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赤は善い色なのだろうか

 ぼくの家に帰ります。

 ぼくのいないぼくの家をぼくはまだ一度も見たことはないのです。そうなのです、ぼくはまだ一度も見たことがないのです。

 ぼくのいないぼくの家は日の移りをじっと眺めながら、ひたすらにぼくを待っているのです。それは辛く虚しく長い仕事です。もしかしたらぼくは二度と帰ってこないのかも知れないのです。ぼくの家がそれを知る術はないのです。ぼくの家は不安でたまらないのです。そんなぼくの家のことを思うと、ぼくは何としてでもぼくの家に帰ると決意するのです。ぼくの家の不安をできるだけ軽減させる為に、ぼくは寄り道をせず同じ時間に帰るよう努めているのです。ぼくがぼくの家の扉の鍵を開ける音でぼくの家はようやく仕事が終わったと安堵のため息を漏らすのです。ぼくがぼくの家に一歩足を踏み入れた瞬間にそれはいつものぼくの家に戻るのです。真っ暗闇ですが、ぼくの家の匂いでぼくはぼくの家に帰ってきたのだと知るのです。

 ぼくはぼくの家に帰る為に外に出るのです。どう進もうが、それは帰り道の途中です。帰り道でなかったことなど今まで一度もないのです。何故ならぼくがぼくの家に帰らなかったことはないからです。

 ぼくのいないぼくの家をぼくがまだ見たことがないのも納得です。

 ぼくはぼくの家に帰ります。


「赤は善い色なのだろうか」

 ぎゅうぎゅう詰めのバスの中、隣にいた男がそう呟くのが聞こえた時は、まさか彼がぼくに話しかけているなどとは夢にも思わず、窓から見える人の数をぼくは熱心に数えていました。ぎらぎらに着飾って大きな口を勢いよく開いたり閉じたりしているお婆さんと、ぱんぱんのお腹を突き出したむすっと文句ありげなお爺さんの二人組で百人目を数えたものですから、ぼくはほんの少しだけ気分を上げて「百」と心の中でおごそかに宣言したのです。十四人目や七十九人目ではこうはいきませんでした。百という数が特別な響きを持っているのがわかります。何かを成し遂げたような、まだまだ通過点に過ぎないような、そんな気持ちを少し落ち着かせて、早速百一人目に取り掛かろうとした時です。 

「血の色も赤だ」

 ぎょっとするようなことを隣の男は言うのです。事実、ぼくは少々面食らいながら隣の男に目を向けたのです。男はこちらをじいっと食い入るように見ていました。

 まず目についたのは、口のまわりは言うに及ばず、頬や顎下、果ては喉仏のあたりまで、男の顔の半分ほどを黒々と覆っている、思わずおっかなびっくり手を伸ばして感触を確かめたくなるくらいに大層見事な髭でした。

 気圧されたぼくを捉えているぎょろっと厳しいその目は頑固な力強さを備えていて、ぼくの返答如何によっては手酷く傷めつけることも辞さぬと決心しているのでした。ぼくは震えあがりそうになりながらも、この男に弱みを見せるのは得策ではないという咄嗟の判断により、涼しげな表情を崩さず、バスの乗客に面目を保つことになんとか成功したのですが、もはや一刻の猶予も与えられぬと固められた男の拳には青みがかった太い血管が浮きあがっていて、それがぼくの鼻めがけて飛んできた時の衝撃と痛みの強さを想像すると、ぼくはなんとしてもそのような事態になることを避けなければならないと強く思うのですが、気が焦るばかりで、男の心情に添う行動がどのようなものなのか手掛かりすらも掴めずにいたのです。

 赤は善い色なのだろうか。今更ながらぼくは男の問いを、噛んで含むようにぼくに問い掛けてみました。返事はなく、沈黙でした。いえ、かすかに何か騒めきのようなものが発生したのですが、それが何であるか確認する間もなく溝に引っ込んでしまって、溝をほじくり返そうとしても、却って奥に奥にと押し込むばかりで埒があきません。途方にくれているぼくを、男はどんな顔で見ているのだろうかと気になったので、ちらりと男の目を盗み見ると、驚いたことに幾分かは機嫌が和らいだご様子なので、ほっとすると同時に、これは百一人目に取り掛かってもいい頃合いだと合点して、ぼくは窓へと目をやりました。まだそんな時間でもないのに通りは薄暗く、人っ子ひとり歩いていないのが、ぼくには不満でした。百は気持ちのいい数字ですが、百で止まるというのもなんだか座りが悪く、一刻も早く百一人目を発見しなければこの気持ち悪さは解消されないのです。

「黒よりももっと善い色なのだろうか」

 ゆっくりと流れる入り組んだ風景へとぼくの意識が集中した瞬間を狙って発せられた男の新たな問いに、ぼくはにんまりしました。先ほどの問いとは違って、その答えは既にぼくの中にあったからです。いちいち中を引っかき回したりしなくてもいい、ほんの少し意識を向けた場所におあつらえ向きといった感じに用意されていたのです。

 あらかじめ仕掛けておいた罠に、男がまんまと引っ掛かったような気分に嗜虐心をくすぐられながら、ぼくは自信満々に言い放ちました。

「赤と比べるまでもなく。あらゆる色と比べてみたって一目瞭然。この世で最も醜悪な色は黒で間違いないでしょう」

 これまでぼくは数え切れないくらいの言葉を発してきたはずなのですが、この最新のぼくの言葉はそれまでのそれを綺麗さっぱり忘れてしまうくらいの鮮烈さで響き、事実としてぼくはぼくのこれまでの言葉を何ひとつ思い出すことが出来なかったので、これはぼくが生まれて初めて発した言葉なのだと確信を持つに至ったのです。ぼくは奇妙な魅力を携えたぼくの初めての言葉の出処を興味津々の態度でもって探りながら、同時に男の反応をしっかりと見張っていました。

 男はぼくの言葉を受けて、何か言おうとしてすんでのところでそれを押し止めるという動作を何度か繰り返した後、そのまま黙り込んでしまい、怒気を孕んでいたその顔からは感情が消え失せ、その目には、怒りでも哀しみでもましてや悦びでもない、複雑な色を湛えながら相変わらずぼくをじっと捉えて離しませんでした。

 男の反応に何かを期待していたわけでもないのですが、それでも何らかの感情の発露を予感していたぼくからすると、男の反応は無に等しく、あまりにも退屈なものだったので、ぼくははっきりと面白くない気持ちになって、男にこう投げかけたのです。

「何か反論はおありかな?」

 男は非常にのんびりとしたまばたきをすると、抑揚のない響きで、

「いや、もはや言葉はいらぬ」

 そう言ったかと思うと、やおら両手をぼくの方へとゆっくりと伸ばしてきたのですが、ぼくはと言うと男の両手の軌道を予測し、その到達地点はぼくの首であると結論付けたにも関わらず、迫り来る両手を振り払おうともしないで、ぼくの創り出したたったひとつの芸術であると同時に最高傑作、腐敗知らずの黄金の響きでもって世界に飛び出した完全無欠のぼくの最新の言葉、その余韻に、残響に、髄まで浸りきってすっかり夢見心地の塩梅でした。

 多少なりともぼくが正気に戻ったのは、既に男の指ががっちりとぼくの首に食い込んだ後でした。ばね仕掛けの大蛇が大口を開けて首に噛み付いている痛みと声も出せない程の息苦しさと恐怖で、ついさっきの芸術的な麗しき到達はどこへやら、ぼくは男に目でもって無様に許しを請う始末でした。

 ぼくの気持ちを知ってか知らずか、男は力を弛めるどころか更に更にと僕の首への圧迫を強め、ぼくの意識も幾分か薄らいできたような気がした時、空間のずれが発生したので、ぼくとひとかたまりになった男は押されて引っ張られてよろめきつんのめって、その拍子に男の両手があっけなくぼくから引き離されたのです。

 物憂げなため息のような音を伴ってドアが開いたので、ぼくはバスが随分と乱暴に停止したのだと知りました。

 そのこと自体は幸運だったのです。ぼくの首は自由の身を謳歌していて、呼吸の通りも問題はなく、むしろ肩まわりの凝りが幾分か和らいでいるくらいで、それもこれもバスが乱暴に止まってくれたお陰でありました。運転席は遥か遠くにあるので、運転士が気を利かせてくれたのか、それとも元来おっちょこちょいな性質なのかは判断に迷うところですが、どちらにせよぼくは運転士に礼を言うべきでしたし、言うつもりでもあったのです。

 その願いが叶わなかったのは、バスから降りようとする人の群れにぼくがもみくちゃに巻き込まれてしまったからです。首を絞める男という目下の脅威はあるものの、ぼくが時間通りにぼくの家に帰るためにはバスに乗り続けるしかなかったので、ぼくはバスから降りるつもりなどつゆほどもなかったのですが、我先にとバスから降りようとする人びとのエネルギーが束になった激流の中にあっては、抗ってみてもいたずらに体力を消耗するだけで、ぼくはついに力尽き、流れの一部となったままバスから吐き出されたのでした。


 少しの間気を失っていたのかもしれません。ぼくが気づくとバスはとうに走り去った後らしく、バスの乗客だった人びとの姿も見えず、見たことも聞いたこともない吹きさらしのバス停がぽつんと立っているだけでした。あたりは冷たい空気が支配していて、ざっと見渡してみても見覚えのあるものはどこにもありません。ぼくはぼくの家を急速に見失いつつあることに気づき、言い知れぬ不安が鎌首をもたげてぼくを喰らい尽くそうと舌舐めずりをしているのを見ないふりで、バス停の時刻表からひらひらと微弱な風になびいている、半壊状態の主なきクモの巣をそっと手ですくいました。

 だいぶ長い間手入れをしていないはずなのに、クモの巣は食欲を失っておらず、ぼくの手が、ぼく自身が、久しぶりの獲物だと大喜びでまとわりつき、ぼくがそれを小さな黒い丸にまとめあげても、手から手へ、指から指へ、まだまだ貪欲にぼくから離れようとしないので、苦心の末に小さな黒い丸をどこかに弾き飛ばした後も、ぼくはクモの巣に引っ掛かったままなのではないかと、今でもそう思うのです。

 ぼくは歩き出しました。ぼくの家がどこかにあるのは間違いなく、ぼくはぼくの家への帰り道の途中ですから、一歩足を進める毎にぼくの家が一歩分近づいているわけですので、ぼくの不安も一歩ずつ遠ざかっていくはずなのです。

 にも関わらず、ぼくの不安はぼくに付きまとい、じゃれてきたりつついてきたり、一瞬たりともぼくへの興味を失ってはくれず、その存在感はいやますばかりです。ぼくの足は規則正しく歩みを進めているのですが、ぼく自身は一歩も進んでおらず、むしろ後退しているように思えるほどでした。

「ねえ、ぼくを放っておいてはくれないか」

「ぼくは家に帰りたいんだ、ただそれだけなんだよ」

「付きまとわれるのは、はっきり言って迷惑だ」

「こうしよう。ぼくが今から三つ数えるから、そのうちにすっぱりと消えてくれよ」

「一体、何がしたいんだ? 欲しいものがあるなら言ってくれ」

「きみを連れ帰るわけにはいかないんだ。だってあれは……ぼくの家だからね」

 再三再四のぼくの頼みに、ぼくの不安は無視を決め込んだまま何も応じてくれないので、ぼくは呆れかえるやら虚しいやらほとほと困りきってしまって、かくなる上は第三者の視点からこの問題の解決の糸口を探ってもらう他あるまいとの結論に達しました。

 ここまでくるとぼくの心持ちも多少は穏やかになり、ぼくの不安も僅かに所在無さげでどうやら不安を感じているご様子です。ぼくだって不安に怯える気持ちは痛いほど理解できるので、ぼくはぼくの不安にほんの少し同情しながらも、ここで甘い顔をしてはならぬ、相手が弱みを見せた時に躊躇わず完膚なきまでに叩き潰すことが肝要である、と自らに言い聞かせ、胸を張って歩いたのでした。

 薄暗闇の中、光を追って歩いていました。ぼくの不安を払拭してくれる第三者は、光の集まるところにいるはずです。ぼくなどは及びもつかぬ叡智と力の持ち主、それは警察官の他にはいないでしょう。彼ならば、たちまちのうちにぼくの不安を一捻りでやっつけてしまって、それどころかぼくが見失いつつあるぼくの家への道筋をも鮮やかな手練でもって再び浮かびあがらせてくれるに違いありません。

 そうと決まれば話は早いもので、くねくねと曲がりくねった光の筋に沿って進むと、いやに白い建物が見えてきて、正面玄関の紋章から察するにまさしくその建物こそが警察署だったのです。ぼくはぼく自身の勘の鋭さ、つまり探していた警察官への障害知らずの滑らかなアプローチに感動しつつも、それならば何故、と考えるのを止めることができませんでした。何故、一度たりとも訪れたことのない警察署にはすんなりと到達できるのに、百回、いや千回、まだまだ足りますまい、数えようとしたってとても数え切れそうにないほど足を運んだぼくの家はいまだ霧の中なのでしょう。

 ここへきて、青息吐息だったぼくの不安が元気を取り戻したのをぼくははっきりと感じました。それまでの不安の成分の大半は、ぼくはぼくの家から遠ざかっているのではないかという考えに起因するものでした。しかしながら、この中にぼくの安心を見出すことも決して難しいことではありません。すなわちぼくが絶対にぼくの家に帰ることができるという前提は揺るぎないものだったのです。ところがどう言った訳か、その前提にぼくが疑問を抱き始めていることにぼくは気づいてしまいました。これは前代未聞の事態と言えましょう。へたり込んでしまいたいくらいの動揺にぼくの精神は散り散りに乱れ、その機に乗じてぼくの不安が懐深くまで入り込みぼくを乗っ取ろうと画策しているのがわかりました。

 いつになく弱気になっているぼくでしたが、悲嘆に暮れ続けるわけにはいきませんでした。幸いにもぼくの眼前には、威厳に満ち満ちたたたずまいの警察署がありとあらゆる面倒ごとを一手に引き受けようとその扉を広く開け放っており、ぼくがいくらぼくの不安にさいなまれようともひとたび警察署の戸口をくぐってしまえば、ぼくの抱えている問題になんらかの答えが得られることは間違いなく、出てくる頃には足取りも軽やかにまっすぐぼくの家に帰ることができると信じ込もうとしましたし、実際のところ疑う理由は何もないように思えました。

 それならばさっさと警察署に入ってしまえばいいはずなのに、気づくとぼくの足は止まっていて、正義の迫力でもって存在を示し続ける警察署を黙って見上げていました。つまるところぼくを躊躇わせているのは警察署そのものであり、何らかのやましさをぼくは自分でも気づかぬうちに胸中に飼い慣らしていたことが発覚したのでありました。

 とは言え、具体的な心当たりがないゆえに気味が悪いのです。ぼくが清廉潔白な生を歩んできたとはっきり誇らしげに言い難いのは事実ですが、それはぼくが慎み深い性質の持ち主であるだけで、実際のところは叩いてもここまで何も出ない人間も珍しいのではなかろうかと思うほどであり、そもそも進んで重罪を犯すほどの冒険心は生来持ち合わせていませんし、知らず知らずのうちに犯罪に手を染めていた可能性も当たってみるにはみましたが、ぼくの家を出てぼくの家に帰る生活を延々繰り返してきた以上、そのようなことに巻き込まれる隙は存在しないと言い切っても決して過言ではありますまい。

「宣言しよう、ぼくは無罪だ」

 確信をもってなされたはずのぼくの宣言は、何故か虚ろで、心許ない響きをあたりに漂わせた末に跡形もなく霧散したのでした。気味の悪さはいよいよもってはっきりと象られ、今にも目に見えそうなほどでした。ぼくは頭を掻きむしりたくなる衝動を抑えつけるのに手一杯でした。もしそれを許せば、ぼくの頭は五分と持たずに削りかすになってしまったことでしょう。

「無罪かどうかは裁判にかけてみないとわからぬ。あんたの一存で決めることではない」

 出し抜けにぼくの耳に飛び込んできた声に、心臓が破れんばかりに仰天しつつも、ぼくは瞬間的に気をつけの姿勢をとりました。ぼくはずっと目を開けていたのですが、何も見えていなかったようなのです。いつの間にやらぼくのすぐ目の前に、青い制服に身を包んだ警察官が立っていたのです。彼の顔を見てもう一度、一度目よりも更に激しく、心臓がひっくり返るのではないかと思うほど、仰天しました。

 警察官の顔はバスに乗っていた男、奇妙な問いを投げかけてきた上に、ぼくの首を絞めつけてきた男、惚れぼれするほど見事な髭の男とそっくりそのまま同じ顔でした。

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