補欠合格です。
「はぁ……」
思わず漏れたこのため息は、他人への嘲りと自分への失望とをはらんでいた。
柊誠は大学二年生。もうすぐ夏休みを間近に控えたかというこの時期、彼は大学の試験勉強も忘れてとある作業にふけっていた。
あえて「作業」という表現を使ったのには若干皮肉のニュアンスがこもっている。
その心は、全然作業と呼べないようなくだらないことに情熱を燃やしているということだ。
「この大学の連中は……」
彼は決して性格が悪いわけではない。別に他人を批判することを生業としている人間でもない。あるいは、斜に構えることをモットーにしたり、他人への反骨心を行動の原動力としているような、そういう能動的なひねくれものというわけでもない。ただ単に、不器用で普通の人間なのだ。
「あれだけ必死こいて磨き上げた頭脳を、あいつらは全くどこに使っているんだか」
彼は床の上に無造作に置かれたレジュメが挟まったファイルを軽く足蹴にして、またいつものようにローテーブルに向かってカーペットの上にそのまま座った。
その上には一冊の本と、中学高校のころからなじみ深いノートと、ネット検索用のスマートフォンが置かれている。
彼の口癖はこうだ。
「受験は学歴という切符を手に入れるためにあるのではないし、単に努力などという軽々しい言葉で片付くものでもない」
「これは現実に役立つ力に他ならないのだ。別に無理やり三角関数でビルの高さを測ろうとしなくたって、人間の営みに役立つことは明白だ」
現に彼が通っている大学は誰もが認める難関大学だった。先述したような考え方が正しいか否かは別としても、その信念の強さが、現在の彼につながっているのだろう。
「このあたりの連中は、受験になるとそれなりに力を発揮するようだが、日常生活では中学国語も満足に活用できない。」
そういいながら、彼はテーブルに置かれた難しそうな参考書もとい自己啓発本を開いた。
「難しい」というのは、本当は難しくないともいえそうだけれども、実際には難しいという意味だ。もちろんそこまで深く解釈しなくとも、単に仰々しくその単純な本に向き合おうとしている彼を暗示しているという意味でもある。
ところで、整然と罫線が刻まれたノートに書きこまれた初めの一筆は、
「恋愛学概論」
である。
むろん難しそうな自己啓発本というのは、所謂恋愛ハウツー本のことである。
ところで話は360度変わるが、(その心は、変わっているようで変わっていないということだ)彼には幼馴染がいた。
その幼馴染というのは、思春期の男子が一度は夢見る、もしくは現実と理想とのギャップに悶々とさせられる、女の子の幼馴染である。
幼馴染の名前は如月恵梨香という。言うまでもなく、二月生まれ(旧暦なのかどうかは諸説ある)である。
彼女は、柊とともに大学進学に伴って上京していた。
通う大学は違っていたが、それでも電車を乗り継いで20分程度の距離に住んでいた。
それゆえ、彼女は大学進学後も時折彼の家に遊びに行くのである。
いや、実のところ高校生の頃は気恥ずかしさがあってそんなことはしなかった彼女だったが、大学生になって、高校時代に少し距離を置いた反動か、かえって彼の現状に興味が湧いたのだった。
そんな彼女が彼の家を冷やかしたときの彼の反応というもの、不愛想極まりないものであったのでここでは割愛しようと思う。
柊と如月が織りなすさほど面白くもない出来事の中で、唯一目を張るものがあったのは去年のクリスマスの時の話だろう。
事の発端は12月の上旬の某日だった。
家のインターフォンが久々に鳴って、彼はけだるそうにドアを開けた。
「よ、久しぶりに来たわ」
次の瞬間ドアは閉められた。
「ま、待って、少し話をするだけだって」
次の瞬間ドアは開けられた。
彼女は今度こそは締め出されまいとしっかり腕全体で予防線を張りながら、柊の家への一歩を踏みしめる。
「こう何度も俺のもとに来るなんて、相当の物好きと見たが」
「暇なだけよ」
「なんたって俺の家なんだよ、もっとあるだろう、女子大学生然とした場所が」
「数か月に一回くらいは腐れ縁の顔を見たくなることもあるの」
「他の男の家には入れない、ってか」
「ん、よく聞こえなかったわ」
彼女は菓子のストックを漁った後、またいつものように他愛もない近況報告をした。
彼はつまらなそうにその話を聞いていた。
聞いていたのだが……ふと話題が自分の気にかかるところに向いた。
「もうすぐクリスマスだけど、なんか出会いとかあったの?」
「相、変わらずだ。」
彼女は突然前のめりになった。
「それなら、面白い場所があるんだけど!」
彼は思わず仰け反った。
「な、なんだよ」
「いいレストランがあるの!」
テンションの高い彼女は、自分のスマホを取り出し、その画面を得意げに彼に見せつけた。
「なるほど」
「これは……なんというか……所謂……」
「夜景の綺麗なレストラン……というやつか?」
「驚きのあまり語彙を失ったようね!」
こんな話に至った経緯というのは、ただ悪ノリというものに他ならないので、割愛する。しかしここでの彼の思考には注目しておこう。
「なんでこいつは俺をこんな場所へ…これは所謂デートじゃないか?」
「なるほど」
「となると、考えられる可能性は、こいつが俺のことを好いている、とかか」
彼は特に照れたりすることもなく、あくまで冷静な頭で考えた。
「しかしその情報は本文中に書かれていない、この選択肢は保留だ」
彼は受験勉強で養った思考を以って判断を執り行った。
そのレストランの夜景と言ったら、それはそれは綺麗なのだったが、だからといってロマンティズムに彼が手を染めたかというと決してそうではない。
「よく調べなかったが、一体いくらするんだよ、ここ……」
別に彼は金に困っているわけではないが、たかが食事一つに天文学的値段を取られる恐怖というのはやはり持ち合わせていたようで、心からこの環境を楽しむ余裕はなかった。
転機はクライマックスの後に起こった。
「いやぁ〜楽しかったね〜」
「そうだな」
意外と良心的な値段で彼は心の底から安心感を味わっている。
クリスマスのカップルたちに紛れてこうして二人並んで歩いている。そして今は普段とは明らかに違う空気感。それなのに、彼は寸分も緊張や照れを感じることはなかった。
二人では騒がしい公園の近くを通った。あちらでは何やらパフォーマンスが行われており、パーリィピーポォ達が一同に会していた。
喧騒に包まれ、二人の言葉は重みを失っていった。そんな中で、彼女は軽くこんな言葉を口にした。
「やっぱりパリピは理解できないなあ……」
「まあ、それは共感できるな」
「クリスマスなんて、二人静かに過ごせればそれで幸せじゃない」
「そうか」
彼女は俯いた。そしてこう呟いた。
「たった一人を、理解できれば……」
その言葉は、間違いなく弱々しかった。ただでさえ小さな声、不明瞭なメッセージは、喧騒に埋もれていく運命である——はずだった。
その言葉は彼に強く響いていた。いわば孤高でもあった彼には、とてつもない力を持っていた。
その時、目の前の女性の見方が変わることになったのだ。
思えば、トリガーはとっくに引かれていた。彼女が彼をデートもどきに誘った理由についての推論は、彼の潜在意識に、特別な感情の萌芽を生んでいた。
かくして彼は半年以上に渡って、「恋愛学」を履修することになった。
まあこの中で実際に彼が実践できたものは、単純接触効果くらいである。座学というものは往々にして実生活と結びつかない。
今日も今日とて彼は「恋愛学」を履修している。
インターフォンが鳴った。彼にとってはやはり珍しいことなのだが、彼はネットショップでちょっとした買い物をしていたので、おそらくはその要件だろうと思い、彼は印鑑を手にドアを開けた。
すると、
「やっほー、来ちゃった」
見知った彼女の姿がそこにはあった。
そして彼は例の参考書もとい自己啓発本もとい恋愛ハウツー本が、机の上に置き去りになっていることを思い出した。
「ちょっと待っててくれ」
あくまで素っ気なく。……こうやって態度を繕うのさえ今は大変なのだが、そう言い残して机の上の本を片付ける。
「入っていいぞ」
「それじゃ、遠慮なく」
彼女は彼が自分を制止した意図を勘ぐって少しにやけていた。
彼は驚いた。
戻って来た机には、自分のスマホと例のノートが取り残されていた。
しかし今から隠そうにも不自然なので、さりげなく彼はそれを本棚に押し込もうとした。
依然彼女はにやけている。
「それ、何のノート?」
「じ、授業のノートだよ」
彼にとってはある意味嘘ではなかった。
「ちょっと気になるなぁ……見せて!」
「あっ、ちょっと!」
思いの外俊敏な彼女の動きに虚をつかれた彼は、心拍数をあげながらも「ままよ」の心地だった。
「ふむふむ、恋愛学概論かぁ……誠も意外とかわいいところあるじゃん」
彼はなんとかして虚心坦懐の境地に達しようとしたが、それは不可能だった。
彼は、自分が嫌いなトマトと同じくらいに顔を赤くした。
「あっ」
彼女は突如もじもじとし始めた。
彼のノートは優秀であった。恋愛心理学の本質を、(数少ない)自身の経験談も踏まえながら突いていた。
ギャップ効果の項にはクリスマスの時の話が書かれてあった。
「ははは……なんていうか、かっこ悪い終わり方だな、俺という奴は」
彼は嘆息した。
彼女は俯いていたので、彼は表情を読み取れなかった。そこで彼は悪あがきのように畳み掛けた。
「好きだ、恵梨香。付き合ってほしい」
彼はもうダメだと思っていた。なぜなら、彼女がイエスの返事をする客観的根拠がなかったからだ。
だから、顔を上げた彼女がその言葉を口にした時、彼は驚いた。
「うん、よろしくね、誠」
その意味を理解するまでに時間がかかった。漸くその意味が飲み込めると、彼は驚きに驚いた。
「えぇ!?」
「なによ、そんなに驚くこと?」
彼にとっては驚愕の展開に他ならなかった。それは客観的予測から飛躍した結末に過ぎなかったはずだったのだ。
「俺は一体半年間何をやっていたんだ…」
彼女は彼のその言葉を聞くと、いつものおちゃらけた感じに戻って言った。
「まあいいじゃない、ほら、私が単位を認めてあげることにしよう」
たいへんなしたり顔で彼女は言った。
そんな、頭は良いけどどこか空回りをしている彼も、流石に気づいた。
「ところで」
「うん」
「クリスマスのとき言ってた『理解したかった一人』って、僕のことかい?」
「へ?」
「あ、当たり前でしょ!」
彼女は、彼が好きな林檎と同じくらいに頬を赤らめた。
なぁーんだ、不器用なのは、恵梨香だって同じじゃないか。
彼はそう思った。
その日彼は、机上では学べない体験をしたのだった。