増していく苦しみ
どんなに苦しくても大丈夫。時間が経てば痛みは減るはず。少しずつこの胸の痛みが治まるのを待とうと思った。
玄関のノブに触れると深呼吸した。いつもこの時間に先輩は家を出る。それはわたしもそうだった。
意を決してドアを開けると、目の前に立っている先輩と目があった。
心の中で何度も深呼吸をして、彼に挨拶をする。
「一緒に行こうか」
いつもと変わらない先輩の様子に胸を痛めながらも、その誘いは今までと同じように嬉しかった。
だが、学校に近づいていくにつれ、何度も昨日のシーンが頭に蘇り、目尻が熱を持つ。先輩に会えば隣人として笑顔で接することができる、という考えは甘かったことを教い知らされた。
彼と並んで歩くことがこんなにも苦しいものになってしまっていたのだ。
学校に行く二十分足らずの時間が長く、重い。
先輩が足をとめ、わたしをじっと見る。
「何かあった?」
その言葉に体がびくりと反応する。
先輩が怪訝そうな表情をしたことで我に返る。
「何もないですよ」
それが今日先輩に対しての二言目だった。約束が頭を過ぎったが、すぐに頭から消す。
先輩の手がわたしの顔に伸びかけて、思わずその手を払っていた。
先輩が驚いたように目を見開くのを見て、自分が何をしたかに気づく。
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ。女の子に易々と触れようとしたのが悪いから」
嫌だったわけじゃない。ただ、今、この状態で先輩に触られたら、泣いてしまいそうだったからだ。
その手のあたたかさと、優しい言葉はわたしの涙腺を刺激してしまう。
先輩は困ったように笑うと歩き出す。いつもより速い歩調は、わたしとの距離を取りたがっているような気がした。
わたしはゆっくりと歩く。先輩との距離は一メートルもない。だが、自分からこの距離を詰める勇気がなかった。
そんなわたしの気持ちを追い立てるように、後方から西原先輩を呼ぶ甲高い声が届く。
振り向くと、同じ学校の制服を着た子が立っていた。見たことのない子だったので、何年かは分からない。その赤い顔を見ていると、何のために先輩を呼び止めたかは分かる。
「話があるんですけど」
彼女はそこでわたしの存在に気付いたのかわたしを見ると頭を下げた。
「お友達と一緒だったんですね。ごめんなさい」
緊張しすぎて、先輩しか見えなくて、わたしの存在に気づかなかったんだろう。わたしにも彼女の気持ちが分かる気がした。
「話なら昼休みにでも聞くよ」
人に好きと伝える勇気はそう何度もわくわけじゃない。そうできる人はすごく強い人なんだと先輩のことを好きになって分かった。
わたしは一度も先輩に気持ちを伝えることができなかった。そしてその気持ちから逃げ出そうとしている。勇気を出せないわたしに、勇気を出して告白しようとする子の邪魔をする権利はない。
「先に行ってますね」
わたしは振り返らずに学校へ急ぐことにした。先輩がどんな返事をするか気になりながらも、その人が先輩の好きな人じゃなければいいと願っていた。
彼女の勇気を認めながら、反する気持ちを抱いてしまうわたし自身が嫌でたまらなかった。
学校に着くと、靴箱で森谷君に会った。彼はいつもと変わらず接してくれ、先輩に対する苦しい気持ちを落ち着かせてくれていた。
昼休みに昼食の後、窓の外を見ると先輩と森谷君らしき人を見つけ、思わず目で追っていた。二人はそれなりに親しいのか一緒に話をしていることを何度か見たことがあった。
二人は立ち止まり何か話をしていた。先輩が首を振ると森谷君に何かを言い校舎のほうに歩いてくる。わたしは思わず肩をすぼめて窓から身を隠していた。
しばらく経って、森谷君が戻ってきた。彼はわたしを見ると、目をそらす。昨日のことが頭を過ぎり、クラスメイトに迷惑をかけてしまったことが申し訳なかった。
五時を過ぎると、一気に空気が冷え込んでくる。愛理たちと別れ、白い息を切らしながら家への道を急ぐ。
背後から名前を呼ばれ、振り返ると森谷君がいた。
真っ先に思い出したのは昼休みのことだった。
「昨日のことだけど、ごめんね」
「いいよ。そんなこと」
彼はそこで言葉を切る。咳払いすると、わたしを見据えていた。その瞳は余りに真剣で痛い。何を言っていいか分からずに彼を見つめ返すことしかできなかった。
彼の唇が震え、白い息が漏れる。
「先輩のことなんか忘れて、俺とつきあわない?」
すぐには彼の言葉を理解できなかった。数秒ほど遅れて彼の言葉を理解したが、驚きで言葉を失っていた。彼は困ったように笑うと、拳を口元にあて咳払いをする。
「ずっと安岡のこといいなって思っていたから」
「でも、わたしはまだ先輩のことが好きなの。すぐには無理だと思う」
彼のことを遠くから見つめ、そのたびに心を痛めてしまう日々が続いてしまうことは分かっていた。
「それでもいいよ。先輩のことを好きでいていいから。無理に何かをしようとしたりもしないから」
彼の言葉はしがみつきたくなるくらいの甘い言葉だった。だが、唇をそっと噛み締める。
わたしだったら好きな人とそんな形で付き合うのは嫌だからだ。 こんな中途半端な気持ちでつきあったら、森谷君まで傷つけてしまう。わたしも後悔する。
「やっぱりそれはダメだよ。わたしは先輩のことが忘れられない。だからごめん」
「それでもいいよ」
「ダメなの。そんなことをしたら、自分で自分が許せなくなると思うから」
彼は少しだけ寂しそうに笑っていた。
「ごめん。こんなこと急に言って」
「いいよ。でも、ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
こんなわたしでも誰かが好きでいてくれたことは嬉しかったのだ。
「これからも友達でいてくれる?」
彼の言葉に、わたしはうなずいていた。
わたしは森谷君とマンションの前で別れると、エレベーターの前に立つ。右手の人差し指で、ボタンを押し、エレベーターを呼ぶ。
一つずつ減っていくランプの番号を見ながら、春先に先輩と二度目に会ったことを思い出していた。
いつかこの気持ちを断ち切らないといけない。だが、できるといいきる自信がなかった。
エレベーターが地上に到達した重い音がし、ドアが開く。無心で中に乗り込むとエレベーターの扉を閉めようと手を伸ばした。だが、ガラス戸に人の影が移ったことで我に返り、「開」のボタンを押す。すぐにその足音の主がエレベーターの中に入ってきた。
「すみません、ってお前だったんだ」
わたしは彼の姿を確認した途端、目そらしていた。西原先輩だったのだ。
先輩はわたしのそんな言葉に何かを察したのか、それ以上話しかけることはしなかった。
わたしも彼を見ることができなくなっていた。
扉が開くと、先輩がボタンを押し、わたしをチラッと見た。
いつもなら嬉しい彼の行動に胸が重くなり、頭を下げエレベーターの外に出ると早足で歩く。鞄から鍵を取り出し、家の玄関を開ける。彼の気配が近づいているのを感じながら、家の中に飛び込み、鍵を閉めた。リビングを通り、母親の声を無視して自分の部屋に直行していた。
部屋の中に入ると、鍵を閉めた。ドアに背中を当て、その場に崩れ落ちる。
同時に頬を熱いものが伝っていく。だが、なぜ泣いているのかも分からなかった。ただ、先輩の存在を近くで感じるだけで、苦しくてたまらない。先輩の気持ちがわたしに向かないのは分かっていたから。
わたしは膝を抱くと、声を押し殺して泣いていた。
それからはわたしが先輩を避けていたからか、先輩がわたしを避けていたからか先輩に会うことはほとんどなくなっていた。




