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隣の先輩  作者: 沢村茜
第二章 思いがけない誘い
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先輩の家

 電話をかけようと携帯を鞄から取り出したとき、新着メールが届いているのに気付いた。

 時間は丁度駅を出たくらいだった。

 そこには三人で出かけてくるから鍵を持っていないなら四時以降に帰ってくるようにと書かれている。

 雨が降っているという状況を全く考えてくれていないようだった。


「家に誰もいない?」


 その言葉に、先輩がまだわたしの傍にいたことを思い出した。顔に張り付いた髪の毛から滴り落ちる雨粒を感じながら、うなずく。

 彼は自分の家を指差した。


「家にあがる? タオルくらいなら出せると思うけど」

「いいですよ。すぐに帰ってくると思うし」


 今が二時半を回ったところだった。あと一時間は帰ってくるのが望めないが、濡れている状態で人の家の中に入ることははばかられたのだ。

 そんなわたしの気持ちに気づいたのか先輩は苦笑いを浮かべていた。


「そんなこと気にするなよ。この前、母さんを家にあげてくれたお礼」


 そう言うと、先輩は鍵を開けていた。扉をあけると中に入ってしまった。先輩は玄関先で靴を脱ぐと、玄関の扉を閉めずに、家の中に入っていく。


 入ってこいということなんだろうか。今まで人の家に入ったことがあるけど、それとは比べ物にならないほど、緊張していた。何度も深呼吸をし、家の中に入ることにした。


 玄関の奥に入るとわたしの家と同じように廊下がある。玄関には油絵のような花の絵がかけられている。花瓶はあるが花は生けられておらず、ただ置かれているだけといった印象だった。いくつか脇に扉があって、わたしより一足早く家の中に入った先輩はすりガラスのはめ込まれた扉に手をかけていた。その奥にはリビングがあるのだろう。扉を閉めると、家の中に響いていた雨音が一気に遮断される。物音しない空間に先輩と二人でいるということを強く意識しながら、靴を脱ごうとした。だが、その足が想像以上に濡れているのに気付き、思わず足を靴に戻す。


 わたしが家に入るのを断ろうとすると、先輩はわたしに声をかけ、一つ手前の木製の扉を開けて、その中に入っていった。そして、すぐにオレンジ色のタオルを持った先輩が出てきた。それをわたしに渡す。


「これで拭く? 足を洗うなら浴室を使ってもいいけど」

「大丈夫です」


 足を洗うためとは分かりながらも、浴室という言葉に過剰に反応してしまっていた。貸してもらったタオルで足を軽く拭いてから、そっちのほうが衛生的だったのかもしれないと思う。だが、いまさら言い出すこともできずに、流れに身を委ねることにした。


「新しいタオルを持ってくるよ」


 足を拭いてしまったタオルを渡すのを申し訳なく思いながらも、それを先輩に渡す。先輩はわたしの使ったタオルを手に眉をひそめることなく受け取ってくれた。そのまま奥にある扉を開け、わたしをまねき入れる。広さもわたしの家よりも若干広いがリビングの広さは大きく変わらない。だが、置いてある家具に似通ったものはなく、別の空間に連れてこられたみたいだった。住んでいる人が違うだけで、こんなにも印象が違うのだという気持ちになる。


 リビングからいける部屋は二部屋ある。そして、廊下にも二部屋あるはずだ。そのどれが先輩の部屋なのだろうと考えていると、わたしの視野をさえぎるように頭に白いものをかけられた。手を伸ばしてそれに触ると、タオルだと気づく。タオルの隙間から先輩の顔をじっと見ていた。


「それ、使っていいよ。折角の髪の毛が崩れちゃったな」


 わたしは口元がほころぶのに気付き、慌ててそれで顔を隠した。一見して分かるくらいの変化だったが、先輩が気付いていてくれたということがすごく嬉しかったのだ。


「足りなかったら、他にも持ってくるから。後は、ドライヤーとか使う?」

「あまり使わないから。タオルで大丈夫です」

「問題はその洋服だよな。俺の洋服を貸すわけにもいかないし、サイズも合わないから」


 先輩の洋服? 想像して顔が赤くなるのが分かった。そんなものを着てしまうと、余計に緊張してしまいそうだ。


「大丈夫ですよ。そんなに濡れてないし」


 集中的にぬれているのは肩の部分とスカートの裾の部分。上も少し濡れているが、ニットを着ていることもあり、濡れているのはそこまで目立たないからだ。


「なら、いいけど。何か飲みたいものとかある?」

「何でもいいです。コーヒーは飲めないけど」

「紅茶は?」

「大丈夫です」

「分かった。その前に、ちょっと着替えてくるから」


 先輩は一度リビングの奥にある扉を開けて、中に入っていく。そこはちょうどわたしの部屋の隣。わたしと先輩は部屋も隣だと言うことになる。迷惑な音とか立てていないかな。まだ短い居住期間での日々を思い出し、先輩に迷惑をかけていなかったかばかりを考えていた。


 ドアが開き、赤色のシャツに別のジーンズをはいた先輩が部屋から出てきた。髪の毛を拭いたのか、髪の毛がいつもより乱れていた。


 先輩はその足でリビングに入っていく。カウンターキッチンなので、リビングからでも先輩の姿を見ることができた。だが、ずっと先輩の姿を目で追っていると変に思われるのではないかと考え直し、髪の毛を拭くことに集中することにした。そして、木製の椅子に座ると、母親に帰ってきたら連絡をしてくれとメールをしておく。


 携帯を片付けたとき、紅茶の香りとともに先輩がわたしのところまでやってきた。カップをわたしの前に一つ、その向かい側に一つ置くと、彼は向かい側に座る。黄金色の紅茶の姿を視野に納めながら、柔らかい感じのする香りをかぎ、白いカップを口に運ぶ。


「甘い」


 思わず驚きの声が漏れる。

 紅茶の苦味とかそういったものが全くなかった。すごく飲みやすい。紅茶って苦いものばかりだと思っていたのだ。


「苦手だった?」

「そんなことないです。おいしいですよ」


 いろんな味の紅茶があるんだと想いながら、続きを飲む。


「母親の趣味で他にも変なお茶がいっぱいあるんだよな。これが普通の紅茶だったし、無難かなと思って」

「どんなお茶ですか?」

「ブルーベリーとか、ラベンダーとか、まあいろいろとね」

「ハーブティが好きなんですか?」

「よくは分からないけど、そうなんじゃない? 母さんからおいしいお茶があるからと誘われても断ってくれてもいいから」


 そう苦虫を噛み潰したような表情でいう先輩に思わず笑ってしまっていた。


「今日、両親はお出かけですか?」


 お母さんはあの雨の日に一度会った。先輩のお父さんはまだ見たことがない。毎日、夜遅く帰ってきていることくらいは分かっていた。先輩のお父さんがどんな人か分からないけど、先輩に似ていてすごく優しい人なんだろうなと勝手に想像をしていた。


「買い物。遠くに行くときは父親が運転するから、たいてい一緒に行くんだよ。母さんも一応免許を持っているんだけど、心配になるから運転をさせたくないんだってさ」

「年齢がそんなに離れているんですか?」

「同じ年だけど、心配性なんだよ」


 あきれたように笑う先輩を見ていると、さっきの妄想がより強固なものになっていった。


 先輩はカップに手を絡め、それを口元に運ぶ。音を立てずに紅茶に唇を触れる程度に飲むと、再びカップをテーブルの上に置いた。紅茶の正しい飲み方というものは分からないが、先輩のそういう動きが絵になっていて、魂が抜けたように先輩の顔をずっと目で追っていた。そのとき先輩が顔をあげ、わたしと目が合う。わたしはそこで我に返るが、目が合った後に目を逸らすこともできずに、お互いに何も言わずに顔を見合わせている状態が続いていた。そのことを意識してから、僅かに乱れている心臓音が一気に加速し、わたしの体から飛び出してくるのではないかと思うほど大きな音に変化していた。先輩の家という今までとは違う空間がそうさせていたのかもしれない。


「髪の毛、まだ濡れているよ」


 さっきまでの緊張が吹き飛ぶような他愛もない言葉に、逆に拍子抜けをしていた。

 手を頭に伸ばすと、大きな水滴が手につく。わたしは条件反射のようにさっき使っていたタオルで髪の毛を軽く拭いていた。先輩はわたしに興味がなくなったのか、わたしの背後に視線を移す。先輩と同じものが見たくなり、背後に視線をずらすと、窓を覆い尽くす雲が窓いっぱいに広がり、雨がまだ降り続いていた。さっきまであの中にいたということが嘘のように、遠くにある映像を見ているようにその景色を見ていたのだ。


「雨、いつまで降るんだろうな。昨日行けば一日遊べたのに」


 その言葉に再び先輩を見ると、彼は肩をすくめていた。先輩はもう少しあそこにいたいと思ってくれていたんだろうかと思うと、なんだか嬉しくなって、紅茶に口を運ぶ。


「明日には晴れてくれるといいですね」


 一番言いたい言葉をぐっと飲み込み、わたしは差しさわりのない言葉を笑顔で先輩に告げていた。



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