予期せぬ出来事
入学して、一週間くらいが経過していた。もう学校には慣れてきて、クラスメイトの顔と名前が少しずつ一致するようになっていた。
クラスメイトが隣のクラスの先輩の話をしているとき、男の先輩でもっぱら話に出てくるのは西原先輩と依田先輩のことだった。
女の子に人気があるとか、二人とも成績がよくて、小学生からの幼馴染とか、どこで調べたんだろうと思うほど多くの話題が聞こえてきていた。
そんなクラスメイトの噂の的になっていることを実感すると、彼と一緒に学校に行った日が夢物語のような気がしてくる。
あれから彼と一緒に学校に行くことはもちろんない。毎日、同じ時間に家を出ているみたいだったが、顔を合わせてしまうのは迷惑ではないかと思ったから、自然と時間を遅らせるようになっていた。もっと偶然を装って会えればいいけど、家が隣だとそういうわけにもいかない。
明日から朝の補習がはじまる。
丁度一時間、登校時間が変わってくる。
気になるのは彼が何時ごろ家を出るかということだが、あまり気にしてしまうと顔に出そうな気がして、できるだけ気にしないことに決めた。
重い体をゆっくりと起こして少しカーテンの開いたベランダを見ると、まだ外は闇に包まれていた。昨日は気になり十時前に眠ってしまったからか、予想外に早い時間に目が覚めてしまい、手元の時計を見ると、時刻は五時半だった。まだ太陽は顔を出していない。
起きるには早すぎるとは思ったが、さすがに二度寝をするような時間ではなく、飲み物でも飲むことにした。部屋の外に出ると、まだ家の中は真っ暗で誰も起きていなかった。
冷蔵庫から冷やしてある麦茶を取り出すと、食器棚から取り出した透明なグラスに注ぐ。それを飲み干すと、寝ぼけたからだが心なしかしゃきっとしてくる。
することもなく新聞でも読もうかなと思うが、いつもテーブルの上に無造作に置いてある新聞はまだない。いつも新聞を取りに行く父親がまだ眠っているからだ。
「新聞でも取りに行こうかな」
さすがに寝巻きで移動することはできず、部屋に戻る。洋服を着ようと、クローゼットを開けたが、すぐに閉める。二時間後には制服を着なくてはいけないのだから、制服を着ておけば一石二鳥だと思ったのだ。
まだ違和感のある制服を着ると、家の外に出た。
そのひんやりとした空気に思わず肩を抱く。
この時期は朝方でも冬を思い出させるほど寒い。
念のために鍵を閉め、静まり返った廊下を歩く。エレベーターまで行くと、下に向かう矢印を押す。その矢印が光ったまま、ランプの点す数字が一つずつ増えてくる。
ドアが開いたときだった。細い金属音が静まり返った道に響いていたのだ。思わず顔をあげると一瞬目の前の時間が止まった気がした。西原先輩が肩を抱きながら、家から出てきたのだ。彼はわたしと目があうと、僅かに微笑む。
わたしはエレベーターが到着したことを思い出し、慌てて中に入り、「開」のボタンを押した。足音の聞こえてくる感覚が狭まり、西原先輩が入ってくる。短い距離を走ったからか、少しだけ先輩の呼吸が乱れていた。
「ごめん。ありがとう」
彼の言葉に首を横に振ると「閉」のボタンを押す。ドアが閉まり、一度大きく揺れると、エレベーターが動き出す。
先輩を見るわけにも行かず、上部のランプを目で追っていると、視線を感じる。横目に先輩を見ると、彼は少し目を見開いていた。
「今から学校に行くわけないよね?」
「新聞でも取りに行こうと思ったんです。どうせ洋服を着ても、すぐに学校に行かないといけないかなって」
こんな早朝から制服を着ていたので不審に思ったのだろう。洋服でも着てくるべきだったと思ったとき、先輩の声が聞こえた。
「確かにそうだよね」
先輩が着ていたのは動きやすそうなグレーのスウェット。地味な色だが、高い身長と整った顔立ちが決して野暮ったくは感じさせない。彼はどんなものを着ても似合うんだろう。
「先輩はいつもこんなに早いんですか?」
「その分、夜眠るのが早いけどね」
「何時ごろなんですか?」
「十二時頃」
「全然早くないじゃないですか。わたしより遅い」
「一応受験生だから」
エレベーターの扉が開く。先輩がボタンを押してくれたので、わたしが先に出ることになった。一階のエントランスは光がてらてらと輝いているが、人気はなく、その奥に見える外の世界はまだ闇に落ち、街灯の光が頼りなく照らすだけだった。
入り口の右手にあるポストを覗くと、新聞がすっぽりと収まっていた。ポストから新聞を取り出すと、先輩を見た。彼の腕に収まっている新聞はわたしが手にしているものと同一のものだった。たいしたことはないが、そんなことにも心を弾ませる。
先輩と一階に一階にとまっていたエレベーターに乗り込むと、五階に戻る。
名残惜しい気持ちを残しながら、ドアの鍵を開けたときだった。名前を呼ばれ、目を見開いて彼を見つめていた。彼はわたしの反応に驚いたようだが、特別何かを言うことなく僅かに目を細めていた。
「よかったら一緒に学校に行かない?」
「行きます」
彼の問いかけに言葉を続けるようなタイミングで返事をしていた。まさか彼から誘ってもらえるとは思わなかったことから、心臓が走った後のようにドキドキしてしまっていたのだ。
「七時十分にここで」
彼の言葉にうなずくと、家の中に入っていく。家の鍵を閉めると、その場で新聞を胸元で抱きしめ何度も深呼吸していた。
今日は朝会えるだけではなく、一緒に学校に行くことになったり、ラッキーかもしれない。早起きは三文の得とはよく言ったものだと思う。
新聞をリビングに置くと、髪の毛をセットするために洗面所まで向かう。白のスイッチを押し、淡い肌色の電球に映し出された自分の姿を見て、一瞬固まってしまっていた。
誰かに会うとは考えもしかなったことから、髪の毛は軽く手櫛で整えただけだった。それを反映するように、髪の毛が四方八方を向いていたのだ。
まだ暗いとはいえ、廊下にはあかりは一晩中ともっている。もちろん、わたしが出た時間帯もそうだ。一階部分は二十四時間体制で昼間にも負けない明るい光を放っている。彼にだらしない子と思われたかもしれない。
そんなことに落ち込みながらも、誰かにどう見られるかと気にしている自分の反応に戸惑いもあった。
待ち合わせ時刻に外に出ると、先輩の姿がある。
彼はドアに背を向け、その奥の空を眺めていたのだ。よほど熱中しているのか、わたしに気付いた様子もない。
名前を呼ぶと、彼は虚をつかれたような顔で振り返っていた。そして、頭をかくと苦笑いを浮かべる。
「ごめん。ぼーっとしていて」
わたしは首を横に振る。
わたしの視線は今日のことがあったからか、先輩の頭を思わず見ていた。先輩の髪は寝癖なんかほとんどないくらいさらさらしていた。しっかりと手入れをするタイプに思えないし、いつもそんな感じなのでもともとそういう髪質なのだろう。
「行こうか」
彼の言葉にうなずいていた。
マンションを出ると、彼の後をついていくように彼から少し後れて歩く。彼の後姿を見る度に、何かを話しかけようと思って口をあけるが、出ていくのは空気だけで、うまく言葉が出てこなかった。
この前、自然に話せたのが嘘みたいに、何を話せばいいのかも分からなかった。何でもいいのに、そう自分に言い聞かせるたびに、先輩に聞きたい話が消えていく。
先輩の歩くスピードが少し遅くなり、わたしを見た。先輩がわたしに話しかけるつもりかもしれないと意識し、身構える。その予感は当たっていた。
「大村先生って俺が一年のときに担任の先生だったんだよ」
「そうなんですね」
身構えていたのにも関わらず口にしたのはそんなそっけない言葉だった。どんなクラスでしたとか。もっと会話を広げることもできたはずなのに、自分でこうあっさりと話を打ち消してしまったからだ。
後悔し、いまさらながらに聞こうと思うが、またさっきの悪循環に陥ってしまっていた。口の中も夏場のようにざらつき、のどがいがついてきた。
ただ先輩と話をするだけなのに、過剰に反応している自分が情けなかった。
わたしが落ち込みかけたとき、明るい声が聞こえてきた。




