4.クリス様の「長くて荒唐無稽でさして面白くもない話」 はっじまっるよ~!!
「まずは、そうだな……」
クリス様は小さく息を吐くと、テーブルの上をご覧になられた。
お茶、お菓子、お花、……そしてジュエリーケース。
様々なものが置かれたテーブルから、クリス様はジュエリーケースを取り上げた。そしてそっと蓋を開けると、私に中を見せるように差し出してきた。
中身は良ーく知っている。
華奢で美しいティアラ。小ぶりの石の付いたイヤリング。そして例のネックレス。
だが何だか、ちょっとした違和感がある。
じっとそれらを見る私を、クリス様も無言で見守ってらっしゃる。
恐らく、私の第一印象の『違和感』は正解なのだろう。そしてクリス様は、私がそれに気付くのを待っているのだ。
暫く箱の中をじっと見て、思わず「あ、分かった」と口に出してしまった。
私の呟きに、クリス様が小さく笑われた。
「何が『分かった』のかな?」
「何かちょっとした違和感があったのですが……、その正体が分かりました」
「正体、とは?」
促すクリス様に、私は箱のど真ん中に収められているネックレスを指さした。
「この石です」
そう。
私の『違和感』の正体は、他でもない例の国宝の宝石だ。
「これを最後に持ち出したのは、二年前のクリス様の生誕祝賀ですが……、あの時と、石の色が違っている……ような気が、します」
本当かどうかは分からない。
二年前の記憶が、どこまで定かかも分かったものではない。
けれど、この石はもう少し緑色をしていた気がするのだ。
そもそも、とても不思議な色をした石だ。
ペリドットに近い薄い黄色がかった緑色なのだが、光の反射の仕方で緑にも青にも黄色にも見える、不思議な色味だ。
その石は、今は青味の強い緑色をしている。
絵具を混ぜる時に黄色をベースに青を足したような色をしていた筈なのだが、今は青をベースに黄色を足したような色合いをしているのだ。
「そうだね。大分、青味がかってきたね」
私の言葉を肯定すると、クリス様は箱をテーブルに置いた。
「この石は、色が変わるのですか……?」
こんなに短期間に色の変わる宝石? そんなもん、あるのか?
クリス様は私の質問に軽く笑うと、軽く首を傾げられた。
「とりあえず、順を追おうか」
不思議な石を目の前に『はえー……』となっている私に、クリス様は悪戯が成功したとでも言いたげな、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
この人、こんな顔もするのか……。そんで悪戯っ子な笑みがまた、めっちゃあざと可愛いわ……。
「セラは、この石が何故『国宝』と定められているかは、知っているかい?」
「神話に語られる『精霊より授かりし宝玉』だから、ですよね」
「そう。その通りだ」
ですよね。だって、そう習ったし。お妃教育で。
昔々、世界には四つの大国があった。
四つは互いに争い、世界の覇を競っていた。
沢山の血が流れ、大地は荒れ、それでもなお争い続ける人間に、神は大いに嘆いた。
そして神は、一人の精霊を地上に遣わした。
精霊は四人の王を集め、それぞれの望みを聞き、それぞれに相応しい宝物を授けた。
――的な神話があり、その『四人の王』の一人が、この国の始祖なのだそうだ。
まあ要はあれだね、『マーリンとエクスカリバー』とか、『三種の神器』とか、そういう類の話でそういう類の代物。
神話が本当かどうかなんて、どうだっていいのよ。
不思議な力も、あってもなくてもどうでもいいのよ。
現在は単純に、『王権』と同等くらいの意味のお品、って事よ。
……それをホイホイ人に譲渡しようとするこの王族、マジでどうなってやがんだよ……。
「この石は、『願いを叶える力を持つ』といわれている」
らしいすね。確かに、そう習いました。
この世界には、『魔法』はない。
神様だって居るのか居ないのか分かんないし、精霊なんて多分、ファンタジー世界の住人でしかないだろう。
要は、その辺りの扱いは地球と同じだ。
信じる人は信じているし、信じない人は鼻で笑う。
日本において、三種の神器がオロチの体内から出てきた物だと信じている人は、何人いるだろうか。
この宝石もそういう扱いだ。
ただこの宝石は、不思議は不思議なのだ。
既存の貴石・宝石の類の、どれにも当て嵌まらない。
全く未知の石なのだ。
故に科学者は、「『精霊から授かった』とはつまり、『天から飛来した』物質なのでは?」と唱えている。
まあ真相は、神のみぞ知る、だ。
もっと文明が発達すれば、いずれは放射年代測定などで来歴も分かるようになるのかもしれない。
……私が生きている内には、かないそうもないが。
人知の及ばぬ現象は『天狗の仕業』。ワケの分からん品物は『精霊の贈り物』。つまり、そういう事だ。
余談であるが、この国に『天狗』はいない。念の為。
「君は、この石に纏わる話を信じるかい?」
即答するなら、「否」だ。だが、キッパリと言っていいのだろうか。
「願いを云々に関しましては、懐疑的です。ただ、石自体は未知の物ですので、もしかしたら本当に精霊に授けられたものなのかもしれませんね」
まあ正直、『精霊』も百でナイと思ってるけど。
私の答えに、クリス様は「そう」と頷かれると、テーブルに置いた箱を見るように視線を伏せた。
「私は逆で、『願いを叶える力』に関しては疑っていない。精霊が授けたという謂れは、少々どうだろうかと思っている」
へえ。クリス様、意外とそういうファンタジーとか、お好きなのかしら。
そう思っている私に、クリス様は視線を上げると微笑んだ。
「何故ならば、私はこの石に願いを叶えてもらった事があるからだ」
「……は?」
ああ、いかん。
『何言ってんだ、この人』っていう感情全開で「は?」っつっちゃった。
お昼寝中のつやつや猫ちゃん、ちょっと戻っておいで。素が出過ぎると、不敬過ぎるわ。
けれどクリス様は、私のいっそ不敬な態度も気にされた風もなく、また石に視線を戻した。
「まあ、信じられない話とは思う。けれど一旦、『そういうもの』という前提で飲み込んで欲しい」
いったん言葉を切ると、クリス様は小さく深呼吸をするように息を吐いた。
そして私を真っ直ぐに見てきた。
「二十年前……、私はこの石に願ったんだ。『今度こそ間違えないから、やり直しをさせてくれ』と」
二十年前……。
現在二十歳のクリス様の二十年前なら、生まれたばかりだ。
でもこれはきっと、そういう話ではない。
「到底信じられない荒唐無稽にも程がある話だと思う。けれど、私はしっかりと覚えている。夢のようなあやふやな記憶ではなく、しっかりと五感を伴った記憶として私の中にある」
「『やり直し』、とは……?」
訊ねた私に、クリス様は小さく笑った。それは、間違いようのないくらい、はっきりとした自嘲の笑みだった。
「私は、とんでもなく愚かな人間だった。私一人では正せぬ間違いを犯してしまった。背負いきれぬ罪を犯した。贖えるのであれば、命くらい差し出しても構わないと思う程に」
……重てぇ。
クリス様が淡々とお話しになられるから、余計に重てぇ。
「やり直せるのであれば、やり直したい。己の愚かであった行いを正せるならば、正したい。そして今度こそ間違えず、大切にすべきものを見誤らず、周囲に、己に恥じぬ人間となりたい。……そう、願った」
ファンタジックな『願いを叶えてくれる石』にかける願いにしては重いです、クリス様……。
「私のその身勝手な願いを石は聞き届けてくれたらしく、……記憶では二十五歳であった私は、気付いたら赤子になっていた。亡くなられた筈の父が生まれたばかりの私を見て微笑んでいた。ご病気で身体を起こす事すらままならぬ母も、お元気で私を大切そうに抱いてくれていた」
タイムリープ!?
ていうか、気になるとこあり過ぎて、どっから手を付けていいか分かんないレベル!
クリス様の中の人、二十五歳なの!?
で、その頃には陛下は亡くなられてるの!?
そんでもって、王妃殿下はご病気!?
何なの!? 巻き戻り前の世界、何が起こってんの!?
「訳が分からないだろう? 私も当初は、到底信じられなかった」
恐らく『???』という顔をしていたであろう私に微笑むクリス様に、私は心の中で「いや、ワケ分からんという事は特にないです。ただ、巻き戻り前の状況が意味分かんな過ぎて困惑してるだけです」と反論した。
当然、口には出せないが。
『乙女ゲーム時空』というテンプレ世界観だ。タイムリープというテンプレ展開が起こったとて、不思議ではない。……いや、不思議だけどもさ。
ていうか、その『巻き戻り』が本当だったとして、よ。
「……クリス様に起こったその現象は、本当にその石の力なのでしょうか……?」
クリス様は何の疑問もなくそう信じてらっしゃるようだけど。
「私はそうなのだと思っている。……私が赤子にまで戻る直前、私はこの石を前に願ったんだ。やり直させてくれ……と」
「成程……」
不可思議な現象なのだから、それを引き起こすのは不可思議な石であっても不思議はない。……不思議だけども。
「やり直す前……、『前回』とでも言うのかな? 私はとても愚かな人間だった……」
クリス様は軽く俯くように視線を伏せ、とても静かな声で語り始めた。
* * *
私は王家直系の唯一の男児として生を享けた。
翌年には妹が生まれたが、妹は非常に難産で、その際に母は二度と子を望めぬ身体となってしまった。
それもあり、私はとても甘やかされて育った。
『甘やかされた』というのも、やり直した今になってそう思うだけで、当時は『唯一の王子なのだから、これくらいの対応は当然』と、完全に図に乗っていた。
そして、それを咎める者も居なかった。
何をしようが、周囲は叱りも怒りもしない。
他国から友好の証として贈られた花瓶を割ってしまっても、「殿下はお元気でいらっしゃいますね」と笑顔で言われるだけだ。
当然、こんな状況で、まともに育つ筈がない。
五歳になる頃には、立派な怪物に成長していた。
まだ幼いが故に世界は狭く、私の知る『世界』はこの城の中だけだ。
けれどその『世界』には、私より上の立場の者など居ない。
両親は忙しく、私の世話は使用人に任せきりだった。両親は、使用人が私をそのように甘やかしていた事をご存知なかった。
私と両親は日常的に顔を合わせるような事が少なく、時折様子を見に来ていた両親の目には、私は天真爛漫で活発な子供に見えていたのだろう。
私に対する教育方針が変わる事はなかった。
甘やかされ、全ての行動を許容・肯定され……、出来上がったのは『この世に自分の思い通りにならぬものなどない』と思い上がった、肥大した自我を持つ化け物だった。
それに気付いた両親は、流石に慌てた。
それはそうだ。
このままでは、この化け物が次代の王となってしまうのだ。
不遜で尊大で、己の要求であれば理不尽な我儘すら通ると信じて疑わない化け物。
誰が見ても、王の器など持ち合わせていない。
中身の空っぽな張りぼて。
良からぬ連中が担ぎ上げるには最適だ。
利用しようとする連中が居らずとも、これをそのまま王位につけてしまっては国が荒れる。
両親は、私についていた使用人たちを、数人ずつゆっくりと入れ替えていった。
一気に全員入れ替えては、幾ら私の頭が空っぽでも何か気付くだろうと。
思い通りにならぬ事が増え、使用人たちに当然の小言を言われるようにもなり、私はすっかり癇癪持ちの厄介な子供になっていた。
何事かあると、二言目には「俺は王子だぞ!」と喚き散らす。
……その地位に見合ったものなど、何一つ身に付けていないというのに。
礼儀作法も、学問も、ともすれば一般常識すらも、「こんなもの必要ない」と避けて通っていたくせに。
学もなく、品性も下劣な子供を、誰が尊重しようなどと思うだろうか。
それでも使用人たちは、表面上は穏やかに、辛抱強く職務にあたってくれていた。内心はどうあれ、彼らは私に笑顔で接してくれていた。
もっとも、愚かな私は「こいつらは俺の味方じゃない」などと思っていたのだが。
我儘で癇癪持ちの私をなんとかしようと、父が数人の子供を集めてくれた。
友人が出来れば、私も少しはマシになるのではないかと期待して。周囲の子らから、良い方向へ感化される事があるのではないかと期待して。
……初めに言うと、父の目論見は外れる事になるのだが。
集められたのは、同い年の少年少女らが五人。
皆それぞれ、優秀であると名高い子らだ。
エヴァンス公爵令息、ハーヴィー侯爵令息、ローマン子爵令息、マローン公爵令嬢、そして――
* * *
「カムデン侯爵令嬢。その五人が、厄介な化け物のお守り役に選ばれた」
こちらを見て言うクリス様に、私は思わず「それは、私……ですか?」と訊ねてしまった。
クリス様の上げた五人の内、四人は私も知っている。
ご令息のお三方は、現在クリス様の側近となられている方々だ。プラス、ウチの性悪兄。
マローン公爵令嬢も、女性ながらにクリス様の下で働いている。切れ者として有名な方で、めっちゃくちゃ美人だ。……ちょっと、気の強さがお顔に出てらっしゃるけども。
あの公爵令嬢と常にご一緒に居られるのに、何故こんなちんちくりんを婚約者に!? と言われていた事を、私はしっかり知っている。ついでに、私もそう思っていた。
が、兄曰く、公爵令嬢様はものごっつ『おかん気質』な方らしい。
政策の方向性が決まらずウダウダする男性連中の尻を、「ウダウダしないで、シャキッと決める! 決めたら動く! ホラ、早く!!」とべっしべっし叩きまくってくれるらしい。
「フェリシア嬢が一番『男らしい』な……」と、兄が遠い目で言っていた。
……美人でナイスバデーであっても、恋愛に発展しないのが手に取るように分かる……。
ついでに私はそのフェリシア・マローン様から、「ご安心なさいませね? わたくし、線の細い男性は好みではありませんの」と言われている。
クリス様はまさに、線の細い、繊細な美貌の美人だ。
どうやらおかんの好みは『気風の良いスカッとした性格の筋肉』らしい。パワー!
その四人と、プラスして私?
クリス様の側近に収まっている四人は、クリス様と同い年でいらっしゃる筈だ。
そこに、何故、七つも年下の私?
「間違いなく君だよ、セラ。引き合わされた私に、君はとても綺麗に礼の姿勢を取って『カムデン侯爵が娘、セラフィーナと申します』と挨拶をしてくれた。……私には、それに見合う返礼など、出来なかったけれど」
最後の一言を、クリス様は吐き捨てるように仰った。
過去の自分を語っているというのに、クリス様の口調はずっと、『嫌い蔑む相手を語る』かのように刺々しい。選ぶ言葉も、卑下するなどという可愛らしいものですらない。嫌悪感丸出しだ。
「私は目の前で綺麗に礼をする少女を見て、すっかり心を奪われてしまった」
クリス様にとっては良い思い出なのだろうか。珍しく笑顔だ。
……と思ったら、その笑顔は一瞬で曇った。
「先程も言ったが、私は『自我の肥大した化け物』だ。『この世の全ては自分の思い通りになる』と信じて疑わぬ愚か者だ。目の前に居る『侯爵家のご令嬢』という存在をも、自分の思い通りに出来ると信じ切っていた」
クリス様がご自身を語る口調が痛い。
とても忌々し気に、吐き捨てるように言葉を紡ぐのだ。
ご自身の事であるというのに……。
「私はその愛らしいご令嬢を、勝手に『自分のもの』と決めた。この化け物は、『自分以外の人間にも意思がある』という事すら知らなかった」
……アカン予感がするぜ……。
クリス様の語る『セラフィーナ・カムデン侯爵令嬢』が真実私だとするならば、アカン展開になる予感しかしないぜ……。
「私は侯爵令嬢の手を取ると、力任せにその手を引いた。その場に居た全員が驚いた顔をしていたが、礼儀も何も知らぬ化け物には、そんな事は分からない。令嬢の手を引き……『お前は今から俺のものだ』と……」
クリス様が項垂れ、お顔を両手で覆ってしまわれた……。
……心中、お察しいたします……。
そして前回のクリス様、スリーアウトです。
乱暴に手を引く、でワンアウト。初対面での『お前』呼びでツーアウト。もの扱いでスリーアウト。
チェンジだ、チェンジー!
こんなクソガキ、相手してられっかー!
……そして、お顔を手で覆って項垂れるクリス様が、復活なさらない……。
今のジェントルなクリス様からしたら、本っ当ーにあり得ない言動ですもんね……。黒歴史もいいとこですよね……。
「……クリス様、お茶、飲まれますか……?」
「いや……、大丈夫。有難う。……申し訳ない……。あまりに……恥ずかしくて……」
お察しします。
言うなれば今の状況は、他人の前で『黒歴史ノート』を音読しているようなものだ。それは恥ずか死ねる。
余計な慰めなんかは、逆に心に痛かったりするものだ。そっとしておこう。
私がのんびりと小ぶりのスコーンを一つ食べ終える頃、クリス様は漸く復活された。
心なしか、お顔がげっそりされている。
クリス様はお茶を一口飲み、深い深い溜息をつかれた。
「まあとりあえず、私は君に、そういう馬鹿げた言葉を投げかけたんだ」
はい。何だかザックリですが。
もう一度あのセリフを繰り返せ、とは、酷過ぎて言えませんわ。
「その馬鹿げた言葉に、君は思い切り『……は!?』と言ってきた」
ヘーイ! アカン予感、的中ー!
クリス様はけれど、楽しそうにくすくすと笑っている。
「まるで虫を見るような目でこちらを見て、にこりともせずにね」
おい、セラフィーナ! 猫ちゃん! つやつやの猫ちゃん忘れてるって!
『虫を見る目』ったら、相当だぞ!? 何故なら、私はこの世で虫が一番嫌いだからだ! ……あいつら、意思の疎通が絶対に不可能そうじゃん。めっちゃキッショいじゃん……。
あと多分、クリス様の仰った『……は!?』って、正確には『……は!?(威圧)』ですよね……。
今度は私が穴掘って埋まりたい気持ちになってしまった。
いや、今の私にそんな記憶はないんだけども! ……でも、その状況なら、絶対やってる。確信できる。
「誰かにそんな態度を取られるのは、初めてだった。初めて『もしかして、自分は好かれていないのか?』と感じた。……もしかしても何も、当時の私を愛してくれていたのは、両親くらいのものだっただろうに」
* * *
集められた五人は、本当にとても優秀な子らだった。
優秀ゆえに、彼らは私を見限るのも早かった。
引き合わされて一年経つ頃には、公爵令息と子爵令息の二人から、これ以上付き合いきれないと私のお守り役を辞退された。
一年経っても、私の態度に改善が見られなかったからだ。
私はというと、その二人が居なくなったことに安堵していた。
公爵令息は礼儀作法に煩いし、子爵令息は私に学がない事を突き付けてくるからだ。
その二人が私の側を離れたのは彼らの意思であるのだが、愚かな私は「私に楯突くからそうなるのだ」と勝ち誇ったような気でいた。
口煩く言うのは、改善の見込みがあるのではないかと期待するからだ。それが改善されたならば、良い人物であるのに……と思うからだ。
けれど当時の私には、それら忠言は「私を否定しようとする行い」と感じられた。
ただただ煩く、鬱陶しく、邪魔なものと。
一年間。
彼らは根気よく何度も同じ小言を繰り返し、やがて諦めた。
喧しい羽虫が居なくなった、と。
清々する思いですらあった。
……その『喧しい羽虫』をこそ、本来は大切にせねばならないのに。
まともに話も通じないような愚物に、それでも真っ直ぐに目を見て、とても『当たり前』の小言を根気よく繰り返してくれたのに。
それをただ、雑音としか感じられていなかった。
残った三人も、当然、私を尊重などしていなかった。
侯爵令息とセラフィーナは、同じ『侯爵』という地位で、領地の規模も似通っていた。なので互いに、とても話が合ったようだ。
個人的に会って話をする……というのが難しい立場であるので、『私のお守り役』という共通の言い訳が有難かったらしい。
城へ来ても、ずっと二人で領地経営などについて意見を交わし合っていた。
公爵令嬢は、自分が降りるとセラフィーナが唯一の女子となる事を心配していたようだ。
彼女は女性にしては硬質な美貌で、作法などもとてもきっちり型に則っている為、一見すると「冷たい」という印象を持たれがちだ。けれど実情は、とても愛情深く、自分より下の者を放っておけず、思わず口を出してしまうし手も足も出る……という、まるで下町の母親のような女性だ。
そんな彼女からしたら、自分より立場が弱く、且つ私に気に入られ目を付けられているセラフィーナを、一人で放っておくという事はあり得ない事態だったのだろう。
セラフィーナもそんな彼女を慕っていたし、二人はとても良い友人であったようだ。
* * *
「そういえば……、セラフィーナが時折、公爵令嬢を『おかん』と呼んでいたのだけれど……」
ぅおぉーーい、セラフィーナ!! 猫!! 猫ちゃん、どこまで遠出させてんだよ!
どういう意味? と訊ねるクリス様に、私は「さあ……? 『今』の私には、さっぱり……」と誤魔化しておいた。
ちなみに、クリス様の言う『おかん』とは、当然日本語ではない。
この国のごく少数が使用する方言で、関西弁に似た雰囲気の言葉があるのだ。……しかも、よりによってのそのフェリシア様のお家のマローン公爵家が所有する領地に。
……フェリシア様と私、多分、ホントに仲良かったんだろーなぁ……。
ていうか『前回』の私、ちょっと猫ちゃん放置しすぎじゃね……? ちょいちょい冷や汗出るわ……。
* * *
更に二年経つ頃には、侯爵令息も居なくなった。
彼と公爵令嬢がいつも、私からセラフィーナを庇うように遠ざけているのを、私は知っていた。
なので私は、これでまた邪魔な羽虫が一匹減った……と喜んでいた。
まあ、最も手強い『おかん』が残っていたが。
私は何とかセラフィーナの気を引こうと色々したのだが、『他人の気持ち』など露ほども分からぬ化け物だ。当然、上手くなど行く筈がなかった。
それどころか、私が何かする度、セラフィーナの私を見る目が冷たくなっていった。
それもそうだ。
私のした事といえば、彼女の腕を引いて強引に連れまわす事や、こちらを見てほしくて髪を乱暴に引っ張る事などばかりなのだから。
好かれる要素どころか、嫌われる要素しかない。
それでも恐らくは、父か誰かに言われていたのだろう。
セラフィーナは月に一度程度は、必ず城を訪れてくれた。
けれどそれも、十歳の頃に終わりを告げた。
セラフィーナが遠方の学術院へ留学する事となったからだ。
その学術院は入学審査が厳しい事で有名なので、恐らくは公爵令嬢の口利きもあったのだろう。公爵令嬢と共に、二年間留学するのだ、と。
その話を聞かされた私は、瞬間的に頭に血が上ってしまった。
何を勝手にそんな事を決めているのか、と。お前はずっとここに居るんだ、と。
喚き散らし、それでも目の前のセラフィーナの態度が変わらないのを見て、私はテーブルの上にあったポットに手を伸ばした。
……何故、ポットを手に取ったかというと、ただそれが目に入ったからだ。
その中身が熱いお茶であるだとか、そもそもポットそのものにもそれなりの重量があるだとか、陶製のポットは割れたら危険であるだとか、そういった当たり前の事になど、何一つ気付きもせずに。
ただただ、感情に任せ、そのポットをセラフィーナに向けて放った。
私の放ったポットはけれど、セラフィーナを傷付ける事はなかった。
私の癇癪が発動してからずっと、侍女たちが私の動向に気を配ってくれていたからだ。
一人の侍女が、セラフィーナの身体を抱きとめるようにして、身を呈して彼女を庇った。
ポットはその侍女の背に当たり、侍女は苦痛の悲鳴を上げていた。
それはそうだ。
たっぷり入っていたお茶は彼女の背を濡らし、ポットが当たった際には重く鈍い音を立ててもいた。
さぞ熱かっただろうし、痛かった事だろう。悲鳴くらい上げても無理はない。
だが私は、その侍女を忌々しい思いで眺めていたのだ。
セラフィーナに当ててやろうと思っていたのに、余計な事を……と。
その侍女は、セラフィーナや公爵令嬢、そしてその場に居た他の侍女たちによる対処が良く、大した怪我をせずに済んだらしい。
火傷も広範囲ではあったが軽いもので済んだらしく、痕なども残らなかったと聞いた。
それを聞かされても何の感慨もなかった私は、本当に『化け物』だ。安堵もなければ、罪悪感すら微塵もなかったのだから。
その侍女を医局へ連れていくから、と、セラフィーナと公爵令嬢もその場を辞していった。
その際。
歩き出していたセラフィーナが、一度だけ私をちらと振り向いた。
心底侮蔑しているような目で。
そして、特に何かを言う事もなく、さっさと歩き去ってしまった。
その一月後、セラフィーナと公爵令嬢は、遠く離れた他国へと行ってしまった。
セラフィーナと公爵令嬢が留学から戻ってきたのは、私たちが十三歳となった年だった。
留学から戻った彼女たちは、義理堅くも私に帰国の挨拶をしてくれた。
その留学の直前に私が何をしてしまったか、当然の如く私は覚えてなどいなかった。
なので、これでまた月に一度程度はセラフィーナに会える、と思っていた。
二年も時間があったのだ。
セラフィーナも公爵令嬢も、二人とも美しく成長していた。
私も身体だけは育ったが、中身はさっぱりだった。
侍女に火傷を負わせて以降、女性の使用人は全員、私の世話係を外された。女性に怪我があってはならないという理由と、いざという時に非力な女性では私を取り押さえられないという理由からだ。
それに伴い、私に最も口煩く小言を言っていた古参の侍女も居なくなった。
誰が漏らしたものか、私が侍女に暴力を働いたという話は、城の中では有名になっていた。
人伝に聞いた者たちは皆、あの王子なら然もありなんと、ちらとも疑いもしなかった。
そんな私に、大切な息子や娘を近付けたい親は居ない。
当時の私は、周囲に一人の友も居ない状態だった。
遊び相手も居ない。
なので、セラフィーナが帰ってくるのを待っていたのだ。
その私に帰還の報告をし、「もう一つ、ご報告があります」とセラフィーナは静かな声で言った。
「あちらの国の男性と、婚約をいたしました。ですので、一旦戻ってまいりましたが、またすぐにあちらへと帰ります」