渡せないお守り
先輩の家の前に来ると深呼吸をした。白い息はすぐに目に見えなくなる。
初詣から二日経った。もうすぐ新学期が始まるが、先輩にお守りを渡せないでいた。コートから手を出すと、手がかじかむ。それを振り払い、濃い茶色のインターフォンを押す。
チャイムの響き渡る音を聞きながら、どう言おうかと頭の中で必死にイメージする。だが、インターフォンから返事は聞こえてこなかった。代わりに背後から声が聞こえる。
「真由ちゃん?」
振り返ると、暖かそうな厚手のコートを着た和葉さんがたっていたのだ。
「稜に用事?」
胸をどきどきさせながらもうなずいていた。
「今、出かけているから家の中で待つ? おいしいお菓子があるのよ」
和葉さんはわたしの隣を抜けると、家の鍵を開ける。
少し迷ったがお守りを早めに渡したかったこともあり、和葉さんの言葉に甘えることにした。
和葉さんは紅茶とプレーンクッキーを出してくれた。雨の日に先輩が出してくれた甘い香りの紅茶。柔らかく、ほんのりとした香りに少しだけ緊張がほどけていく気がした。彼女との会話を弾ませるうちにクッキーが皿からなくなってしまった。
「すみません。おいしくてつい」
「いいのよ。真由ちゃんに出したんだから」
彼女はティーカップを口につけると、部屋の時計をちらりと見た。
もう家に入って三十分が経過していた。
「遅いわね」
「先輩はどこに行ったんですか?」
「本屋に行くって出て行ったの。わたしも近くのお店に買い物をして帰ってきたところ。時間かかると言っていたけど、もう帰ってきてもいい時間だと思うんだけど」
和葉さんはそこで言葉を一度切る。顎に手を当てると、部屋の奥をちらっと見た。
「裕樹君って写真とか嫌いだった?」
「写真?」
「ずっと疑問だったことがあってね。話すより見せるほうが早いかな」
和葉さんは「少し待っていて」と言い残すと、リビングから出て行った。わたしの紅茶が半分ほどなくなった頃、彼女は白いコーティングされたアルバムを手に戻ってきた。それをテーブルの上に置き、開く。
そこに写っていたのは産着を着た赤ちゃんの写真。だが、目元や輪郭にある人の面影を見る。
「これって先輩のアルバム?」
「そうよ。でね」
どきどきしているわたしをよそ目に和葉さんはページを捲る。
アルバムが三分の一ほど捲られたとき、布団を被り、そこから目と鼻だけを覗かせている子供の頃の先輩の姿が目に飛び込んでくる。その愛らしさに思わず顔がにやけそうになりながら、隣の写真に目を移した。肩越しに振り返り、顔は半分しか見えないけど、先輩だということがよく分かる。次の写真はテーブルの下に隠れている姿だった。だが、ある疑問が膨らんでいく。和葉さんの許可を得て次のページを確認すると、疑問が確信に変わる。
「可愛いけど、先輩はどこか写真を避けていません?」
「写真が嫌いらしいのよ。小さい頃の写真はいつもそんな感じ。まともな写真って幼稚園に入るまでしかないのよね」
「理由があるんですか?」
「ただ嫌なんだって」
「裕樹も好きじゃないみたいだけど、拒みはしなかったですよ」
裕樹はあまり逆らったり、抵抗したりはしない。反抗期らしい時期も今までなかった。いい子といえば聞こえはいいが、何事にも無関心で写真を拒むことも面倒と思ってそうな面はある。
物音が聞こえたと思ってすぐに、リビングの扉が開き、先輩が入ってくる。彼の視線はすぐにわたしたちの手元にあるアルバムに向き、無言でテーブルまで来るとすぐに閉じた。彼は頬を赤らめ歯がゆそうに母親を見つめる。
「どうしてこんなものを人に見せるかな」
「稜が写真を避けるのかなって話をしていたの。見せたほうが話は早いでしょう?」
「嫌いだからだよ」
そのとき先輩がわたしを見る。目があったことで黙っているのも悪いと思い、思わず正直な気持ちを口にする。
「別に嫌うことなんかないのに。思い出の一端だと思えばよくないですか? 別に人に頻繁に見られるものでもないし」
先輩は何も言わずに部屋に戻ってしまぅた。
「怒っちゃったのかな」
「恥ずかしいだけよ。続き見る?」
先輩はアルバムを閉じただけで置きっぱなしにして部屋に戻ってしまったのだ。
「じゃあ、少しだけ」
先輩に悪いなとは思いながら好奇心から表紙をめくる。だが、わたしの手は小学生らしい姿をした先輩のところでとまる。先輩が可愛かったというよりは、その隣にいる物語の中にいるような美しい少女に惹きつけられたからだった。写真から逃げようとした先輩を逃がさないためか、その手をしっかりと握っている。
先輩は写真から逃げる最終手段だったのか、顔を伏せてしまっていた。だが、その隣の写真ではきちんと顔をあげて映っている。宮脇先輩に諭されたのだろうか。
その場所にも見覚えがある。学校帰りに少し寄り道をすると通る公園だ。幼馴染の二人には多くの一緒の思い出が刻まれているのだろうか。
和葉さんは写真を見て、優しく微笑む。
「このときは佳織ちゃんにきつく言われて素直に写真に写ったのよね。兄弟みたいで本当に仲がよかったのよ」
わたしは和葉さんの言葉に笑顔を漏らした。一緒に写っているお似合いの二人を見て、思ったよりも心が痛まなかったことに少しだけほっとしていた。
その隣にはきれいな顔立ちをした依田先輩と普通に談笑しながら写っていた。
その日は先輩に会うことなく家に帰り、お守りを先輩に渡し損ねてしまったことを家に帰って気付いた。
始業式の日に先輩と家の前でばったりと会う。
彼の第一声は写真のことを忘れてほしいということだった。
わたしはなんとなく笑っていた。
わたしの少し先を歩く先輩を見ながら、わたしはコートのポケットに手を突っ込むと、お守りに触れた。
先輩とわたしとの距離がさっきとは比べ物にならないほど開いていた。何か一言いえば渡せるとわかっていても、わたしは何も言うことができないでいた。




