先輩との出会い
まだ冬の名残を残す春の風が傍を抜けていく。
わたしはそんな寒さをしのぐためにパステルカラーの青色のスプリングコートの裾を寄せた。
だが、再び目的地に急ごうとした足も少し歩いただけですぐに止まる。
目的地がどこなのか分からなかったからだ。
その場所は確かにこの辺にあるはずだったが、どう視線を走らせようともそれらしきものは存在しない。
わたしは眉をひそめ、わずかに茶を帯びた髪の毛をかきあげる。
「弱ったな」
苦笑いを浮かべると、辺りを見渡すことにした。
わたしは母親に頼まれ、夕食の材料を買いに行くことになっていた。
タクシーの中から見た赤色の看板を掲げた店だと聞き、知ったつもりになっていたわたしは安易にその頼みを聞き入れていた。
だが、歩いて十分ほどにあるはずのお店に三十分が経過しても到着することができないでいた。
家族から鈍いだの、とろいと言われることは頻繁にあったが、いくらわたしでも住み慣れた街で迷子になることはない。問題はこの地が数日前に引っ越してきたということ、似たような町並みがひろがっていることにあったのだ。加えて、土地勘といったものを甘く考えすぎていたこともあるのではないかと思う。
曖昧な記憶に頼らずに、場所もしっかり確認しておけばよかったと今になってみれば思う。だが、今更後悔しても時既に遅し。完全な迷子になってしまっていたのだ。
半ば諦めに近い気分になり、携帯を取り出した。だが、すぐに携帯を片づける。家に電話しても誰も行先を教えてくれる人がいないのは分かっていたのだ。
知っている人で自分を案内できるとしたら父親だが、今は仕事中で、そうした私用で電話をかけることに抵抗があった。
引っ越して三日目。こうして一人で出かけるどころか、家から出たのも初めてだった。そのお店のありかを辺りを見渡しても人の気配もない。時折、車が傍を駆け抜けていく。ため息混じりに手元の携帯を指でなぞったとき、低い声が優しく届く。
「どうかしましたか?」
その声に反応するように顔を上げると、背後に背の高い男の人が立っていた。
黒髪に、それより少し薄く感じる茶色の瞳。その瞳には鋭さはなく、優しい印象を受ける。整った顔立ちは一瞬で心を引き寄せる。
彼が問いかけてくれたことも忘れ、思わず彼に見入っていた。その綺麗な顔立ちが一瞬で歪む。
自分の行動に我に返り、目を逸らしていた。
変に思われたのかもしれないと思ったとき、穏やかな声が届く。
「道に迷っているのかなと思ったので。違っていたら気にしないでください」
彼が変な顔をしたのはそういう意味だったのだと気付く。
わたしは深呼吸をすると、ダメ元で聞いてみることにした。
「駅前にあるスーパーに行きたいんですけど、どうやっていけばいいかなって思って。赤い看板のお店です」
彼は笑顔になると、何度も理解できるまで丁寧に教えてくれた。
「近いから大丈夫だと思うよ」
「ありがとうございました」
彼にお礼を言うと、頭をさげる。その目の前にある細い道を入っていく。その道を歩くと車が一台走るほどの道に出るので、そこを右沿いに歩き、コンビニに行くが、その一つ手前の道を曲がればいいとのことだった。その道の前を通るときは看板が見えるので、その先は迷わないのではないかというところだった。
彼に言われたとおりに歩いて行くと細い道の奥に赤い看板が家の隙間から覗いていた。先ほどの場所から五分も離れていない。わたしはほっとため息を吐く。
道案内すると言わなかったのは多分、余計な不安を抱かせないためだろう。
その道を抜けると行きたかったお店の前に到着する。早速、母親から頼まれた品を買うことにした。
帰りはこの辺りには珍しい高層のマンションなので迷う心配はほとんどなかった。ビニール袋を手に抱え、家のある通りまで来るとほっと息を吐いた。
茶色の外壁のマンションで、ガラス戸の奥にはまだ真新しい白い壁が広がっている。自動扉を抜け、その突き当たりにあるエレベーターのボタンを押そうとしたとき、長い腕が目の前を横切る。その指がエレベーターのボタンに届き、思わず手の主を確認する。だが、彼の姿を視界に映したとき、思わず声を上げそうになる。
立っていたのはさっきの男の人だった。
彼もわたしのことを覚えていたのだろう。目を細めてわたしを見ている。
「やっぱり住人だったんだ」
その言葉に思わず笑顔でうなずいていた。
少し前の出来事を彼が覚えていても不思議ではない。だが、そんな些細なことが心をくすぐる。
「そうみたいですね」
そのとき、うなり声と共に、エレベーターの扉が開く。
彼はその場でボタンを押すと、わたしに先に入るように促していた。先に中に入り、エレベーターのボタンを押す。彼はわたしに頭を下げると中に入る。わたしは自分のおりる五階のボタンを押す。何階でおりるか聞こうとしたとき、彼が小さな声をあげる。
「同じ階」
肩をすくめ、少し照れくさそうに言った彼の言葉が嬉しくなり、笑顔をこぼしていた。たまたま町中で会った人が同じマンションだというだけでもすごい偶然だと思うのに、その上、同じフロアというのがすごい。五階は五部屋ある。その中でどの家なのだろう。引っ越したばかりで、住人の顔をほとんど知らなかった。近所へのあいさつは両親が済ませていたからだ。
エレベーターが大きく揺れ、止まる。わたしはボタンを押し、彼に先に出てもらうことにした。彼が外からボタンを押してくれ、外に出る。それを確認してから、彼の手がボタンから離れた。背後で機械の動く音がした。エレベーターの扉が閉まったのだ。
「じゃあね」
そう口にした彼が背を向ける。これ以上話が弾まなかったことに心残りがありながらも彼を笑顔で見送っていた。だが、彼の足があゆみかけた方向を見て、思わず声を漏らす。それはわたしの部屋がある方角だったからだ。彼の後をついていくように自分の家に行く。わたしの前を歩いていた彼の足が止まる。不思議そうにこちらを見ていた。後をつけていると思われたんだろうか。そのことに焦り、慌てて弁解することにした。
「わたし、504に住んでいるんです。だから、あの」
彼は向き直ると目を細める。
「よろしく。安岡さん」
「名前、どうして」
彼に名乗った記憶はない。
「挨拶に来た人がそう名乗っていたから。お母さんかな」
彼の言葉に納得する。
「あなたは?」
「俺は西原稜」
そこまで言って、一旦言葉を切った。そして、艶のある黒髪をほんの少しかきあげて、苦笑いを浮かべていた。
「というか、下の名前はいらないか」
「いえ、よろしくお願いいたします」
西原稜さんか。
彼の名前を心の中で暗唱し、軽い足取りで彼と一緒に家の前に行く。奥の二部屋は玄関の位置がきわめて近い場所にある。わたしの家の前まで来ると、彼は会釈をする。
彼にもう一度挨拶をし、ドアのノブを捻ると家の中に入った。ドアを閉めると、ドアにもたれかかる。背中に堅い感触を味わいながら、いつもと違う高鳴りを覚えている胸に手を当てた。ドアの開く音が聞こえた。彼も部屋の中に入ったんだろう。
もう一度深呼吸をすると、リビングに戻ることにした。そこには長い髪の毛を後方で一つに結んだ女性が膝をつき、食器を段ボールから取り出していた。
彼女に声をかけると、持っていた袋を真新しいダイニングテーブルの上に置く。そこにはわたしと同じ背丈の少年の姿がある。彼はどこか気だるそうな表情をしながら頬杖をつき、透明なガラスのコップに入れたジュースを飲んでいた。
「部屋の掃除は終わったの?」
「真由と違って荷物は少ないから」
彼はあどけない顔立ちに似合わない淡々とした言葉を残していく。彼は今年小学校六年で、わたしとは四歳の差がある。
わたしは今年から高校に入学する。それに併せて父親の転勤が決まったこともあり、高校は本命も滑り止めもこの辺りの学校を選ぶことになった。
母親からお礼の言葉を受け取り、リビングの右手にある部屋に入ることにした。ドアノブを捻ると、山のように段ボールの積み重ねられた部屋が目に飛び込んでくる。朝はそれを見て、何度も心の中でため息を吐いた。だが、不思議と買い物に出かける前に感じていた煩わしい気持ちは湧いてこない。弾む心を抑え、段ボールの中から中学の卒業アルバムを取りだし、本棚の一番下に片付ける。鼻歌交じりに他の本に手を伸ばしかけたとき、背後にある壁が視界に入る。そのときふと気付く。振り返り、ベッドごと壁を視野に収める。
「西原稜さんか」
彼の名前を呟くと、右手の人差し指を唇に当てる。彼の素性に思いを馳せながら、片付けを済ませることにした。
隣だから彼に会う機会も多いはずだと思っていた。だが、何度か家から出る事はあったが、彼に会う事は一度もなかった。




