二人で行きたい場所
わたしは体を起こすと、枕元の時計を見た。時刻はもう十時を回っている。
慌てて飛び起きて、椅子の背もたれにかけていた制服に手を伸ばすして我に返る。
「そっか。今日から休みなんだ」
一気に脱力し、ベッドに横たわる。視界をさえぎる髪の毛を右手の指先で軽く巻く。少し広くなった視野で顔を動かし窓の外を見た。青々とした空が広がっている。もう七月が終わり、八月に突入していた。
高校に入って最初の夏休みの前半の補習が終わったところだった。
少し遅れた本当の夏休みが訪れ嬉しいが、補習の間も先輩とあまり顔を合わせることはなくなっていた。近くにいても用事がなくても会える関係でないことがもどかしい。
体を起こし、お茶でも飲むことにした。
リビングへつながる扉を開けたとき、わたしはその場で固まっていた。
彼はわたしと目が合うと、笑顔を浮かべる。
「休みだからって気い抜いていると、体調崩すよ」
リビングのテレビの近くのソファに西原先輩が座っていたのだ。
「何でいるんですか?」
「稜、いいよ」
わたしと先輩の会話に割って入るように、弟の声が聞こえた。
裕樹はわたしを見ると小さな声を出す。
「やっと起きたんだ」
「裕樹」
わたしは文句を言おうとした言葉を飲み込む。
彼は肩を大げさにすくめると呆れたような表情を浮かべていた。
「もうお昼だから服でも着たら?」
その言葉で、わたしは自分の洋服を見て無言で部屋に戻る。壁を背もたれにするようにして蹲り、嫌なものを見るようにしわの寄った自分のパジャマを見る。続けて部屋の奥にある鏡を見ると、髪の毛も四方八方に跳ねていた。今更ながらに手櫛で髪の毛を整え、下唇を突き出した。
「失敗したなあ」
まさか先輩がいるとは考えてもみなかったのだ。先輩を連れてくるなら前もって言ってくれればいいのに。
だが、落ち込んでいても仕方なく、クローゼットを開けて洋服を探す。
レースのある白いスカート、ピンクや白のワンピースなどをいろいろ見て、ピンクベージュのふくらはぎの下まで長さのあるスカートに、五分袖のチュニックブラウスを着る。長めのスカートを選んでしまったのは先輩に寝巻き姿を見られてしまったからかもしれない。
髪の毛を整え、鏡で自分の姿を確認する。深呼吸をし、リビングへの扉を開けるが、既にそこには先輩も裕樹もいなかった。
さっき先輩の座っていたソファまできたとき、裕樹の部屋から先輩の笑い声が聞こえてきた。緊張が一気に抜ける。
わたしがソファに座ると、リビングの扉が開いた。ビニール袋を両手に抱えた母親が入ってきたのだ。
「買い物?」
「お菓子を買いに行っていたの。西原さんを今日家に呼ぶと言っていたから」
母親は手を洗うと冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを透明なコップに注ぎ分ける。そして、ビニール袋から長方形の箱を取り出すと、その中に入っていたイチゴショート二つをお盆の上に並べていた。
「裕樹の部屋まで運んでくれる?」
「分かった」
わたしは立ち上がるとお盆を手に裕樹の部屋の前に行く。
裕樹が扉を開けると思っていたが、扉を開けたのはわたしよりも背丈の高い人。突然のことに驚き、思わず仰け反ってしまいそうになったが、手元に持っているお盆を見て、そんな気持ちを押しとどめる。
「これ、よかったらどうぞ」
「悪いな」
「いえ。気にしないでください」
わたしはお盆を手渡す。先輩はもう一度、お礼を言うと、部屋の中に戻っていった。
名残惜しさを感じながら、二人の入った室内を眺めていた。
「真由の分は冷蔵庫に入れておくから」
「ありがとう」
わたしは部屋に戻ることにした。
ドアに手をかけたとき、母親が思い出したように、「今から出かける」と口にする。
彼女の言葉に頷くと、部屋に戻る。さっきまで眠っていたベッドに身を委ねる。
自分の部屋に招いたり、何も考えずに先輩と話ができる裕樹が羨ましい。
わたしだって話をしたい。先輩のことをいろいろ知りたい。もっとわたしにいろいろ話をしてほしい。咲や愛理には言えることも、先輩に対してだけはたまに初対面の人と話をするように言えなくなるのがもどかしい。
しばらくして、扉の閉まる音が聞こえた。
何気なく気になってリビングを覗くが誰もいない。足音を殺し、玄関まで行くと先輩の靴も裕樹の靴もなくなっていたのだ。
先輩がどこかに行ってしまったことを心のどこかで寂しく感じながら、空腹を覚えたこともあり、母親の買ってきてくれたケーキを食べることにした。
冷蔵庫を開けると白くてかりのある箱が入っていた。それをあけると先ほど見たのと同じた生クリームをふんだんに使ったイチゴショートが一つ入っていた。ケーキをお皿に移すと箱は潰してテーブルの上においておく。冷蔵庫の中にはジュースも入っていたが、戸棚からティーパックのアールグレイを取り出しカップに無造作に入れる。お湯を注ぎ、テーブルの上に置いた。
楽しみにしていたケーキを一口食べるとしつこくない甘さのクリームの風味が口の中で広がり、スポンジは口の中でとろけていた。
それを食べ終わると、いいようのない疲労を感じ紅茶を飲みダイニングテーブルに顔をつける。顔を横にし、窓の外を眺める。重くなる瞼に逆らわずに目を閉じた。
人の気配を感じ、まだぼんやりとしている頭で顔を上げる。気配の正体を確認した瞬間、変な声を出して、背筋をしゃきっと伸ばしていた。
「おはよう。寝坊に昼寝ってすごいな。一日何時間寝ているんだ」
「七時間です、じゃなくてさっき出て行ったばかりなのに」
「戻ってきたから。さっきといっても一時間くらい前だよ」
「裕樹は?」
「友達に呼ばれて、少し出かけるってさ。その間、留守番していてくれって」
「ごめんなさい。もう起きているから大丈夫ですよ」
「そんなことないよ。誰かさんがよだれ垂らして寝ていたから、おもしろくて」
よだれ?
わたしは思わず右手の甲で口元を拭う。でも、それらしいものはなかった。
そんなわたしを見て、先輩は笑う。
「冗談だよ」
頬を膨らませると、先輩を見た。
先輩は「ごめん」と軽い口調で言う。
「用があったのを思い出して、起きるのを待っていたんだよ。それを言ったら留守番でもして待っていてくれって言われたから」
「起こしてくれればよかったのに」
「でも、心地良さそうに寝ていたから、起こすのも悪いかなって。で、用事ってのは、出かけるのは明日にしない?」
「明日?」
補習が終わってからゆっくり考えようと思っていたので何も考えていなかったのだ。
先輩と一緒ならどこでもいいがそんなことを言うと変に思われそうだった。だからといって取り繕った場所を言って趣味が悪いと思われたくもない。前に行ったテーマパークに行くと言うと、ワンパターンな人と思われそうでそれも嫌だった。
わたしが黙っていると先輩は少し困ったように笑う。
「都合悪いなら、他の日でもいいよ。明後日から父親の実家にちょっと顔を出さないといけないからさ。八月の後半になると思うけど」
補習が終わってもっと先輩になかなか会えなくなるとは思っていたが、本当に会えなくなるとは思いもしなかった。
「考えておきますね。先輩はどんなところがいいですか?」
「どこでもいいよ。というかお前ってこの辺りのことよく知らなそうだな」
「いまいち分からないですね」
「遊園地、映画館、博物館とかもあるけど、女の子が好きそうなところってぴんと来ないんだよね」
先輩に女の子扱いされたのがなんだか嬉しくなり、思わず顔がにやけていた。そんな気持ちを紛らわせるためにすっかり冷えてしまった紅茶を少しだけ口に含む。
「手軽なところだと、映画館、博物館か。買い物とかでもいいよ」
映画と聞いて、宮脇先輩のことを思い出しドキッとしてしまった。二人が約束した映画をわたしが誘ってはいけない気がしたのだ。
「映画はちょっといいかなって」
「嫌い?」
「今は見たいのがないから」
「そうなんだ。クラスの女子が外国で人気のある恋愛物の映画が上映されるって大騒ぎしていたけど、そういうのを見たいのかと思っていた。
その映画は知っている。CMを見て見たいと思っていた。だが、それは宮脇先輩の見たいと思っていた映画かもしれない。だから「行きたい」とは言えなかった。
「博物館にします。行ってみたかったんですよね」
「分かった。広いからかなり時間も潰せそうだよな。じゃ、ごはんとかはそのとき決めるってことで」
わたしはうなずく。
そのとき裕樹が中に入ってくる。
「もう起きたんだ。つまんね」
「つまらないって」
また裕樹はよからぬことを考えていたんだろうか。
彼は昔から冷めたところがあったが、先輩といるときのは年相応に見える。
彼にとって先輩は兄のように自然体に接することができる人間なのではないかと感じていた。




