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隣の先輩  作者: 沢村茜
第六章 約束
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複雑な心

 宮脇先輩はわたしに気を遣っているんだと彼女の言葉の節々から伝わってきた。


「用事があるから、早く帰らないといけなかったんです。お先に失礼します」


 驚いた反応をする二人の言葉に耳を貸さずに、頭を下げると踵を返す。できるだけ早く足を前方に押し出していた。手っ取り早く二人の視界から消えることができるように近くの曲がり角を曲がる。そして、足を止めると高鳴った心臓に手を重ねた。


「安岡?」


 その言葉に驚き、顔を上げると、すぐ目の前にいつもクラスで見る姿があった。森谷君は不意打ちを食らったように目を見張り、わたしを凝視している。


「今、帰りなの?」


 あまりに驚いて、さっきまでの暗い気持ちがどこかにいってしまったような気分だった。


「足音が聞こえて振り返ったら、安岡がいたから。何かあった?」


 彼は間髪入れずにわたしに尋ねてきた。

 わたしは彼から目をそらすと、自嘲的に笑い視界を隠す髪をかきあげる。


「顔に出ていた?」

「泣きそうな顔をしているように見えた」


 全ては自分で招いたことだった。それなのに被害者ぶるなんてどうかしている。


「わたしのせいでね、人に迷惑をかけてしまったの。謝っても気にしなくていいって言われて。申し訳なくてね。先輩の叶えたいことをダメにしちゃったのかもしれない」


 わたしは無言で歩き出した。森谷君はそんなわたしの傍にそっと並んで歩いていた。


「先輩って西原先輩?」

「違う」


 だが、ふとある考えが頭を過ぎる。先輩にとってもそうだったかもしれない。あそこまで気にかける人からデートに誘われて嫌なわけがない。わたしが彼女を怪我させて、デートを潰したと知ったら怒るかもしれない。


「今からそれを叶えるようにするとかは無理?」

「叶えるように?」


 わたしが西原先輩と宮脇先輩の仲を取り持つということなのだろうか。

 罪悪感も混じったもやもやとした複雑な感情に答えを見つけ出せないまま家に着く。


「できることがあったら協力するから」


 わたしよりも先に足を止めた森谷君は笑顔でそう告げると、わたしに別れを告げ去っていった。



 隣の部屋からもれてくる明るい光と、窓から差しこむ月明かりが頼りなくわたしの部屋を照らし出す。

 わたしはご飯を食べ、お風呂に入ると部屋に閉じこもっていた。ベッドに横になり、ただ何もせずに虚空を眺める。

 不意に軽やかな音楽が耳に届く。けだるさの延長で携帯に手を伸ばしていたが、表示された名前を見て、思わず起き上がる。通話ボタンを押すと、耳に当てる。


「もしもし?」

「ベランダに出てこれる?」


 先輩の申し出に先輩の顔を見る気にならなかったが、断ることもできないでいた。

 窓をあけると、すっかり夏の風が部屋の中に飛び込んできた。さっきまで締め切った部屋の中にいたからか、夏の風なのに優しく肌を撫でていくような気がする。


 窓を開ける音が聞こえたのか、先輩の優しい声が聞こえてきた。


「賭けの話、覚えている?」


 わたしは敷居に背中を当て、そこから夜空を見る。今日は空気が澄んでいるのか、いつもより多くの星が見える気がした。


「覚えていますよ」


 その星の瞬きと、先輩の優しい声がなんだか切なくて胸の奥が苦しくなってきた。


「楽しみにしてろよ」


 少しからかうようなおもしろがるような声。

 だが、その言葉はわたしの胸を刻む。


「分かりました」


 今の気持ちに気付かれないためにできるだけ明るい調子で声を出す。

 いつもならそんな先輩の言葉にどきどきしていたはずだった。だが、今日だけはそんな気分になれなかった。


 わたしの視界に移っているベランダの輪郭が二重になる。

 今日、先輩と話をしたのがベランダでよかった。そうじゃなかったら、先輩に今、少しだけ泣いていることがばれてしまうから、だ。


 宮脇先輩と先輩の関係に彼女でもないのに、好きなわけでもないのに複雑な気持ちを抱いていたことに、バチが当たったのかもしれない。


 ごめんなさい


 わたしは宮脇先輩にも西原先輩にも言えなかった言葉を、心の中で何度も繰り返していた。



 朝、起きて、学校に行く準備をしていると先輩から一緒に学校に行こうという誘いのメールが届いていた。返事を送ることはできなかったが、そこに記された時間に家を出る。


 先輩はいつもと同じように、廊下から外を見ていた。

 わたしが声をかけるまえに、彼は振り返ると目を細める。

 彼に誘われ、一緒にエレベーターに乗り込む。その間も罪悪感が優先し、先輩の顔を見ることができなかった。

 マンションを出たとき、先輩が短く息を吐く。


「昨日言っていたことだけどさ」


 わたしは曖昧に頷く。


「笑ってみて」

「はい?」


 意味が分からずに眉をひそめ、先輩を見る。


「だから、何でも言うことを聞くんだろう? だから今、笑って」


 先輩はいつもと変わらない笑顔でそう言ってきたのだ。


「笑えって」


 そう言ったとき、両方の頬を抓られた。

 わたしの顔は先輩に釘付けになる。


「もしかして、それが命令?」

「そんなとこ」

「それだけ?」

「それだけ」


 色気のあることを想像していたわけじゃないけど、もっと買い物に行って来いとかパシリ的なことを想像していた。


 そのためだけにわたしとあんな約束をしたってこと?

 わたしが変なことを考えていたりしたら、全然つりあいがとれない。

 思わず唇を噛む。


「じゃ、もう一つ。俺が負けたら、何を期待していたんだ?」

「勉強を教えてもらおうと思っていたんですよ。先輩って成績いいみたいだし」


 デートとは言えずに下位の候補を先輩に言う。


「勉強なら俺より賢に教えてもらったほうがいいよ。あいつのほうが俺より成績いいし」

「そうなんですか?」

「俺はあいつに昔から何一つ勝てないから。争っているわけでもないから別にいいんだけどさ。でも、料理だけは勝てそうな気がするか」


 そう先輩は笑っていた。

 依田先輩って何でもできるんだ。運動も得意だし。

 わたしとは大違いだ。


「さっきの勉強ってかなり下位の候補だったんだろう? 最初は何を考えていたんだ?」


 心を見透かされ戸惑っていると、わたしたちの隣を通り過ぎた同じ高校の人が変な顔をしているのに気づいた。道端で同じ高校の生徒がほっぺたをつかんで立ち止まっていたら、誰でも不審に思うだろう。

 先輩はそんな心を見透かしたように言う。


「言うまで離さない」

「一緒に遊びに行きたいなって思っただけですよ」

「遊び?」


 先輩が眉をひそめる。

 そのとき先輩の手がやっとわたしから離れた。

 言わなきゃよかったかもしれない。


「いいよ。どこがいい?」

「え?」

「遊びに行ってやるよ。夏休みに一日だけなら」

「いいんですか? 受験があるのに」

「たまには気晴らしも必要だろうから」


 そんなにあっさりいいと言ってくれるとは思わなかった。


「考えていいですか?」

「いいよ」


 そう言うと、先輩は歩き出す。

 わたしは彼を追うようにして歩き出した。

 宮脇先輩のときは困った顔をしていたからだ。だが、わたしと宮脇先輩の言葉に違いがあったのに気付いた。その一言が先輩にとっては大きかったのかもしれない。





 学校に着くと、既に森谷君の姿があった。


「昨日のこと 解決したんだ」


 胸がどくんとなり、自分でも分かるほど顔を引きつらせていた。

 同時に。森谷君の顔が一瞬引きつるのが分かった。


「ごめん。触れないほうがよかったみたいだね」

「うんん。いいよ」


 先輩とデートができることになり、喜んでいる場合じゃなかった。

 どうしたらいいのかもよく分からなかった。

 窓の外を見ると、夏特有の澄んだ青い空が広がっていた。





 その日の放課後、学校を出てしばらく歩いたとき、前方を歩いている人を見つける。

 同時に胸の奥が痛む。


 西原先輩と宮脇先輩で、西原先輩は宮脇先輩の荷物を持っていた。

 二人が一緒に帰るのを初めて見た。


 その二人は楽しそうで、仮に今もつきあっていると言われても何の疑いもないほどだった。

 暑い日ざしがわたしの肌をじりじりと焼いていくのを感じていた。


 わたしは二人に気づかれたくなくて、通学路の途中にある本屋で時間を潰し、家に帰ることにした。


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