九
地上からは垂直に見えたが、渦中の道は螺旋状にくねっていた。深淵でとぐろを巻きながら泳ぐ巨大な竜ーーその体内を通るかのような道を、天翔丸は陽炎とものすごい速さで下降した。
滑っているのか、流されているのか、落ちているのか、わからない。このままでは身体がばらばらになってしまうと思いながらも下降を止めるすべはなく、ただ陽炎に強い力で抱きしめられながら、共々道を進むしかない。
ごうごうと渦巻く水音が周囲から迫ってくるように聞こえ、地上の生物としての本能から恐怖を感じる。
天翔丸は声を出すこともできず息を止め、目も開けられずにぎゅっとつむり、身を縮めてひたすら黒衣にしがみついた。
そうしているうちに下降がふいに終わり、地に足がついた。
「着きました」
陽炎はいつもの冷静な口調で冷静な報告をして、腕をほどいた。
天翔丸はぶはっと息を吐いて止めていた呼吸を再開し、ばくばくする胸を押さえながら、澄ました顔を睨んで抗議した。
「おまえなぁ! 飛びこむなら、いまから飛びこみますって言ってから飛びこめよ! びっくりすんじゃねえか!」
「私のことで時間をとられてしまったので、少しでも急いだ方が良いかと」
「それはまあそうだけど、心の準備がいるだろ!?」
「深さに怖じ気づいたのなら、なおさら早く飛びこんだ方が良いです」
「お、怖じ気づいてなんかねえよ! 俺は淵の中がどうなってんのか、じっくり観察をだな……!」
「話は後で。出迎えです」
陽炎の視線の先を見て、天翔丸は言葉をのみこんだ。
たとえるならそれは淵の底に沈んだ大きな大きな泡、その中に自分と陽炎はいた。
前後左右も頭上も、周囲はすべて水に取り囲まれており、泡の外側には水中を泳ぐ無数の魚たちがいる。大小さまざまな魚たちの眼は、すべてこちらをーー鞍馬天狗を見ていた。
突き刺さるような無数の視線を全身に浴びて、天翔丸は思わず身をすくませる。
ドドドドォォォ……!
怒濤のような水音に、天翔丸ははっと息をのんだ。
いま下ってきた道に一気に水が流れこみ、渦が消え、道は跡形もなく消失してしまった。
(……閉じこめられた!)
唯一の出口がなくなった。
泡の中は広く、自分と陽炎が呼吸するには困らないだろう。だが経験したことのない閉塞と危機、そして緊張と恐怖で息が苦しくなってきた。
天翔丸が無意識に後ずさろうとしたとき、背にそっと手が当てられた。
「大丈夫です」
陽炎が後ろから支えるように背に手を当てながら、耳元にそっと話しかけてきた。
「状況は最悪かもしれませんが、大丈夫です。あなたには常識や損得を越える信念があり、弱きものをいたわる慈悲もある。誠意をもって話せば思いは伝わります。大丈夫……心を強くもって、彼らと向き合ってください」
その語りかけで、なんとか自分をとりとめることができた。
天翔丸はうなずき、深呼吸をした。
(大丈夫……大丈夫だ)
陽炎がそう言うのだから、大丈夫。
完全に包囲されて逃げ道もなくなってしまったが、自分は一人きりではない。
天翔丸はゆっくりと身体を起こしながら、周囲の様子をうかがった。
(下は、岩か)
足元には大小の岩が敷き詰まっている。岩は不安定で足をのせただけでぐらつくものもあり、気をつけていないと立つこともままならない。急流に磨かれた岩はどれもつるりとしている上に、濡れて滑りやすくなっている。岩の濡れ具合から、ここはつい先ほどまで水で満たされていたようだ。
根の谷もたいがい動きづらいがその比ではなく、仮にここで戦うことになっても、足元がおぼつかず剣をふるうことも難しいように思われた。
ざざざ……ごごご……ざざざ……ごごご……。
水の動く音が耳鳴りのように絶えず聞こえる。周囲を大量の水がゆっくりと流れており、どうやら流れによってこの空間が形成されているようだ。ここは大きな泡の中だと思ったが、巨大な渦の中心と言った方が正しいのかもしれない。渦を動かしているのは、もちろん水の妖怪だろう。
本来、ここは地上の生物が来られる場所ではない。
鞍馬天狗を迎え入れるーーそのために、彼らの妖力によって作られた空間だ。
(こりゃあ、確かにやばいな)
もしここで、彼らの逆鱗にふれるようなことをしてしまったら。彼らはただ力を抜いて、水を解放するだけでいい。それだけでこの空間はたちまち水で満ちて、簡単に鞍馬天狗の息の根を止めることができる。渦の道を通り抜けてきたのに、不思議と衣や身体がまったく濡れていないのも、おそらく彼らの力によるものだろう。
名目上は鞍馬天狗のなわばりらしいが、竜王淵は間違いなく彼らのなわばりだ。ここに来た時点で、すでにこちらの命運は彼らの手中に握られている。
(やばすぎる。でもーー)
天翔丸は深淵を底から見上げ、思わず感嘆の息をついた。
(きれいだなぁ)
そこは蒼の世界だった。
清澄という言葉がふさわしい蒼。
地上は夜なのに、なぜか淵の中はほんのりと明るく蒼に染まっている。夏の青空のぬけるような鮮やかな青とは違う、澄みきった深い蒼だ。
水が揺れ動くたびに濃淡が生じて、その変化にまた感動が溜息となって出る。それはまるで水の虹ーー蒼一色の虹だった。
地上から見ることはかなわない、深淵の底に来たからこそ見られる光景。これを見られるのならここへ来られたのは幸運ではないかとすら思えて、先ほどまで感じていた恐怖が洗われるように消えた。
それほどまでに、底から見た竜王淵は美しかった。
(この色、どっかで見たことがあるような……)
見上げながら考えていると、水中から大きな岩魚が二匹飛び出し、空間に入ってきた。
半海と水尾が魚人の姿となって、天翔丸と対面した。
「……鞍馬天狗……ーー」
半海はただ一言を発して、睨むようにこちらを凝視する。
なぜ翼がないのか、本当に天狗なのか、そんな誰もが抱く疑問を、半海は問いかけてはこなかった。
天翔丸は大きく一歩前に踏み出して、淵に響きわたるような声で名乗った。
「俺の名は天翔丸。俺が鞍馬天狗だ」
半海も一歩前に進み出てきた。
「我が名はーーいや、名乗りは必要ありませんね。私が鞍馬天狗にお目通りを願いに山中へ行ったあのとき、あの場に、あなたはいた」
静かな口調にはかすかに刺がある。
天翔丸はそれをきちんと受け止めるように答えた。
「ああ。半海……あのとき、ちゃんと名乗り出なくて悪かった」
あれは謝らなければならないことだと思ったから、率直に謝った。
しかし半海の返答はない。
ざざざ……ごごご……水の音が響く中、ただこちらをじっと見ている。
天翔丸は負けじと見返しながら、問いかけた。
「琥珀はーー俺の身代わりになった猫又は、どこにいる?」
半海がすっと手を挙げ、水中を指差した。
「あちらにおります」
淵の奥から大きな泡が流れてきて、その中に白い猫又がいるのが見えた。琥珀は大きな身体を縮めて震えている。
「琥珀!」
琥珀がはっと顔をあげて、こちらを見た。こちらに来ようとするが、爪をたてても泡の中からは出られない。何かを叫んでいるが水に阻まれて聞こえず、琥珀色の目から涙をぼろぼろとこぼすばかりだった。
半海は抑揚のない声で言った。
「ご心配なく。溺れた際に飲んだ水も、身を濡らしていた水も、私の妖力で排除させていただきました。あなたの飼い猫は怪我一つなく、あのとおり無事です」
天翔丸は半海をにらみ、低い声でうなるように言った。
「無事、だと?」
あんなに泣いているのに。あんなところに閉じこめられることがどんなに怖く心細いことか、そんなこともわからないのか。それともわかっていて、わざとやっているのか。いずれにせよ幼い琥珀を泣かせておいて平然と無事だと言う半海に、ふつふつと怒りが沸きだす。
そのとき背後から衣の袖をくんと引かれた。
背後に目をやると、陽炎が小さく首を横にふった。
ーー気を鎮めてください。
影立杉で言われた言葉が頭をよぎる。
ーー落ち着いて、どんな言葉にも冷静に対処してください。
天翔丸は怒りをぐっとこらえて、再び半海とむきあった。
そして努めて冷静な声で言った。
「琥珀を返してほしい」
「あの猫又は鞍馬天狗に化け、私を欺きました」
「琥珀に悪気はない。ただ俺を助けようとしただけだ」
天翔丸は頭を深く下げて、真摯に、誠意をこめて頼んだ。
「頼む。琥珀を返してくれ」
「いいですよ」
半海はさらりと返答した。
「鞍馬天狗のご要望とあらば、謹んでお返しいたしましょう。ただしーー私はあなたにお聞きしたいことがあります。猫又をお返しするのは、私の質問にすべてお答えいただいた後で」
やっぱりな、と天翔丸は内心で息をついた。頼むだけですむならわざわざ淵の底まで来たりしない。
半海の要望は、鞍馬天狗との問答。
「わかった」
天翔丸は言いながら心を身構える。
「何でも訊いてくれ」
半海はうなずき、鞍馬天狗への質問をはじめた。
「鞍馬天狗、あなたの御歳は?」
どんなことを訊かれるのかと思いきや。
予想外の第一問に拍子抜けしつつ、天翔丸は答えた。
「十四だ」
半海が低い声でうなるようにつぶやいた。
「『十四』……」
「不満か? 俺の歳が」
「いいえ。そのようなことはありません」
「不満げに聞こえたけどな。鞍馬天狗が子供かよって」
「年齢で相手を判断するなど、愚かしいことです」
不満げだと言われたことが不満そうに、半海は言い返してきた。
「年齢など、生きた年の数にすぎません。経験や知識の差はあるでしょうが、それはこれから積んでいけばいいだけのこと。歳若い主でも、主たる使命を果たし、善く山を治めれば優れた主でありましょう。姿形も同様です。守護天狗に翼があるかなしかなど些細な事、主の真価をはかる材料にはなり得ない」
へえ、と天翔丸は半海をまじまじと見た。
天狗のことを知っていながら翼のないことを些細と言い放つところが、陽炎と通ずるものがある。年齢や姿形で差別しない、こういう公平な見方は嫌いではない。
「私が不満なのはあなたの年齢ではなく、十四歳のあなたが、なぜ降山に十五年もかかったのかということです。なぜもっと早く鞍馬山に降りなかったのですか?」
そういうことか、と半海の不満を天翔丸は得心した。それは影立杉で陽炎に問われた問いであったから、心構えができている。
「俺は都で生まれて、ずっと人間として暮らしていた。鞍馬山のことも、天狗という生物がいることも、知らなかった。知ったのはつい三ヶ月前だ」
「『知らなかった』……」
「ああ。竜王淵のこともだ。緑水やおまえたちのこと、天紅卵のこと、俺は何も知らなかった」
天翔丸は本当のことを正直に答えた。
偽りなく、ありのままの事実を話す。それが誠意であると思ったから。
「『知らなかった』……『知らなかった』……ーー」
天翔丸の返答を、半海はつぶやき反復した。
まるで言質をとるように。
誠意を伝えるつもりで言った言葉が、逆にそれで責められているような気がして、天翔丸は口をつぐんだ。
「天狗には護山の本能があるとか。護山を離れても、本能で山へ帰りたいと思うものだと聞きましたが……あなたはそうではないのですか? 都にいて、鞍馬山へ帰りたいとは思わなかったのですか?」
「そう思ったことはないな。そういう本能は、俺にはないみたいだ」
「護山の本能がないーーそのあなたが、なぜ鞍馬天狗になられたのですか?」
根本的なことを問われて、天翔丸は返答に窮した。
この三ヶ月の間に、さまざまな出来事があって、さまざまな思いを経て、鞍馬天狗になるに至った。
なぜと言われても、一言ではとても説明できない。
鞍馬天狗になると決意はしたものの、なって何をすべきかよくわからず、立ち止まったまま。流れに流されて、いわば成り行きで鞍馬山へ来たというのが正直なところだ。しかしさすがにそれをそのまま言うのははばかられて、天翔丸はしばし考えた末に答えた。
「鞍馬天狗になることが、俺の宿命だと言われたからだ」
「言われたから、なったのですか? あなたのご意志で鞍馬天狗になったのではないのですか?」
「いや、俺の意志だ。なると決めたのは俺だから」
「もし鞍馬天狗になる宿命だと言われなければ、主にならなかったのですか? もし言われなければ、鞍馬山へ降りない可能性もあったのですか?」
うつむき黙りこんでいると、追いこむように半海は迫ってきた。
「お答えを、鞍馬天狗」
「……それを聞いて、どうするんだ?」
天翔丸は半海を見据えて問い返した。
「もしもとか、可能性とか、そんなことを訊いて、何の意味があるんだ?」
「新たな鞍馬天狗がどのようなお考えをお持ちか、あなたを知る手がかりになるかと」
「こんな問答で、俺がわかるとは思えねえけどな」
半海とは初めての対話であるから、鞍馬天狗に聞きたいこともあるだろうし、知りたいこともあるのだろう。
だが先ほどから交わしている問答が、無為に時を費やすだけの不毛なもののような気がした。ましてや仮定のことを問われても。
琥珀を早く助けたいのにそれを妨げられているようで、天翔丸は問答を断ち切るように言い切った。
「もしもなんて現実に起こってないことを訊かれても、答えられない。どうするかなんて、そのときになってみないとわからない」
「『わからない』……」
半海はつぶやき、しばし間をおいて言った。
「……わかりました」
本当に納得したのかどうなのか、半海の表情からは読みとれなかった。
わかったと言うのならこれで問答は終わりかと期待したが、半海の質問はなおも続いた。
「では、あなたはなぜ、我々に七星を渡したのですか?」
半海が指先をくいっと動かすと、淵の奥から一つの泡が近づいてきて、その中に七星があるのが見えた。
「これは唯一無二の神器であり、鞍馬天狗の命に等しいもの。それを投げ渡すなどあるまじきことです。あなたはご自分が何をしたのか、わかっているのですか?」
天翔丸は眉をひそめた。
「そっちが渡せって言ったんじゃないか」
「渡せと言われたから渡したーーならばあなたは、命を渡せと言われたら渡すおつもりですか?」
「それは話が違うだろ」
「いいえ、同じことです。命同然の七星を投げ出すようでは何も護れません。あなたは、ご自分の立場と果たすべき使命を本当にわかっておいでなのですか?」
天翔丸はだんだんいらついてきた。
問われたことには正直に答えようと思っていたが、それが苦痛になってきた。どう答えても半海が満足するとは思えないし、それで何かを解決できるとも思えないーーこの問答は不毛すぎる。
(こいつ、俺にいったい何を訊きたいんだ?)
ただ鞍馬天狗を非難したいだけのようにも思える。
こうしている間にも琥珀ははらはらと涙を流している。すぐ近くにいるのに何もしてやれないことに焦り、終わりの見えない不毛な問答に腹が立ってきた。
「呼吸を妨げられる水中にむやみに飛びこむことも、無謀と言わざるをえません。そのようなありさまで、これからどう鞍馬山を守っていくおつもりですか?」
「ここに来ないと、おまえと話し合いができないから来たんだろうが!」
声を荒げると、それを止めるように背後から陽炎が袖を引っぱってきた。
その手をふりはらって、天翔丸は半海に凄んだ。
「おまえ、本当に琥珀を返す気があるのか?」
「むろん約束は守ります。返すと言った以上、必ずお返しします」
「じゃあ、早く返せよ!」
「いいえ。まだ問答は終わっておりません。肝心なことが、まだ聞けておりません」
「だったら、その肝心なことをさっさと訊け!」
怒鳴りつけてもびくともせずに、半海は問いつづけてくる。
「あの猫又はあなたの眷属ではないそうですね。なぜ眷属でもないものを救おうとするのですか? あなたが護るべきは鞍馬山でしょう」
「琥珀を見捨てられるか」
「護山よりも、猫又一匹の命を優先させるのですか?」
「俺は、琥珀を助けたいだけだ!」
「私は、父を助けたいだけです!」
互いを見る視線が尖り、半海の声が次第に熱くなってきた。
「あなたがもっと早く降山すれば……この世に生誕してすぐに鞍馬山に降りれば、父は寿命を縮めることはなかった!」
「だから、そんなこと言われたって俺にはどうしようもなかったんだよ! 恨むんなら、死毒を出す鞍馬山を恨めよ!」
「あなたの山でしょう? 責任はあなたにある!」
「知らねえよ! いきなり連れて来られて山を護れって言われたって、何をどうしたらいいか、わかるわけないだろ!」
「わからない、わからない、あなたはそればかりだ。わからないのに、なぜ鞍馬天狗になったのですか?」
「そうするしか道がなかったんだよ!」
「他に道があれば、そちらを選ぶのですか?」
「いまよりましな道があれば、誰だってそうするだろ」
「あなたには鞍馬山を護ろうという意志はないのですか?」
「そう言うおまえはどうなんだよ? おまえの父親を苦しめてきた山を俺に護ってほしいと、本気で思ってんのか?」
半海が一瞬口をつぐみ、天翔丸は勢いのままに鬱憤をぶつけた。
「おまえらみんな俺のせいだって責めるけど、悪いのは本当に俺なのか? すべての元凶は鞍馬山なんじゃねえのか? こんな不気味で不吉な山を、なんで護らなきゃならないんだ?」
「それが、鞍馬天狗の宿命でしょう」
「宿命だから、納得できないこともやれっていうのか? 俺はそんなのごめんだ! 棲んでるものたちを苦しめる山なんて、本当に護る価値があるのか? いっそ滅んじまった方がましなんじゃーー!」
ザザザザアアアァァァ……!
周囲の渦の動きが速くなり、空洞の気温が一気に下がった。
「それが……本心ですか」
半海の低いうなり声に、天翔丸はぎくりとした。
「山を護るどころか、滅亡を願う……それがあなたの本音ですか」
そう言われて、自分がとりかえしのつかない失言をしてしまったことに気がついた。決して半海に言ってはならないと陽炎から忠告されていた言葉が、勢いでこぼれ出てしまった。
(これが半海の目的か)
半海が訊きたかったのは、鞍馬天狗の本音。
ゴゴゴォォォ……!
荒ぶる半海の感情に呼応するように、水の動きも激しく乱れ、水の壁が大きくゆがむ。
水尾があわてて妖力を発し、いまにも押し寄せてきそうな周囲の水を押さえながら言った。
「半海様、いけません! 鞍馬天狗との対話がかなったら、鞍馬の眷属になるとのお約束だったはず! それ以上のことをしてはなりません! 鞍馬天狗を害しては、竜王淵にまた死毒が!」
「そんなことは、わかっている!!」
半海は悲鳴のような怒鳴り声をあげた。
「鞍馬天狗に逆らうことは許されぬ……反論も許されぬ……だから、黙って仕えろというのだろう? どんな主だろうと、無惨に死する父上のことを忘れ、何事もなかったことにして……!」
「仕方がないのです! それが、竜王淵の主となるものの宿命です!」
周囲で水が嵐のようにうねっている。
音をたてて激しく波立ち、惑い、揺れ、渦巻いている。
「半海様、どうか……どうか我ら一族を護るために! お願いします!」
頭をさげて懇願する水尾にならって、水中にいる魚たちが半海にむかって頭をたれる。
半海は苦渋に顔をゆがめ、呼吸を荒くしながら、血走った目で天翔丸を見た。
「鞍馬天狗……護山を護る気のないあなたに、山の主たる資格があるとは思えません。ですがーー私も同じです。私には父の無念を忘れることなどできない、納得できないことには従えない……竜王淵の主の宿命を受け入れられぬ愚かな私にも、主たる資格はないっ!」
半海が両手で顔を覆って泣き叫ぶように言った瞬間、水しぶきが豪雨のように降りかかってきた。
天翔丸への水の直撃は黒衣によってふせがれる。陽炎は全身で鞍馬天狗を護ろうとしたが、水を防ぎきることはできず、天翔丸の髪も衣も冷水で重くぬれた。
同じように水を浴びた水尾が驚いて呼びかけた。
「は、半海様!? どうなさったのですか!?」
半海は苦しげに身悶えながら、息絶え絶えに命令を発した。
「水尾……! 皆の総力をもって、鞍馬天狗を地上へ帰せ! 急げ!」
「は、はい! みーー」
だが水尾の声は、途中で水にのまれてかき消された。
渦の空間に大量の水が流れこんできた。水壁のあちこちが激しく波立ち、流れは乱れに乱れ、半海も水尾もなだれこんできた水にのまれて姿が見えなくなり、空間には天翔丸と陽炎のみが残された。
ザザザァアァ……ワアアア……ウオオオ……!
荒れ狂う水音は、まるで慟哭のように聞こえる。
広かった空洞がどんどん狭まってきた。
「な、なんだ……どうなってんだ!?」
天翔丸が黒衣にしがみつきながら問うと、陽炎はその身を抱えこむようにしながら答えた。
「ここは半海の妖力で形成されていた空間です。半海の精神に乱れが生じたことによって妖力が制御できなくなり、空間が崩れはじめています。半海も従者たちもここを保持しようとしていますがーーこのままでは」
嵐のように荒れ狂う流れに、泳げるはずの岩魚たちまでも流され、翻弄されている。
なわばり内でもっとも強い力をもつものが主ならば、半海は代理などではなく、すでにこの淵の主だ。従者たちの総力をもってしても、その力を抑えられない。
そうしている間にも、制御をなくした水が空間に流れこんできて、足元から水がせりあがってきた。陽炎が天翔丸を抱えあげ、せまる冷水から護ろうとするが、できるのはそれくらいだった。
ここは深淵の底。どこにも逃げ場はない。
天翔丸は寒さにふるえながら、黒衣をにぎりしめてつぶやいた。
「……ごめん……!」
この事態を招いたのは自分だ。
自分が半海を説得すると大見得をきっておきながら、あげく、説得は大失敗に終わってしまった。
合わせる顔がなく目も合わせられずにいると、陽炎の声が静かに耳に入ってきた。
「本気で語り合えば合うほど、本音は隠しきれるものではありません。あなたが鞍馬山を護ることに疑問を持っているのは、致し方のない事実……やむを得ません」
叱咤されてもののしられてもしょうがないと思っていたが、陽炎は責めてはこなかった。
「反省は後で。いまは、この窮地から脱する方法を」
天翔丸は落ちこむ気持ちをぐっともちあげ、顔をあげてあたりを見回した。
上下前後左右、すべて水で覆われている。
ここから脱する方法を懸命に考えたが、良案は何も思い浮かばなかった。
陽炎からも策は出てこない。
水中では地上の生物になす術はないーー陽炎や水尾から言われた言葉が脳裏をよぎり、絶望にのみこまれそうになる。だがのみこまれないよう、天翔丸は必死に考えつづけた。
空間がさらに縮まり足元からの水は増えつづける。陽炎の胸元まで水位があがってきて、天翔丸の身体も水に浸かった。
呼吸ができる空間はあとわずかしか残されていない。二人は動くこともままならなくなり、流水に離されないよう、互いにしがみつくしかなかった。
陽炎が切羽詰まった声で言った。
「何かできる可能性があるとすれば、七星しか……!」
「七星!」
天翔丸は七星のあった方に目を向けた。
しかし水泡の中にあった七星は、もうそこにはなかった。
流されてしまったのか、沈んでしまったのか、わからない。
それでも一縷の望みをかけて、天翔丸は周囲を渦巻く激流に視線を走らせて七星を探した。
ドォォォン……!
空洞の壁が大きく崩れ、大量の水が轟音をたてて押し寄せてきた。
怒濤は残っていた空間を消し、天翔丸と陽炎はともども水中にのみこまれた。
のみこまれる寸前に天翔丸は大きく息を吸って呼吸を止めた、そのときだった。
ふいに声が聞こえた。
ーー滅ぼせ……。
声は耳にではなく、頭の中に直接響いてきた。
聞き覚えがある。前に一度聞いたことがある。この声はーー
(七星)
ーー滅ぼせ……滅ぼせ……。
天翔丸は声の方へ目をむけた。その姿は目では見えない。だが気配を感じた。
七星がそちらに、いる。
ーー滅ぼせ……滅ぼせ……滅ぼせ……。
剣はひたすら同じ言葉をくりかえしている。
(何を?)
頭に浮かんだ疑問に、七星の声が答えた。
ーー過ちを。
問いかけたつもりなどなかったのに返答がきて、天翔丸は驚いた。
しかし『過ちを滅ぼせ』とは、いったいどういうことなのだろう?
そう思ったら、それにも七星が答えた。
ーー後悔していることを、正すのだ。
剣と会話していることにも驚いたが、それ以上に驚いたのはこの状況だった。まったく泳げない自分が、会話ができるほど水中で息がつづくはずがない。
周囲に目をやると、すべてが止まっていた。
激しく渦巻く水も、それに流される岩魚たちも、細かい水泡の一つ一つまでも、凍りついたように止まっていた。音もまったくない。まるで時が止まってしまったかのような摩訶不思議な光景だった。
その中で、自分の思考は動き、意識に七星の声のみが響いてくる。
ーーこの状況は、おまえが望んだものではない。ならば、それを変えればいい。こうなるに至った原因を滅ぼしの力で消し滅ぼすのだ。さすれば忌まわしいこの状況はおまえが望む状況へと正され、過ちは消え、おのずと後悔も消え失せる。
その声は、神の啓示のように聞こえた。
自分の至らなさが招いたこの最悪の状況。変えられるものならば、変えてしまいたい。
(変えられる方法があるのか? どうすればいいんだ?)
請うように問いかけると、七星は低い声でささやくように答えた。
ーー竜王淵を、消し滅ぼせ。
(……え?)
天翔丸は耳を疑い、思わず聞き返した。
ーーおまえがいま命の危険にさらされている原因は、竜王淵にある。この淵のものたちが身の程をわきまえず歯向かってきたからだ。従わぬものは消せ。棲んでいる生物もろとも、竜王淵を消し滅ぼせ。
(そ……そんなこと、できるわけがーー!)
ーー鞍馬天狗ならばできる。滅ぼしの力で滅ぼせぬものはない。
天翔丸は絶句した。
この絶体絶命の危機から脱する方法があった。竜王淵を消し滅ぼす……そんな神業のような方法があることに驚き、それを自分ができるということに強い衝撃を受けて、思考が真っ白になる。
ーー滅ぼせ。それでおまえは生きのびる。すべてが解決する。
(でも……!)
確かにそれで自分は生きのびることができるかもしれないが。
その先の思考を阻むように、七星が決断をせまってきた。
ーー他に方法はない。生きるために、竜王淵を滅ぼせ。
視界に黒いものがはいってきた。七星のいる方向から闇が発生し、それがまるで幾本もの長い手のようにのびてきて蒼い水中を進んでくる。
ーー来い、新たな鞍馬天狗よ。我を手にとり、すべてを滅ぼせ。
闇の手がぬわっと迫ってきた。
闇が髪にふれ、足にふれてくる。ふれられたところがぞくりとし、身の毛がよだつような悪寒がした。闇はひたりとはりつき、天翔丸を七星の方へ引っぱっていこうとする。が、それを阻むものがあった。
天翔丸の身を包んでいる、陽炎だった。
水中に完全に没した瞬間、渦巻く激流から、死から鞍馬天狗を護るために、身を盾にして抱いていた。その盾に阻まれて、闇は天翔丸の一部にふれるだけで連れていくことはできない。
すると闇は陽炎の身にはりつき、その腕をほどきはじめた。闇の力になすすべなく、陽炎は天翔丸から引きはがされた。
(陽炎!)
闇は陽炎を鞍馬天狗から取り除くと、水底へと遺棄するように手を放す。そして七星が蔑むように言った。
ーー失せよ。
瞬間、天翔丸の中にあったとまどいや動揺が吹き飛んだ。
(失せるのは、そっちだ!)
強い意志が神通力の光となって輝き、まとわりつく闇の手を溶かす。
天翔丸は手をのばして黒衣をつかみ、陽炎を両腕で引き寄せて、七星に凄んだ。
(勝手なことすんじゃねえよ、七星)
ーーこの窮地において、この者は無力だ。おまえを護ることはできない。
(だったら、なんだ?)
ーーおまえの問いに答えず、おまえの命令に従わない。おまえはこの者に日々いらだち、不満を感じている。もはや不要だ。
(おまえにそんなことを言われる筋合いはねえ)
不要とされた陽炎を両腕でしっかりとつかみながら、天翔丸は自分の心の揺れが治まっていくのを感じた。七星の言葉を聞いているうちに、自分のとるべき道が定まっていく。
陽炎はこんな窮地に引きずりこんでしまった愚かな主を見放すことなく、自分の命を顧みず護ろうとしてくれた。拒絶されるといらだつし、これからどう接していけばいいのか皆目わからない。
だが、確かにわかることが一つだけある。
どんな状況に陥ろうと、陽炎を切り捨てる選択など、自分にはありえない。
ならば半海や竜王淵への対応も、おのずと答えが出る。
(竜王淵を滅ぼしたって、何の解決にもならない! そんなことしたって俺の過ちは消せないし、後悔も消えない!)
ーーならば、どうする? この窮地からどう逃れる?
(もう一度、半海と話す!)
いま命の危険にさらされている原因は半海にあるのかもしれないが、一方で、苦しみながらも鞍馬天狗を地上へ帰そうとした。
その悲嘆と苦悩に満ちた本音を聞いて、話したいことが出てきた。それをどうにかして伝えたい。
(半海を説得できれば、淵の荒れは治まるはずだ!)
しかし七星はその決意を嘲笑うように言った。
ーー説得など無意味だ。竜王淵を滅ぼせ……それでおまえは助かり、すべてが解決する。
天翔丸は七星の方をにらみすえ、ゆるぎない決意を明言した。
(俺は、滅ぼさない)
ーー鞍馬天狗が持つは滅ぼしの力のみ。滅ぼすのが鞍馬天狗の宿命だ。
(関係ない。俺がどうするか、決めるのは俺だ。おまえじゃない)
ーー我なくば、おまえは死ぬ。
(俺がいなきゃ、おまえはただの鈍だ。いくら最強の剣でも、鞍馬天狗の神通力がなければ何も斬れない。そうだろ?)
七星のうなり声がかすかに聞こえた。
(俺も相当まずい状況だけど、七星、おまえもそうなんじゃねえか? 俺が死ねば、おまえを使える者はいなくなる。もう鞍馬山に天狗は生まれない。代わりはいない、俺が最後の鞍馬天狗だ!)
七星はもう言い返してはこなかった。まぎれもない事実に口をつぐむしかない。
(俺が必要なら、来い)
天翔丸は片腕で陽炎を抱き、もう片方の手を七星の方へまっすぐのばした。
そして神通力で両眼を黄金に輝かせながら、力強く命じた。
(来い、七星!!)
その命令に応えて、淵の底に沈んでいた七星が浮き上がる。水中を突き進み手元へときた剣の柄を、天翔丸は力強く握りしめた。