先輩との約束
「稜のどこがいいの?」
ティーカップに注がれていた金色の湯が止まり、大きな瞳がわたしを覗き込む。
カップに触れると、曖昧に微笑んだ。
「嫌になったら別れたほうがいいと思うわよ。わたしは咎めないわ」
「自分の息子に対して酷い言いようだな」
先輩は一足先に和葉さんの入れてくれたカモミールティーを飲んでいる。
口一つつけられないわたしに比べると、そんなことを言いながらも余裕なんだろう。
そんな先輩を和葉さんは優しい目で見つめていた。
彼女は首を傾げ、立ち上がる。
ふらふらと歩き出した彼女を追うようにして立ち上がった先輩が、和葉さんの前に立ち塞がり、テーブルの上の写真を回収していた。
「怪しい。親に見せられないようなものなの?」
彼女は恨めしそうに自分の息子を見る。
彼が隠した理由は分からなくもない。だが、わたしに軽い復讐心が目覚める。
わたしだけに状況説明をさせたバツだ。
先輩を見てニッと笑う。
先輩は嫌な予感を感じたのか、顔を引きつらせる。
先輩が何かを言う前に、わたしは手元の写真を差し出す。
「先輩が隠したのはこれと同じ写真ですよ」
先輩の止める声が聞こえたけど、当然無視する。
和葉さんがその写真を受け取り、笑い出してしまった。
「今日、渡すんじゃなかった」
先輩がそう呟いたのを聞き逃さず、わたしと和葉さんは顔を合わせて笑っていた。
わたしは家に帰ると、気持ちが落ち着くのを待って咲と愛理にメールをした。
二人ともすぐに返事を送ってくれ、おめとうと言ってくれた。
少し迷った末、今まであまり使うことのなかった番号を表示する。
呼び出し音が消え、明るい声が聞こえる。
先輩を好きな彼女にこのことを伝えるのは正しいことか分からない。しかし、ここまでしてくれた彼女には伝えておくべきだと思ったのだ。
わたしが先輩と付き合うようになったと話すと、予想外に明るい声が聞こえた。その明るい声に少しほっとする。
「おめでとう。よかったね。やっぱり稜は真由ちゃんのことが好きだったんだね」
「気づいていたんですか?」
「バレンタインのときにね」
冷たい雪の日を思い出すが、どこで彼女がそう思ったのかさっぱり分からなかった。
「会えなくなって心配だと思うけど、稜が浮気しないか見張っていてあげるから安心してね。稜のことだから心配はいらないと思う」
「お願いします」
先輩はやっぱり素敵な人だった。
自分一人の力じゃ好きと伝えられなかったし、先輩と仲良くなることさえできなかった。この恋も始まらなかったかもしれない。
みんながいてくれたからこそ、今があるんだろう。
「休みには帰ってくるから、たまには遊んでね」
宮脇先輩は明るい言葉で締めくくる。
わたしは彼女の言葉に返事をすると、電話を切る。そして、通話時間の表示された液晶に「ありがとう」と告げた。
夕食を終え、部屋に戻ると、空には白く淡い色をした星が瞬いている。先輩が買ってくれたネックレスを見つめ、チェーンを手に首の後ろに回すと、ゆっくりとはめる。その宝石を指先で軽く弾く。
深呼吸をすると、網戸に手をかけた。冷たい風を浴びながら履物を履くと外に出る。深呼吸をしながら空を見上げる。
「そこにいますか?」
「いるよ」
先輩の声がすぐに聞こえてきた。
確証があったわけではない。
なんとなく先輩がそこにいる気がした。
だが、それ以上は溢れそうになる感情に言葉をさえぎられてしまった。
「その、今お前がしているネックレスさ」
頼りない明かりだけがともる街並みに優しい声が響く。
わたしは首元のネックレスに手を触れた。
「どうして分かったんですか?」
もう夜の十時を回っていて、風呂を上がった後だった。
普通なら、外していてもおかしくない。
「なんとなくしていそうな気がした」
先輩の笑い声が聞こえて、体が熱くなってきた。
わたしは分かりやすすぎるのかもしれない。
笑い声が途切れると、先輩の声が聞こえてきた。
「幸せになれるって意味があるんだよな」
「知っていたんですか?」
「さっき調べた」
調べている先輩の姿を想像して少しだけ和ませる。
「そうですね。でも、誕生石にも同じような意味があるから、どちらにも言えることのような気がします」
これは子供の幸せを願うために生まれたばかりの赤ちゃんにプレゼントするとされるリングだ。最近では、恋人とか、夫婦の間でも贈ったりするらしい。
その幸せになれるという意味はリングだけではなく、その石の誕生石にもあてはまる。生まれた月の誕生石を持っていると幸せになれると言われているからだ。
「その石の意味って何?」
「物事を成功に導いてくれるって言いますよね。あとは」
わたしはそこで言葉を切った。口にするのが恥ずかしかったからだと思う。息を吐いて、続きをを紡ぐ。
「変わらない愛を誓うとか」
この石は友達や恋人に変わらない関係や再会を誓うために贈ったという逸話も残っている。
「きっとそれは叶うよ」
わたしは思わず上唇で下唇を抑える。目頭が熱くなるのを感じ、少し顔を綻ばせていた。
彼はきっと赤い顔をしているだろう。
「そうだと嬉しいです」
わたしの上方に瞬く星の輪郭が二重になる。
今なら大丈夫。笑える。
ベランダに体を乗り出すと、そこにはいつもと変わらない先輩の姿があった。
先輩はわたしが顔を覗かせたことに驚いたのか、うめくような声を残すと、後ずさりする。
「約束です」
小指以外の指は拳にし、先輩の部屋のほうへ手を差し出す。先輩はためらいながらも、わたしより一関節ほど長い指をそっと絡ませてくれた。先輩の体温が小指越しに伝わってくる。
「他にも何かあれば、全部は無理かもしれないけど、できるだけ守るから」
最大の望みはさっき先輩が言ってくれた。他に願いごとはあるわけない。そう思っていたが、先輩にしてほしいことを考えると、ぽんぽん飛び出てくる。
意外と欲張りなのかもしれない。
「毎日とは言わないけど、暇なときはメールでも電話でもしてほしいです」
「分かった」
「浮気はしないでください」
「しないよ」
「夏休みとか帰って来ますか?」
「約束じゃなくて、質問になっているよ」
わたしは言葉に詰まる。
先輩は目を細めていた。
「帰ってくるよ。それに花火大会を一緒に見ると約束したんだから、お前も守れよ」
わたしは何度もうなずく。
夜空に長い年月、明るい光を放ち続ける星のように、そんな先輩の優しさも、わたしの気持ちも、願わくば先輩の気持ちも変わらないでいてくれたらいいなと思う。




