一話 「目覚め」
見上げると
自分より大きな身なりをした、二つの影。
表情は視界がぼやけすぎて捉えられないが、二人とも優しげだったと思う。
一方が頭に手を置き、がしがしと撫でられる。
女性の方は穏やかな顔で我が子に言葉を二言、三言。まるで別れの挨拶の様だ。
どこへ行くの?と声帯の高く、まだ六つにもなる男の子が尋ねる。
すると低い声が頭から手を放し
「すぐに帰るさ、ちょっと父さんと母さんは旅に行ってくるけど。
しっかり元気にしておけよ。それから…毎日稽古を忘れるんじゃないぞ?」
もし投げ出したら父さんに剣術で勝てる日は来ないかもな。
ジッと二、三秒無言で見つめあうと口元が緩み、ハハハと笑い声が響いた。
綺麗な服装で腰元に小刀をぶら下げた男と、軽い槍を持った女性は一緒になって自分の手を握った。
温かく、安らかな一時。
ポカポカした温もりが覚めぬ内にと二人は視界からどんどん奥へと歩いて行く。
黒い影は揺れる草木から徐々に小さく、点になる。
薄暗くて、結局顔は分からなかったけど。声は聴くことが出来た。
そんな小さな幸せは、やがて大きな不幸となった。
「…朝かぁ」
窓から染み渡る光によってベルムは現実に戻される。
このまま夢の続きを見ていたかった。一人で住んでから10年が経つ木材で出来た家。
あの賑やかだった思い出を見るようになったのは時が過ぎて今の年になって数回程。
小さな頭じゃ、絶対にすぐ帰ってくると信じていた。そう父さんが言っていたから。
言いつけを守って、また変な頼みごとを長からされたんだ、と自分勝手な訳でも考えて。
でも戻ってなんて来なかった。
今日で年は17になる。
身を起こし、寝処を片付け外の空気を吸いに行く。
今日はまた酷い。
あらゆる位置に跳ねた紫色の髪は通りすがる人の口元を吊り上がらせる。
無言で井戸まで辿り着くと、珍しく知人が水浴びを始めていた。
深緑をした髪とさらに濃い色をした目で。さらりと髪をまとめ上げると
長の印である紅宝石付の鉢巻きを締めるちょっとだけ年の離れた男性。
毎日共に過ごした幼馴染ともいえる存在。
小さい時、親が全然帰ってこなくて泣き続ける俺が独り立ちできるまでのまともな人格を形成してくれた兄とも呼べる人だった。性格が少し残念だが。
上裸である己の肉体を見つめてうっとりと、感慨に耽っていた。
距離にして半歩まで近づいてやっとこちらに気が付く。
「おはようベルム。見てくれよ、昨日は小狼を仕留めすぎたのか
未だに腕が震えてるよ。ちょっと、触らないでくれ。いたたた…痛くない!」
朝からキツイ煩い奴から黙って桶を奪い去ると
俺は井戸でくみ上げ新鮮な水が入った盥から注ぎ込む。
布を浸し、動きの鈍い身体へと染み渡らせる。ひんやりとした冷たさが全ての神経を一新した。
井戸周りでは同じように村の人々が朝の清めに勤しんでいた。
特に決められた縛りが無いために性別関係なく、この日課は行われている。
羞恥は当たり前に誰しあるもので態々全ての衣類を脱いで清めをする者などおかしな目で見られたい奴くらい。今隣にいるのは例外とも言える。
「なぁ。朝嫌いの僕が君と同じ時間に起きるなんておかしいと思わないか」
数が多くなってきた事で流石に恥ずかしさを感じたのか、服を羽織りながら彼は聞いてきた。
「さぁ、ね」
適当に返事をする自分に、気分よく彼は答えを提示する。
「ハハ、聞いて驚け!君が今日で17になった。これはこのヤークの村を
離れることが可能になる素晴らしき日だということ。僕が祝わずしてなんとなる~」
歌うように彼は手を広げ、甲高い声を発する。
確かにこの村は、いくつか決まりがある。そのうちに17を満たさない者はある距離以上村を離れてはいけないというものがあった。
それが遂に解かれるという事だ。
「ぺルムよ、君とは長い付き合いになる。兄弟の仲とでも言うかな。
親父に話したら僕も外に出る事を許可されたのだ。早速、行こうとも!」
「メリーク…お前がペルムと呼ぶときは大抵くだらない事でも考えてる証拠だよ」
彼の名前…メリークをあまり呼びたがらない理由は二つあった。一つはその名はここヤークの村で長となる者に命名されたもの。ただ単にベルムがこんな奴を長と認めないという小さな我儘だ。実は彼の方が2つ上、年が離れている。だが実際、彼の愚行を止めるのはベルムである。だからこそ呼び辛いというものだ。彼はヤークの村の最高権限を持つ者なので17となっても外を出る事は無かった。彼の父は息子が外で悪事を働かない故の措置だ。恐らく自分が付けば何事も起こらないだろうという考えだろうが正直苦痛である。もう一つはその名を呼ぶことで彼は耳に聞き入れるが、長である自信をまた高める結果にもなるということ。
「フハハ、何を言っているんだ!!別に隣村に行って若い女の子とお近づきになろう
とかくだらない考えなんてしてなーいとも!さぁ準備をしよう、後で家に来たまえ」
スキップしながら、井戸を去っていく。腕の痛みなど気にしていないのか
愉快な口笛を吹きながら視界から消えた。
特に井戸にいる理由も無くなった事から、帰宅する道に沿い、裏庭で木刀を掴むと訓練を開始した。
この世界には、自分が住む村の種族、人間ではない者が存在している。
メリークが話していた小狼。人間が生きる為に食料として活用するのは魔物という種族であった。言わば食物連鎖上同じ位置に存在するもの。人が喰われようと、魔物が殺されようとそれが日常。戦わなければ、やられてしまう残酷な世界である。
村の位置的に、あまり凶暴な魔はうろついていないが今は亡き者の助言により昔から特訓をこなす。
物事を理解できる年になって知り合いの老人に聞いたのは、ああ、やっぱりかという内容だった。” 君の両親は戦争に呼ばれたんじゃ ”
帰ってこない事実がやっと…やっと。
あれほど涙した事は無い。ぽっかりと空いた穴に、その漏れ出した液体で一杯になるように。
それから。夢を見るようになった。
…俺は感情を外に出すのが上手くないけど、本当は凄く嬉しいんだ。
親が村を出たように。俺も同じ事が可能となったから。
そうして、汗に塗れた衣類を脱ぎ、外出用の服に着替えて飛び出した。
一年経ったある日、メリークが訪れやってきた。
そう言えば二週間も前に隣村で知り合いとなった女の子を口説くに失敗して、僕はこんな事じゃ挫けない男だ!と暴食を繰り広げ豪語した夜から顔を合わせてなかった。きっと今まで家に籠っていたのだろうこいつの事だ。
古い椅子に腰かけると、いつになく慎重な物腰で尋ねる。
「…実はここ数日、ある重要な書簡が途絶えた。
隣村からさらに離れた少し大きな石造りの家が特徴的な街を覚えてるか?」
こくりと頷く。
持ってきた飲み物を彼に渡して自分も腰かけテーブルに肘を乗せた。
石で柱を建て、木材で囲ったもの。夜半に魔物が立ち寄っても家にいれば安全そうな出来であったのを頭の中で掘り起こしていた。
何かあったのだろうか。
「ふむ。親父には黙ってるんだこの件は。つまり知る人物は僕とベルム」
冷汗がでた。
「急ぎ確認を取ってみたい。
もしかしたらかなりヤバい事になってるかも。厳重な装備で今から行こう」
町までは体力を温存するペースで行けば日数がかかる。
親父に話さないで行けば確実に後で怒られるだろうが相当の覚悟の様だ。
ベルムと俺をそう呼ばなければ、賛同してもいいだろう。
「待て。メリーク、重要な書簡…とは?」
ため息をつき、緊張した空気に軽く投げかけた。
みるみるうちに両者の表情が曇っていく。実情は全く別方向。
「ああ…僕と密かに繋がりのあったジーンという女性からの書簡さ。
あの返事にだんまりな筈がない…。きっと誰かに捕まったりして!!」
見限られた、という選択肢は彼に残ってないのか。
考えたくないのも分かるのだが…。
「急ごうベルム!!僕がジーンを救出するのさ、君が物語として
みんなに伝えてくれ。愛しき彼女を探す為~遠い場所からやってくるー」
呑気に歌いながら、飲み干したカップを片手に飛び出していった。
コイツ…。
断る訳にも行かなかった。なにより行動力こそ彼の長所。
自分が行かないでも誰かが犠牲になる勢いだ。
長年の連れともいえる関係となった事で、毒された事にも気が付かない。