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隣の先輩  作者: 沢村茜
第七章 先輩とのデート
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先輩の寝顔

 家の外に出ると、目の前には抜けるような青空が広がっていた。その空を視野に納め、目を細めると先輩の家の扉を見た。時刻は九時の一分ほど前だった。まだ先輩は出てきていない。

 携帯の液晶の表示が変わるのを刻一刻と眺める。そしてやっと九時を過ぎた。そろそろ先輩が出てくる頃だ。


 扉が開き、思わず背筋を伸ばす。だが、そこから出てきたのは水色の花の刺繍のある白いシャツを着た和葉さんだった。彼女の黒い瞳にわたしの姿が映る。


「もう待ち合わせの時間?」

「そうです。先輩は?」

「あの子はまだ寝ているみたい。今から起こして来るわ」


 和葉さんは腕にはめている時計をちらっと見ていた。いつも落ち着いている彼女がどことなくせわしなく見える。


「お出かけですか?」

「友達と出かけようと思っていたのだけど、わたしも寝坊してしまって」

「バスですか?」

「十五分のバスに乗る予定」


 わたしは思わず携帯を見た。時刻は十分。バス停までここから五分は見ておかないといけない。

 わたしは家の中に戻ろうとした和葉さんを引き止めた。


「そんなに急ぎではないですから、大丈夫です。電話をかけてみますから、行ってください」

「起きなかったら、家に上がって起こしてくれていいから」

「分かりました」

「本当、ごめんなさいね」


 彼女は頭を下げると、彼女はエレベーターまで走っていく。

 幸いエレベーターがこのフロアで留っていたのか彼女はすぐに姿を消す。


 先輩のお父さんは七時くらいに家を出ている。きっと一人で準備をして出て行ってしまったのだろう。毎朝欠かさずに母親を起こすわたしの家のお父さんとは対照的だった。


 先輩の家の扉が開きっぱなしになっていることもあり、わたしは先輩に電話をすることにした。

 単調なメロディが廊下にまで届く。流行の音楽でもなく、携帯に最初から入っていたのか、高い音と低い音を適度に混ぜただけのものだった。留守番電話に接続するとのアナウンスが聞こえてきたので電話を切る。


 携帯の着信音設定をいじると先輩が設定したのと同じではないにせよ似ている音楽を見つけたがそのまま電話を閉じる。


「家の中で待ってようかな」


 家のノブに触れたとき、先輩の家の鍵が開きっぱなしになっているのに気付く。

 オートロック式のマンションとはいえ、先輩が眠っていることを考えると鍵が開きっぱなしの状態は防犯の面から考えて好ましくない。ここでじっと待つか、先輩の家に入るかの二択しかないような気がした。


「許可をもらったし、入っても大丈夫だよね」


 先輩に家に入るのは初めてではなかったが、それでも好奇心はかきたてられる。

 扉を閉め、忍び足でリビングに行く。誰もいないリビングには冷蔵庫のうなり声だけが聞こえていた。

 わたしは先輩の部屋を見る。


「やっぱり起こすなら部屋に入って起こすのかな」


 変に意識をし、顔が赤くなるのが分かりながらも念のため、もう一度先輩に電話をかける。先輩の部屋だと見当をつけた場所から案の定音楽が聞こえる。


 初めて先輩の部屋を見ることができるという好奇心に背中を押され、先輩の部屋の前まで行く。一度深呼吸をすると、勢いに任せて扉を開けた。だが、急激な勢いで好奇心がそがれ、扉を拳一つ分ほど開けたところで腕の動きを止める。わずかな隙間から部屋の中を少しだけ見る。その延長線上にはなだらかな山を描いたベッドがあった。


「先輩」


 小さな声で呼びかけるが、無反応だった。

 わたしは少し考えて、また先輩に電話をすることにした。先輩の番号を探し出し鳴らす。今日三度目の音楽が耳に届く。だが、先輩は相変わらず身動き一つしない。


「どうしよう」


 ここか外で待つかのどちらかを迷ったとき、先輩の携帯が再び鳴る音が聞こえた。

 わたしの携帯には待ちうけ画面が表示されている。


 わたし以外の誰かが先輩に電話をしているということだ。知らない振りをしようかとも考えるが、電話をかけるときは急用のときが多い。だからわたしはもう一度彼に呼びかける。


「電話が鳴っていますよ」


 先輩は無反応どころか、電話の着信音にわたしの声がかき消される。


 電話の着信音が連なるたびにどうしていいか戸惑い、一言侘びを入れると先輩の部屋に入る。ベッドサイドまでいったとき、壁を見ていた先輩が軽く寝返りを打つ。タオルケットが乱れ、先輩の手足が露になる。それに重なるように無防備な寝顔に言葉を失っていた。先輩が眉を一度ひそめ、身震いした。そして、瞬きをすると目を開ける。先輩の澄んだ瞳にわたしの顔が映し出されている。


 まだ夢見心地な先輩の瞳はわたしをじっと見つめていた。


「先輩。あの電話がさっきから鳴っていて」


 先輩は体を起こし、壁に背中を合わせる。その顔は赤く染まり、タオルケットは握ったままだ。


「悪い。何でここに」


 彼はそこでやっと室内を見渡す。


「待ち合わせ」


 誤解されないために今までの状況を説明しようとしたとき、電話が鳴り止むのに気付いた。


「電話がなってますよ。外で待っていますから、かけなおしてあげてください」


 彼の顔をそれ以上見ることなく、部屋を飛び出していた。

 心臓が口から飛び出してきそうなほど高鳴り、足は熱にやられたようにふらついていた。

 やっとの思いで彼の家から出ると、深呼吸をし天井を仰いだ。救いを求めるように壁に手を触れる。ひんやりとした感触がほっと心を癒す。


 家の中に入るのは非常識だったかな。そう思うたびにいつもは凛としている先輩の無防備な姿が頭にちらつく。

 思わず顔がにやけるのに気付き、隠すために頬に手を当てた。



 しばらく経って先輩がでてきた。さっきの緩やかな格好から一変し、黒のパンツに赤いシャツを着ていた。


「おはよう」


 随所に句点を置きながら、明らかにさっきのことを意識しているようだった。

 先輩は頭を乱暴にかくと口を噤んでしまった。


「怒ってますか? 勝手に部屋に入ったから。ごめんなさい」

「そうじゃないよ。さっき寝言とか言ってなかった?」

「言ってませんよ。熟睡していましたから」


 そこでやっと先輩が笑顔になる。寝顔を見られたことがそんなに恥ずかしかったんだろうか。

 わたし達は互いに苦笑いを浮かべると出かけることにした。


 夏休みといえど、午前中は比較的過ごしやすく、空を染める原色を思わせる青い空とはほど遠い。その空に囲まれている太陽も肌を焼くようなものではなく、ほっとする程度の熱を帯びている程度だ。


「補習は大変でした?」

「もう慣れたからそこまでは。中学とは違って驚いた」

「そうですね。夏休みなのに夏休みじゃないし」


 わたしの言葉に先輩は笑っていた。


「あと三年したら大学生だから、解放されるよ」

「そうですね」


 できるだけ普通に話をしていたが、先輩の話の内容が頭に入ってこなかった。あのときの無防備な寝顔が何度も頭にちらつく。


「今日は静かだな。何かあった?」

「何でもないです。さっきは誰から電話だったんですか?」

「賢から」


 わたしの苦心の問いかけもあっさりと終了する。二人とも無言になり、駅に到着する。

 電車の中は人が多く、立って移動することになった。

 見知らぬ女の人が先輩を見ているのに気付きながらも気にした素振りのない先輩にただ何もいえないでいた。


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