存在しない
「中で話を聞こう」
警察官はそう言ってさっさと歩き出したので、ぼくも急いで後を追いました。警察官はぼくの顔を見ても驚いた素振りも気まずそうな表情も見せず、またここで会ったが百年目とばかりに飛び掛かってくることもなく、極めて自然体で、ぼくとは初対面のように振舞っています。ぼくの見間違いだったのかもしれない、彼の立派な髭だけを見て同じ顔だと判断してしまったのかもしれない、何だかそれはとても信ぴょう性のある考えに思えました。
少しばかりほっとしたので、余裕しゃくしゃくの好奇心であたりの様子を伺いました。駐車場に引退寸前のパトカーが佇んでいるのがぼくの目を引きましたが心躍るような景色とはどうにも言い難く、警察署の周りと光の集まる場所にしては肩透かしなほど殺風景でした。
ほんの少し目を上げたところに煌々たるカスタード色の満月が浮かんでいて、その横に負けじと輝く光の点がありました。これは噂に聞く人工衛星に違いあるまいと思い、警察官に確認をとろうかどうか迷ったのですが、職務中の彼に気安く声をかけて気分を害された末に逮捕拘留などと言う破目に陥ってはたまらないので、ぼくは固く口をつぐみ、ぱりっとした青い制服の背中に目を戻し、厳粛な態度でもって指の先まで神経を尖らせながら彼についていったのです。
警察署の中は薄暗い上に、ところどころで蛍光灯の寿命が尽きかけているため、不愉快な光の明滅が絶え間なく起こっていて、人の気配は全く感じられず、物音と言えばぼくたち二人の足音と蛍光灯のわななく声がかろうじて聞こえるくらいのもので、ぼくは罪人の立場でここに訪れたわけではないことを強く自分に言い聞かせなければ、絞首台に向かって死の行進をしているような錯覚に巻き込まれて気が狂ってしまいそうでした。
掃除が行き届いているとはとても言えない狭い廊下を何度か右に左に曲がりました。その頃にはぼくの方向感覚はすっかり用をなさなくなっていて、帰りは出口まで送ってもらえるのかどうかが気掛かりでなりませんでした。そこのところを確認してみたい気持ちはやまやまでしたが、彼がぼくのことをどのように考えているのかが不明瞭である以上、印象を悪くする可能性のある行動は避けるべきでしょう。つまりは人工衛星の件と一緒、ぼくは沈黙にものを言わせたのです。
唐突に足を止めた警察官が、腰に下げた鍵の束をがちゃがちゃやりはじめました。ぼくが入ることになるであろう部屋の扉には、「取調室」と書いてあるプレートが貼り付けてあり、ぼくはいよいよ罪人になってしまったのではないか、何かあらぬ誤解をうけているのではないか、と心配になりましたが、ぼく自身が何もしていないことをよく知っていますし、罪状も被害者も存在しないのに取り調べなぞありえるのでしょうか。
「中に」
警察官は無愛想にそう言って、ぼくに先に部屋に入るよう促しました。ちらり覗いたその顔はやはりどう見てもバスにいた男で、ぼくの見間違いかもしれないと言う説は覆された格好になります。他人の空似か、同一人物か。双子の兄弟と言うこともありえますが、いくらぼくの頭の中で考えを巡らせてみたって結論は出やしないのです。ここは本人に直接問い質してみる以外にこの問題の解決は不可能でしょう。しかし、同一人物だった場合を考えますと、目下のところ彼はぼくのことを忘れているようなので、下手な質問で藪蛇をつついた挙句に彼の怒りを再燃させてしまって、また首に手を掛けられたらたまったものではありません。何しろ警察署に運転士はいないので、空間のずれが発生する可能性は極めて低いと言わざるを得ないのです。
勧められるまま座り心地の悪いがたがたのパイプ椅子に掛けて、テーブルを挟んで真向かいに警察官が腰を下ろした瞬間を狙い、ぼくは意を決して口を開きました。
「いくつか質問があるのですが、よろしいでしょうか」
警察官が無言で肯定の仕草をしたのを見て、ぼくは続けました。
「その前に誓って欲しいことがあります。ぼくの質問にどのような感情を抱いたとしても、ぼくの首を絞めることだけはやめていただきたいのです。冗談のつもりであったとしても、親愛の情を示すためであったとしても、例外は認めません。誓えますか?」
警察官は寛大な微笑みを浮かべて、深く頷きました。
「誓おう。それであんたの気が済むのなら」
ぼくは内心ほっとひと安心、胸をなで下ろしたのですが、万が一と言うこともあるので念には念を入れるべきだと考えました。
「あなたを信頼しないわけではないのですが、担保なき誓いなぞ酔っぱらいの口約束も同然ではないでしょうか。言った言わないの水掛け論になるのは御免被りたいものですな」
「いやはや疑り深いもんだ!」警察官は驚愕の表情を顔一杯にみなぎらせて言いました。ややあって、「しかし、あんたの言い分ももっともだ。もとよりあんたの首を絞めようなんぞこれっぽっちも考えていないし、これからもその予定はない。よかろう、この件に関しちゃ何にだって誓ってみせよう。なんならこいつを担保にしたっていい」
そう言って警察官は懐から何やら取り出し、重く鈍い音を控えめに響かせながら、そっとテーブルの上に置いたのです。
「これは?」
「ピストルだ」
「ストルピ!」
「まあまあ落ち着いて」警察官は笑いをこらえながら言いました。
「しかし、このように物騒なものを出されては……」
「なに、引き金を引かなきゃ大人しいもんだ。それにこいつはそこいらの官品とは違う。私がその道何十年の職人にあつらえさせた逸品中の逸品だ。見てみるかね?」
そう言って警察官はぼくの目の前にピストルを差し出しました。
ぼくはおずおずとピストルを手にとり、眺めて、なるほどこれは逸品中の逸品だと得心しました。ぴかぴかにメッキされた銃身には、驚異的に釣り合いのとれた宇宙的な柄の彫刻が完璧な仕事でもってなされており、銃把は象牙で——繊細な縞模様でおそらくは本物でしょう——そこにもまた美しい彫刻がなされていました。殺しの道具でありながら芸術品。ずしりとした手応えの重みが手のひらに吸いつくように馴染み深く、内から勇気が湧いて出てきて、もしも今、警察官がぼくに襲いかかってきたとしても、ぶっぱなしさえすれば万事上手くいくような気にさせてくれました。高貴でありながらまことに破廉恥。まさしく、まさしく、これぞ逸品。
「どうだろうか。私の誓いの担保にこいつでは物足りんですかな?」
自信満々といった感じで警察官は言いました。
「これ以上は望むべくもないでしょう」
ぼくはため息混じりにそう言うのがやっとでした。こいつがぼくの物になるのであれば、首を絞められるくらいなんだ、とすら思っていたことをぼくは告白します。それくらいの逸品でした。警察官に遠慮がちに手のひらを出されてからも、ぼくはしばらくその行為がピストル返却の催促だと気づかなかったほどでした。
ピストルがぼくの手から離されてからも、ぼくの手にはピストルの重みが、ひんやりとした質感が、蜃気楼のようにゆらゆらと、実際に蜃気楼を見たことがあるわけではないのですが、現実でありながら幻想、いや幻想でありながら現実? ぼくの手にピストルが残していった感覚を、ぼくは掴んでやろうと、永遠にぼくの手に宿してやろうと、繰り返し繰り返し、ぼくの手をぐーぱーさせていたのでした。
ぎゅっと握って、ふわっと放つ。ぎゅっと握って、ふわっと放つ。ぎゅっと握って、ふわっと放つ。
「こいつは、情熱的なジプシー女のようなところがあってね。つまりは男を狂わせちまうんだ。その様子だと、あんたまだ女を知らんようだね? 恥ずかしがるこたないさ。私だって他の連中よりはずいぶんと遅かったし、何人もの女を出たり入ったりしたって女の全てを知ったふうなことは口が裂けたって言えやしない」
警察官の言葉に、ぼくは顔を熱くしてうつむくばかりでした。女! 女がいるのです。この世には男と女がいるのでした。急にぼくの手が穢されたような気持ちになり、手のひらをごりごりとパイプ椅子の関節にこすりつけてみたのですが、ぼくの手は独特の熱を帯びたままぼくの顔はますます熱くなるばかり、ぼくは小さく縮んでいってそのまま質量の矛盾による破裂でなかったことにならないだろうか、全てはなかったこととして処理していただきたいのです警察官どの、そう願ってみたって、起きてしまったことをなかったことにすることができたとしたって、手のひらの肉をこそげ落としたって、ぼくに刻まれた強烈な体験を消失させるにはぼく自身がまったく違う存在になったとぼくが認識するより先に既にぼくが全く違う存在になっていることが必要ではありますまいか。さて、しかし、ぼくはこのような混乱の体験をなかったことにすることは決してできないわけですが、隠すことはできるのでした。ぼく自身から隠すことはできなくとも、警察官の目を欺くことはたやすく、とどのつまりは知らん顔をすればいいのでありました。
「……ピストルを男根の象徴だなんてしたり顔で言うやつはろくなものではないね。あんたも触ってみてわかったろう。こいつは女だ。とびきりの、生唾ものの、美女そのものだ。すみからすみまでためつすがめつ眺めてみたって飽きやしないが、ひとたび引き金をひいてしまえば……BLAM! 運悪く銃口が私の方を向いていたなら永遠にさようなら」
警察官はおかしくてたまらないらしく、ひとりでくつくつと笑いを噛み締めていました。ぼくの顔は熱いままでしたが、そんなことはどうでもいいと、本当はどうでもいいわけではなく実際問題大問題ではあったのですが、まあどうでもいいと、今までだってそうやってきたような気がするので、どうでもいいの積み重ねで、延々と続いた積み重ねの結果がぼくなのでした。
「まことに見事なご高説。配慮の行き届いた煽情的かつ啓発的なお話でありました。それはさておき、これにて誓約はなされました。あなたの準備が整い次第、ぼくの質問に答えていただきたく思いますがよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ」
まだまだ話し足りなかったでしょうに、警察官どのは鷹揚な態度でもってぼくの質問を待ち構えるのでした。ぼくはなんだか緊張してきてしまって、えへんとひとつ咳払いをして、顎のあたりをしょりしょりと撫でながら質問を投げかけたのでした。
「では。警察官どの、あなたは通勤にバスを使いますか?」
「一体全体どんな過激な質問が飛び出してくるのかと心配していたら。バスだって? 意図の不明な質問に答えると言うのも、なかなかスリルの効いた話ではある」
「煙に巻くような発言はご遠慮願いたい。ぼくにとっては最重要な問題なのです」
「これは失礼。私は通勤にバスは使わんね」
「絶対に?」
「いかにも」
「通勤以外では?」
「年に一二度」
「例えば今日は?」
「乗ってない」
ぼくは思わず安堵のため息をもらしました。バスの男と、警察官どのは全くの別人だったのです。しかしながら、別人だとは言っても赤の他人であるわけではありません。型で押したようにそっくりそのまま同じ顔。ぼくは追究の手をゆるめずに更なる質問をぶつけました。
「警察官どの、あなたには双子の兄弟がいて、彼はバスを利用しているのではないですか?」
「私に双子の兄弟はいない。したがって彼はバスを利用してはいない」
「ひとつ違いの兄弟は?」
「存在しない」
「ふたつ違いかもしれません」
「存在しない」
「あなたに兄弟は?」
「存在しない」
「ではあの男は一体なんでしょう!」
「私が言えるのは、知らぬ存ぜぬ、ただそれだけ」