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あんたは随分と眠たいようだ

 ぼくは何かを呟いたのです。なるほど……とか、いやしかし……とか、はてさて……とか、それはそれは……とか、そういった意味を成さない唸りに近い呟きを絞り出したきり言葉が続かなかったので、ぼくはもう次の一手を警察官どのに委ねることにしたのです。もちろん、ぼくの家へと続く道を拓いてもらうという究極の目的があったので、そこに向かってぼくたち二人を誘導しなければならないことは承知していましたが、ぼくは何故だかもう少しゆっくりゆったり、落ち着きをもってここに腰を据えてみたい気持ちになっていました。不思議と言えば不思議な話なのです。ぼくは一刻も早くぼくの家に帰りますと告げてこの場を立ち去らなければいけないわけで、落ち着いていられる状況など初めから用意されていないはずで、ところが警察官どのの顔がバスの男とそっくりそのまま同じ顔。それ自体は偶然であるにしたって、ぼくが同じ顔の男と立て続けに遭遇したことすらも偶然の一言で片付けようと言うのは虫がよすぎる話ではないでしょうか。かと言って、同じ顔の片割れであるところの警察官どのが堂々とした態度でもって、知らぬ存ぜぬ、そう明言している以上、ぼくがこれ以上このことにこだわりを持ち続けるのは時間の浪費以外の何物でもなく、つまりはぼくはもうぼくの家に帰る頃合いなのでした。それでもぼくは次の一手を警察官どのに委ねると強く思ってしまったので、とりあえずは警察官どのの立派なお髭を眺めて過ごしていました。

 まったく羨ましくなるくらいのお髭なのです。理知的で荒ぶったところがなく、一本一本に彼の美意識が行き渡っていました。髭に込めた彼の愛情を想うと気が遠くなりました。警察官どのは黙ったまんまで、うっすらと微笑んでいるように見えました。


 ぼくは眠っていたのだと思います。ずいぶんと長い間目を閉じていたような気がして、急いで目を開けた瞬間に、警察官どのが声には出さないまでも、おっ、とほんの少しの驚きをその顔に宿していましたし、夢をみていたような記憶がいくらか残っていました。

「あんたは随分と眠たいようだ」

 そう言う警察官どのも酷く眠たそうな眼をしており、今にも下りようとしている瞼を透明なつっかえ棒で懸命に支えているように見えました。

「やはりぼくは眠っていましたか。となると、あれは夢だったわけですね」

「あんたがごく自然に眠り込んでしまったものだから、止めること叶わなかった。一瞬の出来事だったのだ。あんたの寝顔を眺めているのはとても退屈だから、いっそ叩き起こしてしまおうかと迷っているところであった。無論、私にはその権限の持ち合わせがたっぷりあるので、こいつを官特有の横暴な態度だなどとは思って欲しくないのだが」

 ぼくは警察官どのの立場というものに同情します。最早ぼくと警察官どのは友人同士と言っていいほどの間柄なのにも関わらず、警察官どのは警察官であるがゆえに、不意に眠り込んだ失礼な友人の肩を揺り動かすことにすら躊躇いを覚えてしまうのでした。ぼくはせめてもの救いとして、にっこり聖人の笑顔でもって、「ええ、もちろんです」そう言いました。そして、せっかくだから警察官どのにぼくのみた夢の内容を話してあげようと思いつきました。なかなかユニークな夢だったので、警察官どのもきっと満足してくれるに違いないと思ったのです。

「夢の中でぼくは女と、途方もないくらいに美しい女と、向かい合わせで座っていたぼくは女のことが悲しいほどに好きで、実際に悲しくもあり、女の方だってきっとぼくを憎からず思っているに違いなく、ぼくの手のひらの一部からはしゅうしゅうと非常に高熱の蒸気が漏れていて、このままでは危ないと言うことで、振り返ると、大きな湖の対岸にそびえ立つあまりにも巨大なホテルが土煙をたてながら崩れ落ちている最中で、女はコーヒーカップの中にスキと書いてぼくに見せてくるので、ぼくは女の手をとりここに隠れていなさいと、そんな夢だった気がします。あるいは、きらきらと輝く暖かい部屋の中。座り心地の良さそうなふかふかの椅子に腰掛けて暖炉の火を見つめる男。なんとも優雅で満ち足りた表情だがその瞳の奥深くには深い哀しみがある。全ては終わったのかも知れない。全てはこれから始まるのかも知れない。ひょっとすると今この瞬間に全ては起こっているのかも知れない。男にはどうすることもできない。微笑みとも諦めともつかぬ口元から鼻歌が漏れ聞こえるのみである。あるいはこんな調子で、ぎゅうぎゅう詰めのバスの中、隣の男に赤は善い色なのだろうかと尋ねてみたのですが、窓の外の風景は真っ黒で、黒々とした立派な髭をしごきながら、見知らぬ風景殺風景の中、スペイン風の歌を歌い、その歌の替え歌をふたり交互に、延々朗らかに歌いあげたのでありました」

「もうその辺にしておいてくれないか。他人の夢の話を聞くのは気持ちのいい体験ではない。起き抜けの、出来立てほやほやの夢の話ならなおさらだ」

 ぼくと警察官どのの間に険悪な雰囲気が漂いました。ぼくがよかれと思ったとった行動が裏目に出た格好です。警察官どのは険しい顔をしながら、テーブルの上を人差し指と中指でトトットトットトットトトトッと弾いているのでした。険しい顔とは裏腹に、そのリズムはなんとも愉快で、これはまさしく先ほど夢の中でぼくとあなたが交互に歌ったスペイン風の歌の替え歌のリズムそのもので、警察官どのはああ言ったものの実はぼくの夢の話に興味津々なのではないかという疑念がぼくの中に渦巻きました。


 ではなぜ警察官どのはぼくの夢の話を拒絶したのだ?

 そりゃ、つまりだ、つまりきみの話し方がまずかったのではなかろうか。

 でもああ話すしかなかった。

 全くだ。

 あれがぼくの夢を言葉に変える限界だった。

 嘆かわしいことだ。

 本当にあのままだったのだ。

 わかっているさ。

 きっと何も伝わらなかった。

 そうだろうな。

 ぼくは一体どうすればいいのだろう? この失態を帳消しにする術があればいいのだけれど。

 ちょっとは頭を使ったらどうなんだ。さっききみが目覚めた時、警察官どのは眠たそうな眼をしていただろう。この事実から察するに、彼もまたまどろみの中の住人だったのではないだろうか。差し向かいでお互いが居眠りをしていたんだ。夢が混じり合ったって特別不思議なことじゃないだろう。

 つまり?

 ああもう、焦れったいなぁ。警察官どのの指が刻むリズムに合わせて歌ってみろよ。あの可笑しくも哀しい日々の営みの歌の替え歌をさ。

 それが一体何になるんだ?

 ならないよ。何にだってなるもんか。けれども想像力を働かせてみなよ。この険悪なぎすぎすした雰囲気、こいつを一転朗らかで明るく変えることができたら。

 それはもちろん素敵だが。

 だが? だが、なんだ? そこまでわかっていながら、なぜ返す言葉がある? ただやってみる、それだけのことがなぜできない? 恥をかくことを恐れているのか? それともあのピストルを? 観客は警察官どのだけだ。きみも知ってのとおり警察官どのは立派なお人だ。人格者だ。きみの歌がどんなにまずくったって、ピストルをぶっぱなされるようなことにはならないでしょう。

 ぼくの歌はまずくなんかない。自信はあるんだ。

 ならばきみが歌わない理由はない。


 ぼくがぼくの心に相談を持ちかけたのは何も歌いたかったからではなかったのですが、しかしぼくの心が答えたように、確かにぼくは歌わなければならないようなのでした。警察官どのの指が弾きだすリズムにはいつの間にやら薬指と小指も仲間入りしていて、また、指の腹からの柔らかい音だけだったのが気づかぬうちに爪の先からの硬い音も巧みに織り交ぜていて、リズムは次第に速く複雑に、原初の打楽器さながら熱狂的に変貌していましたが、やはり根底に流れているのは、あの歌、スペイン風の歌の替え歌なのでした。

 ぼくはごくりと唾を飲み込みました。いまやぼくに相談するまでもありませんでした。警察官どのははっきりとぼくに、歌え、そう伝えているのでした。まずい歌なら許さんぞ、そう言っているのでした。ぼくの心は警察官どのはちっとやそっとじゃピストルをぶっぱなさないと思い込んでいるようでしたが、そいつはいささか楽観的に過ぎるかもしれないと思い、ぼくはもう一度、今度は控えめにこくりと唾を飲み込むのでした。

 歌い出しが肝心なのです。迷うことなく喉をがばっと開いて大胆かつ繊細に震わせることができさえすれば、滑らかに、引っかかりや突っ張りを感じることなく、油を塗りたくった鍵穴に鍵を差し込むように、忍びこむようにすべりこむことができさえすれば、ぼくの声は縦横無尽にこのリズムの中を飛びまわり、警察官どのの胸の奥深くまで痺れさせとろけさせ、恍惚の表情を浮かべた観衆は総立ちとなって割れんばかりの拍手喝采、最前列のご婦人は興奮のあまり気を失ってしまい警備員に担がれて、その警備員の頬にも感動の涙が一筋二筋、花束やお菓子の箱が雨あられと降り注ぐ熱狂の混乱のなか、ぼくは控えめにぺこりとお辞儀をしながら、ぼく自身、心底から素晴らしい歌だったと思えるはずなのでした。


 もうその辺にしておけよ。ちょいと調子に乗りすぎだ。

 わかってないな。こういう時はいかに自分を昂らせることができるかが重要なんだから。

 それにしたって大袈裟すぎてね。加えてずいぶんと俗っぽい。恥ずかしくって見ちゃおれんよ。

 いいから好きにさせてくれよ。ひょっとしたらお前の存亡だってかかっているのかもしれないのだから。

 確かにね、それは言えてる。


 その時、それまで躍動する自分の指先をじっと見つめていた警察官どのが、不意に目を上げ、ぼくの視線と警察官どのの視線が真正面から衝突しました。まさに今、とぼくが思ったかどうかは不確かですが、ぼくは水面を飛び立つフラミンゴさながら、優雅ではありませんがまずまずの滑り出しで歌い始めたのでした。


 おいらが毎朝畑にゆくのは

 貧乏のせい

 金があったら誰がゆくもんか

 あんなところへ好き好んで

 おいらがあのこにちょっかい出すのは

 貧乏のせい

 金があったら誰がゆくもんか

 あんな女に好き好んで

 おいらが明日戦場にゆくのは

 貧乏のせい

 金があったら誰がゆくもんか

 そんなところへ好き好んで


 ぼくが歌い終わるのとほぼ同時に、警察官どのの指もようやく止まりました。ぼくは肩を強張らせて、もし警察官どのがピストルに手をかけたらどうしようかと考えていたのですが、ぼくは目のいい方ですので、もしかするとピストルの弾を避けることが出来るかもしれませんでしたし、もし目で捉えるのは無理だとしても、あれだけ指先を激しく動かした警察官どのがまともに狙いをつけられるのかも疑問でしたので、緊張の中にもいくらかの余裕が生まれ少しは気持ちも楽になって、それよりもなによりもぼくのしっとりと熱のこもった圧倒的な歌声が、段々と実感としてぼくの記憶に表れはじめたので、ぼくはピストルよりもそちらに心奪われていったのでした。

 ぼくの歌声はまさに一世一代の出来栄えであり、どのような角度から切り取ってみたって賞賛に値するものとなっていました。ただ残念なのが舞台は警察署の取調室であったことで、これが音響設計が細部まで調節された歌劇場であったならば、耳の鋭い紳士淑女のもとにこの素晴らしい歌声を届けることができたはずなのに、と口惜しく思わないでもありませんでした。しかしそれも所詮は些末なことであり、あの時あの場所でなければぼくにあの歌声は出せなかったのかもしれませんし、警察官どのが朗らかな気持ちになってくれさえすればそれでよかったのでした。


 絶筆。

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