1-1 少年の日常
AW258年 4月。
比較的温暖な気候にある西大陸の都市国家ガリファでは入学式や入社式も終わり、これから始まる新生活に胸躍らせる人や不安がる人が多くいた。
八時を過ぎれば市街地はそんな人たちで溢れ、一年の中でも一位二位を争う活気になる。
少年——ソウマ・ブレイザーが目覚めたのは、その数時間前だった。
けたたましい音量で鳴る目覚まし時計をぶん投げてやろうかという衝動を抑えながら枕もとを見ると、昨日読みふけっていた本がそのままにしてあった。
「武器全集」 各ページに貼られているシャーペンで書かれた蛇のような痕のある付箋をげんなりした表情で剥がす。ため息を吐いて仰向けになり、天井に目線を移した。明りのついていない照明にはダークオレンジの瞳が映っている。
再びくっついてしましそうな瞼を擦りながら起きると、ソウマは本棚に本をしまい、部屋を出た。
時刻は五時半。昼間とそう変わらない音をたてながら、配慮の一切もなく階段を下りる。誰か目覚めてくるどころか、人の気配すらない。
それもそのはずで、二階建てであるその家にはソウマ一人しか住んでいなかった。ルームシェアを考え募集をかけてはいるが、家に来た人間は誰一人としていない。
洗面所で顔を洗い、ジャージと寝間着を入れ替えて、一階の階段のすぐにある扉を開いた。そこは簡単なトレーニングルームになっていた。
無造作に置かれたダンベルを拾い上げようとはせずに、何かを両手で持つように構えると、
「武器精製」
鈴の音の様な音と青白い光と共に現れた両手半片手剣を握ると、素振りを始めた。
★
ソウマ・ブレイザーは金髪青眼を持つ人がごく普通に存在するその世界の中では地味とも言える容姿の少年だった。
枯葉色の髪に、ダークオレンジの瞳。170cmほどの細身ではあるが、決して筋肉がついていないわけでもない。小学生の頃から続けているトレーニングのお陰で必要な場所にはちゃんと筋肉がついていて、結果的に細身に見える。そんな体型だ。
小学校に入学する前にとある騎士に養子として迎えられたソウマは、養父から様々なことを学んだ。
武器を扱う技術、魔法を扱う精神。それに、効率の良いトレーニング法。初老の養父は精神論を推すような人間でもなく、指導方法もわかり易かったため、ソウマも納得してその指導を受け、養父亡き後もそれを続けていた。
養父が騎士であるなら、養子はもちろん騎士になるだろう。
そんな思いが当たり前のように蔓延する環境でソウマは育った。ソウマもソウマで、なんとなく自分は騎士になるのだろうと信じて疑わなかった。
だが、中学を卒業して一年経った一六歳。ソウマは騎士になる近道である魔導院の学徒ではなく、依頼所を斡旋とした何でも屋を営んでいた。
その理由を記すとなると、彼の養父が亡くなった顛末を書く必要があるため、ここでは割愛する。
ここで記すべきことは「ソウマ・ブレイザーは周りの期待を裏切った少年である」
それぐらいだろうか。
★
一時間ほどのトレーニングを終え、シャワーを軽く浴び、白パンと黒のシャツを着た後に向かったのはダイニングキッチンだ。
椅子に掛けてあったエプロンを首にかけ、冷蔵庫から白濁色に近い色で満たされたパックを取り出す。昨日のうちに仕込んでおいたフレンチトーストの材料をぶち込んだものだ。
あとは焼くだけなのだが、そのキッチンにはヒーターも、ヒーターの代わりになるものも見当たらない。
ソウマは火にかけてすらいないフライパンにミルクとタマゴを一晩かけて吸ったパンを置くと、持ち手部分のボタンを押した。
するとフライパンの上でパンは次第にじゅわじゅわと音を出し始めた。
数十年前から販売されている『Magic Deployment Device』は空気中のマナをエネルギーとして起動する器具だ。
機械と魔導が組み合わさったその機構はコストパフォーマンスの高さや利便性を高く評価され、爆発的な広まりをみせた。
今ではヒーターいらずのフライパン、半永久機関で走る車。それに、弾丸の代わりとして魔法を打ち出す銃など、バリエーションにとんだ展開をしている。
焼きあがったフレンチトーストとコーヒーを、テレビもつけずにただひたすらに咀嚼する。
咀嚼して、飲み込んで、また咀嚼するの繰り返し。パンからあふれ出るような甘さとコーヒーの苦みがよくマッチしていて、あっという間に完食してしまった。
物足りなくなって、トースターにもう一枚パンを入れる。少し食べすぎな気もするけれど、その分動くような仕事なのでノーカウントだろう。
と、部屋に携帯のデフォルト音声の様な、小刻みにるる、ると鳴る着信音が響いた。
音の元凶である端末は二つ折りにされた棒状のコンパクトなもので、スマートホンのような画面の類は見受けられない。
ソウマは電話相手のおおよその見当をつけながら、端末を折り畳み携帯のように開き耳にあてがった。
『おはよぉ、ソウマ』
寝起きです、とでも自己申告するような声が端末から聞こえた。
「おはよ、ノエル」
苦笑いを浮かべながら、少々嗤うぐらいの声色で挨拶を返す。
「寝起きに電話してくるもんじゃないぞ。色々酷い」
『むっ、いーじゃん別に。ソウマ以外に聞かれるわけでもないんだしさー』
ノエルと呼ばれた少女は駄々をこねる子供のような口調だ。
ソウマになら自分のどんな姿を見せても大丈夫だ、という安心感があるからこその口調なのだろうが。
——完全に目が覚めて理性が働き始めたとき、ほぼ確実に赤面するだろうな、これ。
苦笑いを通り越して、引き攣った笑みを浮かべるソウマだった。
ノエルはソウマの幼馴染といって差し支えない少女だ。
孤児院に馴染めていなかったノエルにソウマが声をかけたのが事の始まりで、今では腐れ縁のような関係である。
ピンクの髪にエメラルドグリーンの瞳という少し目立つ容姿に、気持ち小柄な体型。お節介焼きな性格と愛嬌のある笑み。そんな彼女にソウマが振り回され、場合によってその後始末をする。それが彼らの日常だった。
今日の予定の確認と、他愛のない話をして電話を切ったのは十五分後だった。
話し込んでいたせいですっかり冷めてしまったトーストを完食し、その片づけをするのに十数分。
瞳の色に合わせたパーカーを着込み、肩掛けのカバンを携えて玄関に行くのには数分もかからない。
「あ、そうだ」
ふとソウマは自分の頭に違和感を覚えた。ああ、そういえばと履きかけていた靴を片足にぶら下げたまま片足立ちで洗濯機を開けに行く。
昨日のうちに乾燥させていた、ふわふわなタオルの中に手を突っ込んで取り出したのは、これまた瞳の色に合わせたバンダナだった。帽子のように被り、しっかりと結ぶ。余った布地がフード部分にまで垂れるほどに、バンダナは大きかった。
「んじゃ、行ってくるな。養父さん」
こちらに威厳に満ちた表情を浮かべる写真立ての人物に笑顔でそう返すと、ソウマは扉を開けた。