悪魔の玉座
人には信じてもらえまいが、記憶があやふやになる前に書き留めておこう。旅先で王立博物館に立ち寄ったときのことだ。
王家に伝わる金銀の宝飾品、武器、衣服、古代の農具など、その国の歴史を物語る貴重な品々が陳列されている中で、気になる一品を見つけた。それは朽ちかけた椅子なのだが、ていねいに修復された遺物たちと比べ、暖色の照明の下にあっても影のようにくすんで黒く、座面は抜け、腐った木材がかろうじて椅子の形を保っているかに見える。そもそも、歴史的価値のありそうな品々に紛れて、なぜ珍しくもない椅子を展示してあるのかが分からない。解説が読めず途方に暮れていると、わたしの母国語で学芸員が話しかけてきたので、ガイドを頼んだ。
「こちらの玉座はいわゆる“曰く付き”の品でして、収蔵されて以来、誰も手を触れたがらないのです」
「“曰く付きの玉座”ですか」
「はい」
学芸員の話では、玉座の来歴は紀元前にまでさかのぼり、代々の王家を経て、革命期に行方不明となったのち、独裁者の手に渡り、戦後、先代の首相を務めたとある政治家の遺族が博物館へ寄贈したという(あとで分かったことだが、所有者として名前の挙がった人物は全員暗殺されている)。
「玉座は幾度も罹災しているのですが、歴史上にあらわれるたび、ご覧のとおりの黒焦げの姿で記録され、爆撃下の瓦礫の中にあっても破壊されることなく一脚だけ残ったそうです。そして古文書では、このような話が伝えられております」
玉座にまつわる伝説のはじまりは、神話めいた古代の王の伝記だった。あるとき王が秘術を用いて悪魔を喚び出し、世界を支配する力を望んだ。すると悪魔が王の求めに応えて魔法の玉座を出現させ、「ここに座る者は誰であれ、世界を手にするだろう」と言った。王の野望は実現したが、悪魔の力には但し書きがあり、忠臣の裏切りという形で、王は悪魔に魂を引き渡すこととなった。
「お客様、世に悪が絶えないのは何故だと思いますか」だしぬけに学芸員が言った。「玉座の呪いからは誰も逃れられません。しかし暴君がひとり死んだところで、その後の世の中が良くなるとは限らないでしょう?それは歴史が証明してもいることです。考察しますに、暴君が討たれても“暴君の座”は空位のまま残るのです。“そこに座れば世界を支配できるが、代償に命を失う”といったような。普通の人間なら命惜しさに躊躇してしまいますが、他人の生命や財産を踏みにじることを何とも思わない野心家達が繰り返し引きずり下ろされては新たに君臨し、何世紀も何世紀も、永遠にその座を奪い合い続けている……。暴君のあとには常に次の暴君が控えていて、何人死のうとすぐ別の者が成り代わるだけですので、これではきりがありませんね?象徴としての“魔法の玉座”など、わたくしが用意するまでもなかった。神話の王が世界征服を望んだ時点で、不滅の玉座はすでに存在していたのですから」
「……いま、“わたくしが”と?」
振り向いたときには学芸員の姿が消えていた。
多国語を話せる別の学芸員をつかまえて尋ねたところ、お探しの学芸員は勤務していない、学芸員を装った客のいたずらだろう、という。そして例の椅子の正体は、王家で使われていた便器だった。抜け落ちていると思った座面はもともとなかったのだ。しかし、“悪魔の玉座”の話は……朽ちた椅子に着想を得たわたしの白昼夢にすぎないとしても、妙に印象深い。過去、現在、未来にわたって魔王を待ち続ける、目に見えない呪いの玉座。それは人間の宿命ではないか。