしまおう、と自室へと向かう途中だ。
城の深部。通常であれば王族くらいしか足を踏み入れぬ庭に、一人の女性が立っていた。
侍女や下働きの女性であれば、居てもおかしくないだろう。けれどそこに居たのは、美しいドレスを纏った女性だったのだ。
明らかな不審者であるというのに、常識もない化け物はそのような事は気にしない。
何をしている、と声をかけると、女性は「迷ってしまって……」と答えた。
大広間はどちらでしょうか? と問う女性に、私は呆れると同時に不思議な感覚を覚えていた。
心の機微に疎い化け物には分からなかったが、『嬉しかった』のだ。
それまでの私に投げかけられる言葉といえば、殆どが小言だ。もしくは、私を宥めすかす為の、中身のない空虚な巧言令色だ。
彼女の発した言葉は、そのどちらでもなかった。
広間はどっちか、と問うただけに過ぎない。
けれどその言葉は私の中でおかしな翻訳をされ、『この女は俺が居なければ広間へすら行けない』という意味になっていた。
つまり、彼女が今頼れるのは自分だけだ、と。
……何がどうしてそうなったのか、我が事ながらまるで分からないが。
自分しか頼る者のない哀れな女に、少々の情でもかけてやろう。
今となっては全く理解できない思考回路だが私はそう思い、「こっちだ」と彼女を先導して歩きだした。
広間の入り口が見える場所まで戻ると、あの広間にまた入るのが億劫で仕方なくなり、「後は一人で行けるだろう」と彼女を放り出した。
その時は名を問う事すらしなかった。
常識すらない化け物には、危機管理意識などあろう筈がないからだ。
私はただ、面倒くさい連中に見つかる前に自室へ戻ってしまわねば……としか、考えていなかった。
* * *
なんてこった……。
あったよ……! 乙女ゲーム展開……!
乙女ゲーム展開は、本当にあったんだ……!! 私の記憶は嘘つきじゃなかった……!!
ただ展開こそそのままだが、マンガとは大分印象が違う。
マンガは当然、主人公であるヒロインちゃんの心情に沿う描き方なので、クリス様の心情なんかは分からないからだ。
クリス様のお話はなんというか、甘さがないというか、「いや、そうはならんやろ!」の連続というか……。
そうかぁ……。
乙女ゲームの『俺様』、大分マイルドに希釈した上で、オブラートに包みまくった表現だったのかぁ……。
クリス様のお話を聞く限り、前回のクリス様は『俺様』などという可愛いものではない。
本当に、常識すら通用しない『化け物』だ。
「私たちの婚約披露のパーティの打ち合わせの際、君が私に訊ねてきた。『もしも、城の深部に迷ったと言うだけの侵入者が居たらどうするか』と。……覚えてる?」
当然、覚えている。
その質問をしたのも、乙女ゲームの『出会い』が不自然過ぎて気になったからだ。そして、今のクリス様が、前回のクリス様のように簡単に侵入者を見逃したら怖いなと思ったからだ。
頷いた私に、クリス様は苦笑するように笑った。
「それを問われた時、とても驚いた。かつて私がその選択を誤った事を、もしかして君は知っているのだろうか、と」
「驚いていらした……の、ですか……?」
そうは見えなかったけれど。
「感情を表情に出さぬよう教育を受けるからね。君に隠せていたのなら、中々の成果だ」
ふふっ、と、クリス様は全く隠そうともせず、嬉しそうに笑われた。
マンガを読んでいた時確かに、「感情的な王族(しかも王太子)ってイヤだなぁ……」と思っていた。そして前回のクリス様は多分、マンガで読んでいた以上にアレな感じの人だったのだろう。
そう思うと、今のクリス様、どんだけ努力してきたの!? と驚く思いしかない。
それら努力自体は、何も特別な事ではない。王族であれば誰しもが受ける教育なのだし、高位の貴族だって似たような教育は受ける。
けれどクリス様の場合、マイナスもマイナスからのスタートだ。ゼロからのスタートより分が悪い。
今、私の隣でとても優雅な所作でお茶を飲んでいらっしゃるけれど、それを身に付けるまでにどれ程の努力をしてきたのだろうか。
あともう一つ、気になる事がある。
「クリス様」
「うん?」
カップをテーブルに戻しつつ、クリス様はこちらを見て軽く首を傾げた。……だから、あざと可愛いな、それ!
「その庭園に迷い込んでいたというご令嬢ですが……、名は、なんと?」
訊ねると、クリス様はふっと小さく笑われた。
「君の知らないご令嬢だよ。……フィオリーナ。フィオリーナ・シュターデン伯爵令嬢。それが彼女の名前だ」
フィオリーナ!!
そうそう! そうだよ!
何で家名がドイツ語で、ファーストネームがイタリア語だよ! って思ったんだよ! チグハグ感、すげぇな! とかって。
あー……。でもこれで確定だ。
どれくらいゲームやマンガに忠実かは分からないけれど、『前回』はちゃんと乙女ゲーム(王太子ルート)だったんだ……。
私、やっぱり関係ないけど。クリス様によれば、私もう、その頃この国に居ないし。
「シュターデン伯爵家という家自体がもうないから、君が覚えておく必要のない名前だけどね」
そっすね……。
伯爵家、処刑されましたもんね……。
* * *
フィオリーナ・シュターデン。
後から思い返せば、不自然な事だらけの令嬢だった。
シュターデン伯爵家というどこかキナ臭い家に、私と出会うほんの数か月前に養子に入った娘だ。
十数年前に出奔した当主の兄の子、という触れ込みだった。
後に調べて分かったのだが、シュターデンの現当主には事実、兄は存在した。けれどその兄は対外的に『ある日失踪した』という事になっていたものの、実際はその失踪したとされる頃に殺害されていた事が分かった。
フィオリーナは、その当主の兄と市井の女性との間の子、という事になっていた。
殺された兄には、実際に市井に愛する女性が居たらしい。けれど二人は清い間柄で、間違っても子が出来るような事はなかったようだ。
それに、フィオリーナの亡くなった母という女性は、当主の兄が愛したとされる女性とは全くの別人だった。
つまり、あのフィオリーナという娘は、シュターデン家とは全く縁もゆかりもない、ただの一平民だ。
シュターデン家が見出し、拾い上げ、……ただの捨て駒として利用された。
それだけの、哀れな被害者だ。
シュターデン家というのは、ある宗教の盲信的な信者だ。……狂信者、と言ってもいい。
その宗教の聖典には、例の『願いを叶える精霊の石』が、とても重要な役割を持って描かれている。
彼らの目的は、その石を『取り返し』、彼らの祖国へと持ち帰る事だった。
『取り返す』も何も、この石は千年以上前からこの国にある。精霊から授けられたとされているのも、この国の始祖だ。
けれど彼らの聖典では、そうは謳わない。
神に愛され、精霊に愛された彼らの祖こそが、精霊からの愛の証としてあの石を貰ったのだと。そう信じて疑っていない。
……まあ、私にも、どちらが正しいのかなど分からないが。
* * *
「この石にはどうも、所有者を守護するような力もあるらしい」
「え!? そうなんですか!?」
すげぇな、精霊の石!
願いを叶えてくれる上に、守ってまでくれるとか!
驚いている私に、クリス様はとても優しく微笑んだ。
「そう。……だからこそ、君に渡したんだ。不甲斐ない私の代わりに、君を守ってくれるといいな……と思って」
そういうクリス様の笑顔が、とても優しくて。見惚れる程に綺麗で。
そんな状況でないのは承知なのだけれども、何だかドキドキしてしまった。それに――
「クリス様は、きちんと守ってくださってますよ」
「いつ?」
本当に『心当たりがない』という風に、クリス様は不思議そうなお顔をされた。
「色んなお茶会や、夜会なんかで……。私に向かう様々な悪意から、いつも、守ってくださいます」
何といっても、このド美人の隣に並ぶに相応しくないちんちくりんだ。
選ばれたのはクリス様なのだが、この『七つ』という歳の差のおかげで、クリス様の評判を落としているところもある。
『クリス様のお隣』という座に、様々な意味で色気を持つ人々からしたら、私など格好の攻撃対象でしかない。
しかも私は可憐な女児だ。突けばすぐ泣きそう、とか思われているのだろう。
泣いてやってもいいが、私の涙は安くないぜ? レディ。
そういった悪意から、クリス様はいつも、ご自身が矢面に立たれる形で庇って下さる。
しかも、この婚約はクリス様から申し出た事、私はそれを受領した立場である事、そしてクリス様は私を大切に想っている事などを、誰が聞いてもキッチリ理解できる形で会話に盛り込んでくださる。
おかげで、婚約成立から七年経った今では、私に突っかかってくる人は居ない。
ついでに、クリス様に言い寄るご令嬢も居ない。
「クリス様のおかげで、とても過ごしやすくなりました」
撃退自体は私でも出来るけれど、多分私がやると余計な反感を買う。
クリス様のようにただ穏やかな笑顔で諭すように話せれば良いのだろうが、私は恐らく好戦的な笑みで挑むように話してしまうだろうから。
「少しでも君の為に何かできていたのだとしたら、それは嬉しいな」
はにかんだようなクリス様の笑みが眩しくて、心臓がいったい!! この人の戦技『笑顔』、火力高ぇよ!
* * *
例の石を取り返す為、シュターデン家はずっと機会を窺っていた。
彼らの爵位は伯爵であるものの、移民であるので家格は高くない。故に、城の深部までは彼らは入る事が出来ない。
侵入しようにも、職務に忠実な騎士たちがそれを許さない。
下手を打って捕まってしまっては元も子もない。
だから彼らは、ただじっと、いずれ来るであろう好機を待った。
そして、それがようやっと巡ってきた。
担ぎ上げるのに丁度よい、中身のない王太子の誕生だ。
しかもそれまでの評判が悪すぎて、十八になっても婚約者すら決まっていない。
背後に居る者たちは厄介ではあるが、ここまで百年待てたのだ。もう数年程度、どうという事もない。時間をかけ、ゆっくり排除していけば良いのだ。
自分たちが直接近付くより、もっと警戒され辛い者を使おう。
そこから、シュターデン家は私と歳の近い子供を探し始めた。
男児であれば友人として、女児であれば恋人として、化け物の側に常に侍る事の出来る相手を。
条件は、私と歳が近い事。髪か瞳の色が、シュターデンの当主の兄に似ている事。賢すぎない事。見目が良い事。
それら条件に見事に当て嵌まったのが、フィオリーナだ。
私の一つ年下で、シュターデンの家の者と良く似た髪色に目の色を持ち、寒村の平民であるが故に教育も受けておらず、とても愛らしい顔立ちの素直な少女。
フィオリーナは、母が亡くなり途方に暮れていたところ、シュターデン家の使いという者が現れた……と言っていた。
貴女様は我々が長年探していた、シュターデン伯爵家の正当な後継者に違いありません。どうぞわたくしと共に、王都のシュターデン伯爵家へおいでください。
訳の分からぬまま馬車に乗り、到着したのは初めて見る王都だ。
小麦といくらかの作物を、自身が食す分のみ作るのが精いっぱい……という小さな村からやってきた彼女にとって、それは『物語で憧れていた世界』そのものだった事だろう。
シュターデンの当主から「私の娘となってほしい」と請われ、夢見がちな少女は二つ返事で頷いてしまった。
恐らくなのだが、彼女の母は『病死』ではない。
フィオリーナに目を付けたシュターデンの者の手により、何らかの方法で殺されたのだろう。
現に『今回』、フィオリーナはまだあの小さな村に居て、母親もそこに居る。母親に病の気配などもないそうだ。
シュターデンの者が彼女を見つける前に、あの連中を一掃できたのが功を奏したらしい。
一夜にして、貧しい村娘から伯爵令嬢へ様変わりだ。
そんな彼女の口癖は「夢みたい」だった。
お城のような住居、これまで食べた事のないような美食、温かな寝台、美しいドレスに宝飾品。
物語の中で存在は知っていても、見た事もないので想像も難しかったものたちが、今は現実として彼女の目の前にある。
幸せすぎて、夢を見ているみたい。
いつも笑顔でそう言っていた。
シュターデン伯爵家はフィオリーナに、わざと何の教育も施さなかった。
教えたのは最低限の読み書きだけだ。それもしかも、彼女自身の名前だけ。
余計な学など付けられては、彼らの計画に障ってしまうからだ。担ぐ相手は、軽ければ軽いほど良いのだから。
それに彼女に相手をして欲しいのは、学も教養も常識もない化け物だ。釣り合いが取れて丁度いい。
逆に、知性や教養に溢れるような者たちは、皆、あの化け物の側を去っていったのだから。考える頭や先を見通す目などを持つ賢しい者なら、あの化け物の側など絶対に選ばない。
そうして厳選されたフィオリーナは、まるでその為だけに存在していたのかというくらい、化け物の機嫌を取るのが上手かった。
彼女からしたら私は『常識もない化け物』ではなく、『とても綺麗な王子様』だったらしい。
そして、知性など無きに等しい化け物でも、全くの無知であるフィオリーナよりは学があった。なので彼女の目に私は、『賢くて美しくて頼りになる王子様』として映る事になった。
本当に聡明な者は、自らあれ程に胡散臭い令嬢になど近寄らない。学もない、教養もない、礼儀もなっていない。一般的な貴族からしたら、近くに居るだけで不愉快になるような相手だ。
故にフィオリーナは、私以外の王侯貴族というものの姿を、正しく認識する事はなかった。
誰も側に居なかった化け物の隣には、気付けばいつもフィオリーナが居るようになった。
『無知な彼女と比べたら出来る』という程度の私を、彼女は素直に「王子様はスゴいんですね!」と尊敬の眼差しで見てくる。
……まともな頭を持っていれば、その状況は羞恥で耐えられなくなりそうなものなのだが、化け物に『まとも』なものなど何もない。
フィオリーナに無自覚に持ち上げられ、私はすっかり有頂天になっていた。
無知で哀れで愛らしいこの小雀は、俺の手の中でないと生きられない。
どういう思考回路を通したらそうなるのかは不明だが、私はそう考えるようになっていた。
* * *
ああ! クリス様が! またお顔を手で覆って……!!
ファイトです、クリス様! ドンマイです、クリス様!
多分クリス様のお話、折り返し点は過ぎましたよね? もうひと頑張りです、クリス様!!
……クリス様が復活されるまで、とりあえず、お茶のおかわりでももらおうかな。