弟の声
クレバスの地上から谷底までの距離は、校庭の祭壇の比ではなかった。
高いところがうんと苦手なメロンは落下しながら心の中でまた
「もうだめだもうだめだ...」
と繰り返した。
大地の割れ目の幅は大きく、十数メートルはあった。
そこには嵐で吹き飛ばされたたくさんの木や岩が落ちこみ、両側の壁のでっぱった岩々にひっかかったりしていた。
クレバスの両側を橋渡しするようにひっかかった木の覆い茂った葉っぱの部分に、メロンはひっかかって止まった。
幸いその木の枝や葉がクッションになり大きな怪我をせずに済んだが、恐怖で縮こまって硬直した。
それでもなんとか勇気を出して、ほんの少しだけ首を動かして下を見ようと目一杯に目だけを動かしてみたが斜め下を見るのが精一杯で岩しか見えず、このクレバスの底がどうなっているか何もわからなかった。
どのくらい落ちたのだろう。
ずいぶん落ちたはずだ。
まだ高いところにいるのだろうか。
もしかしたらもう地面はすぐそこで、ここはもう大して高い場所じゃないのかもしれない。
動けないほど怯えているのに、メロンの頭の中はそんな事を考えていた。
どこからか風が吹いてきてメロンの体をひんやりとさせた。
風はうんと下の方から来た気がした。
風で木が揺すられ、みしっと嫌な音を立てた。
少しでも体を動かすと落ちてしまいそうな気がして、メロンは動く事を全て諦めた。
風は止まないどころか、さらに強い風が吹いた。
ぎぎぎっと音を立て、明らかに木が動いた。
岩壁に接する根の方は安定感があったが、岩壁と木の頭側の接し方が不安定で少しずつずり落ちている気配があった。
このまま一人で落ちてしまうに違いない。
弱気に拍車がかかったメロンの心に、恐怖と共に孤独が襲ってきた。
「助けて、お姉ちゃん...」
と泣きべそをかいてぼそりとつぶやいた。
「メロン!」
マロンの声がした。
クレバスの岩の両側を交互に飛び移りながら跳躍を繰り返し、マロンが崖を駆け降りていた。
いくら猫獣人でもこれほど見事なバランスと跳躍を澱みなく出来る人物はそういない。
マロンには助けを求めるメロンの声が聞こえた気がした。
「メロン!どこ!」
マロンは駆け降りながら叫んだ。
「お姉ちゃん...!」
メロンは体を動かさないようにしながら出来るだけ大きな声で叫んだ。
とても小さな叫び声だった。
しかしマロンの大きな耳はぴくりと動き、弟の発したその小さな叫びを確かに捕らえた。
音のした方に目を凝らすと、両方の壁にかけられた橋のような木があった。
マロンはそこにメロンがいると確信した。
マロンは速度を上げた。
すぐに木の根元に飛び移ったマロンは、木を駆け登り、そしてメロンを見つけた。
「生きてるか?!」
マロンはメロンの両肩を両手で掴んで揺らした。
メロンは大泣きしそうなほど嬉しかった。
しかしそれ以上に不安定な木がゆさゆさと揺すられる恐怖の方が大きかった。
「だ、大丈夫だから!揺すらないで!」
メロンが大きな声で言った。
どうやら大丈夫そうだと安心したマロンはメロンから手を離し、
「なんだよ。せっかく助けにきたのに」
と、ぷいっとふくれっ面をしてみせた。
安心したマロンのその顔は怒っているわけではなく、むしろ笑顔だった。
また風が吹いた。
風は下からではなく、南北に走るクレバスの南側から吹いていた。
「おーい!二人とも!大丈夫か?」
ポルポが飛行魔法で降りてきた。
マロンが飛び乗った木の上にメロンを見つけ、安心したポルポはほっとため息をついた。
ポルポのすぐ後に春風が飛んできた。
こうして四人はクレバスの底から数十メートルのところで合流した。
「さあ、早いところ登ってしまおう。俺が三人とも持ち上げるよ」
アクアルスの力をもっと使いたくなっていた春風がそう言った時、地鳴りがした。
「地震だ」
揺れが増し、マロンとメロンが乗っている木がまたずずずっと下へずり落ちる素振りを見せた。
マロンはメロンをひっ捕まえると春風目がけて放り投げた。
飛んできたメロンを春風が受け止めるのを見て、メロンはポルポに向かって飛んだ。
マロンにしがみつかれたポルポの顔がマロンの胸に埋まると、ポルポは体勢を崩しかけた。
「おい!バカ!しっかり飛べ!」
とマロンがポルポに怒鳴った。
顔を覆われたポルポは顔を赤くするばかりで言葉が出ず、そのままふわふわと頼りなく飛んだ。
また地鳴りがした。
今度はずいぶんと大きな音だった。
クレバスも大きく揺れた。
拠り所にしていた木が大きな音と共に谷底へ落ちていった。
のみならず、岩壁のでっぱりにひっかかっていた色々な岩や木が上から落ちてきた。
それらを避けるために、春風とポルポはそれぞれメロンとマロンを抱えたまま、すぐ脇の岩壁の隙間に身を隠すと、猫獣人の姉弟を下ろした。
四人は岩壁の隙間で静かに、落下物が落ち切るのをじっと待った。
大木や大きな岩がクレバスの両側に激突しながら落下していく。
その音のせいで、不気味な地鳴りが地震ではなく、水の音だという事に気がつくのが遅れた。
四人がいるこの山の割れ目は、付近を流れる逆流サイワ川から生じていた。
川から走った山の亀裂は、下から上へ流れる逆流サイワ川の支流となり、南から流れてきた激しい鉄砲水が四人を襲った。
それはあまりにあっという間で、水は四人を簡単に飲み込むと轟音を立てながらウルガ山を登っていった。




