剣武クラス3 薔薇の香りの陽炎の鬼女
腰に下げていた黒い鞭を取り出して両手で持ち二、三度しなりを確かめるように引っ張って音を鳴らすとマリアの顔つきが変わった。
さきほどまでの美しくて誰からも慕われる優しい顔が豹変し目は鋭く吊り上がり、心なしか耳も少し尖って見えた。
まるで別人のようなマリアは鞭を新体操のリボンのように動かし、自在な形を作って見せた。
ヒュンヒュンと音を立てる鞭の軌道は縦横無尽にマリアの周囲を取り囲み、その速さは加速した。
あまりにも高速で動く鞭はやがて見えなくなった。
空を切る音だけが響き、鞭に打ち続けられた石畳が熱せられてマリアの周囲の空気密度が均一性を失うと光の屈折率が変化しマリアがゆらりと揺れて見えるほどの陽炎が発生した。
熱が立ち込め、マリアは全身に汗をかいた。
鞭の風圧でマリアの体臭が周囲へ汗と共に飛び、薔薇のような魅惑的な香りが漂った。
「さあ来いボルボ!遠慮はいらん!」
マリアが叫んだ。
マリアの前で木剣を構えたボルボだったが、この陽炎にこれまで何度も打ち込んだ経験があった。
その度に痛い目にあってきたポルポの本能がマリアに打ち込むのを躊躇させた。
「どうした?一本取れば中級班卒業だ」
と言うと、マリアは両手を広げ隙を作って見せた。
だが鞭を持つ右手の動きはいささかも止まっていない。
なおも動けないボルボを見ながら
「さあ来いボルボ!素振りの時間が取れなくても、掛かり稽古で君は強くなれるぞ!」
とマリアが檄を飛ばした。
もうやるしかないとボルボは大きな声をあげ自分を奮た立たせ気合いと共に木剣を振り上げ上段からマリアに打ち込んだ。
ポルポの木剣がマリアの頭上に振り下ろされると同時に、剣とともにポルポは後ろへ弾き飛んだ。
それでも踏みとどまり、続けて水平に剣を振るうがポルポは剣ごと弾き飛ばされた。
剣を離さずに持っているだけでもやっとの衝撃だった。
「さあどうした!目を凝らし耳を澄ませ!体で感じるんだ!」
そういうとマリアは二、三歩ポルポに歩み寄った。
あわてて飛び退くポルポに
「退がるな!前だ!空気の流れを感じろ!」
と言ってマリアはぐんぐんポルポに迫った。
ボルボは横転してマリアの前進をかわすとすぐ立ち上がり剣先をマリアに向け、恐怖をかき消すために大声を出しマリアに打ち込んだ。
鞭が剣を弾いた拍子に前のめりに転んだポルポが陽炎に飲み込まれた。
「ぬあぁぁぁ!」
しばらく無数の鞭の嵐に打たれたポルポが陽炎から弾き飛ばされると鞭が止んだ。
石畳から煙が立ち込める中
「ポルポ!」
と叫んだマリアがうつ伏せに倒れたポルポに駆け寄って抱き起こした。
マリアが素早い動作ですぐに回復魔法をかけると、回復したポルポが意識を取り戻した。
「よくがんばったなポルポ。さあもう一度だ!」
そう言うとマリアは立ち上がりまた鞭を降りはじめた。
「無理...」
つり目のマリアが半泣きで見つめるポルポに微笑んだ。
「さあ来い!君は強くなれる!」
木剣を拾ったボルボは泣きながら必死にマリアに向かって行った。
が結局ズタボロにされ気絶し、回復しを三度繰り返した。
この日初めてマリアの別の顔を見た春風はドン引きした。
マリアの印象が宝塚のスターから鬼女に変わった日だった。
意識を取り戻したポルポに再度迫ったマリアに
「もうやめなよ」
と、上級組でマロン相手にかかり稽古をしていたウーノが声をかけた。
「大丈夫だ!ポルポは強くなれる!」
蒸気した顔でマリアが言うと
「やり過ぎだって言ってんの!わかんないの?」
とウーノが強い口調で言った。
マリアははっとした顔になり、鞭を振るう手を止めた。
薔薇の香りと陽炎が消えた。
「ウーノ...」
マリアが小さな声で言った。
ウーノは中級組のバルトを振り返り
「バルト。なんで注意しないの?アンタが言わないといけない立場なんじゃないの?」
と言った。
昔、剣武クラスの授業は和気あいあいとしていた。
ここ最近雰囲気が重くなっている事はなんとなく感じ取っていたが、幼少期からこれまで長い間自分自身が常軌を逸する修行をしてきたバルトには、マリアの行動はそれほど大して厳しくないように感じていた。
そのためバルトはマリアの行動を止めようと思った事はなかった。
だがウーノに注意され、ようやく自分とマリアの感覚が、他の生徒たちの感覚とずれている事に気がついたバルトは
「すまない。もっとしっかり皆の事を見ておくべきだった」
と言って頭を下げた。
「いや、私の責任だ。ポルポ、すまなかった。ウーノ、それから皆も、無理強いをして済まなかった。この通りだ」
マリアはそういうと深々と頭を下げた。
しかし、ウーノのイライラは治らなかった。
「私、帰る」
そういうとウーノはスタスタと更衣室へ行き着替えを済ませると剣武館から出て行った。
「ウーノ!」
ウーノを追ってポルポが剣武館から防具を身につけたまま外へ出た。
「あの、俺も行ってきます」
そういうと春風もウーノの後を追った。
寄宿舎へ歩くウーノは、自己嫌悪に陥っていた。
マリアの指導方法やバルトの無関心さに腹を立てたのではなかったし、ポルポの自己主張の少なさにイラついたわけでもなかった。
ウーノは自分自身にイラついていた。
騎士になろうと思い入学したものの、もうこの二年近く全く上達が感じられない。
今日だって七人をまとめて相手にしているマロンに、自分の剣をかすらせる事すらできなかった。
毎日へとへとになるまで必死に剣の自主練習をしているのに、マロンとの差がいっこうに縮まらない。
そして、そのマロンのはるか上にマリアとバルトがいる。
自分に剣の素質などないのだ。
いったい自分は何がしたくてここにいるのか。
これからどうすればいいのか。
ウーノは歩きながら、入学前の自分に想いを巡らせた。




