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8/16

      八

 天翔丸は陽炎の後についていきながら、道中、無言で山を下った。

 やがて水音が聞こえてきて、鞍馬川が見えてきた。

 山裾を這うように流れる川の中途に切り立った崖があり、勢いよく落ちる水が滝となって滝壺へと流れこんでいる。

 陽炎はその滝壺を示して言った。

「ここが竜王淵です」

 天翔丸は目を見開き、息をのんだ。

 鞍馬山は闇が濃く、特にこんな真夜中には出歩きたくないような不穏で不吉な印象しかない。それはこの山の主となり、夜目が開眼したいまも変わらない。

 しかし、ここはまるで様子が違った。ここも鞍馬天狗のなわばりだと陽炎は言っていたが、鞍馬山とはまるっきり印象が異なる。

(鞍馬山にこんな場所があったのか)

 滝から流れ落ちる水がしぶきをあげて、水滴の一つ一つが月光を受けて星のようにきらめいている。まるで天の星々が降りてきて、淵で遊んでいるかのようだ。

 山中よりも寒さが一段増して骨まで凍えそうだが、なぜか身が洗われるような心地よさがある。

 穢れのない清らかな浄域に、天翔丸は感動を覚えた。

(きれいだ)

 竜が気に入ったという昔話もうなずける。

 天翔丸は淵のきわに立ち、覗きこんでみた。

 だが闇を見通せる夜目でも深淵の底は見えない。

 目をこらしていると、陽炎が傍らに立って言った。

「交渉相手は半海となるでしょうが、何事もその場の主の許可を得るのが礼儀です。まずは緑水との話し合いを申し入れるべきかと。それでよろしいですか?」

 その言葉で現実に引き戻された。ここへは物見に来たわけではない。

 天翔丸は深呼吸をし、気持ちを引き締めて言った。

「ああ」

 陽炎はうなずき、川面にむかって大声で呼びかけた。

「竜王淵に棲むものたちよ! 鞍馬天狗がそちらの主との対話を望み、山を下りてきた! 誰か、とりつぎを!」

 響きわたる声の余韻が水音に吸いこまれるように消えたとき、水面が波立ちはじめた。波はだんだん大きくなっていき、波間にはざわざわと行き交う魚影が見えた。水中から無数の視線を感じる。魚たちが皆、こちらをうかがっているのがわかった。

 しばし時がたった頃、水面が大きく盛り上がり、水中から生じた水泡から半人半魚の男が現れた。半海とは違う、黒光りした鱗の魚人が水上に立ち、こちらにむかって深々と一礼した。

「私は水尾(みずお)と申します。竜王淵の主の従者をつとめている者にございます。鞍馬天狗が下山しておいでとか。どちらに御座(おわ)す」

 ぎょろりとした魚眼がこちらを見据えてくる。物言いは丁重で静かだが、その声色にも眼光にも半海と同じく気迫のようなものを感じる。この従者もまた、何か強い覚悟をもって現れたのがわかる。

 急に緊張が高まってきた。

 何から言えばいいのか惑っていると、陽炎が小声で耳打ちしてきた。

「まず名乗りを」

 天翔丸はうなずき、首にかけていた水晶の連珠を外した。そして大きく深呼吸をして、声をはって名乗った。

「俺の名は天翔丸。俺が、鞍馬天狗だ」

 水尾は丸い目を大きく見開いた。

「あなたがーー!」

 魚影がせわしなく動いて水面が波立ち、淵全体が大きく揺れ動く。

 水尾がとまどいをあらわに問いかけてきた。

「あの……失礼ですが、翼は? 翼はどうなさったのですか?」

 そう問われて思い出した。

 いままで鞍馬天狗だと言ってもすんなり納得されたことがない。天狗には必ずあるはずの翼がないせいで、なかなか信じてもらえない。

「俺は生まれつき翼がないんだ」

「なんと……ーー」

 水尾はこちらを凝視しながら絶句した。

 疑われているのかと思い、天翔丸は考えた。どうすれば鞍馬天狗だと信じてもらえるのか。

「七星を使って見せたら、鞍馬天狗だって証明になるか?」

 七星に手をかけようとすると、水尾は即座に首を横に振った。

「いいえ、その必要はありません。あなたから感じる気配は、先代の鞍馬天狗と見紛うほどにそっくりで。なおかつ、あなたの神通力は鞍馬山と同化し、そして腰元の滅ぼしの剣も在るべき場所に収まり鎮まっている。証明など不要です。代々鞍馬天狗にお仕えしてきた我々にはわかります。確かに、あなたは鞍馬天狗であらせられる」

 水晶の連珠を外したことが功を奏したようだ。

 自分では自分の気配とか神通力とかよくわからないが、竜王淵の一族にはそれで鞍馬天狗だとわかるらしい。

 水尾はうやうやしく頭を垂れた。

僭越(せんえつ)ながら、私がご用件をうけたまわらせていただきます」

 天翔丸は心の帯をぎゅっとしめて、本題に入った。

「鞍馬山をのぼってきた水に、琥珀が飲まれて連れ去られた。ここにいるか?」

「琥珀ーー白い猫又のことでしょうか」

「そうだ。無事か?」

「はい。水を飲んで一時は意識を失っておりましたが、いまは目覚めて、淵の底にてお預かりしております」

 琥珀が無事なことに、まずはほっと息をつく。

 天翔丸は努めて冷静に用件をのべた。

「琥珀を返してほしい」

「私は一介の従者にすぎず、それをどうこうできる立場にございません。上のものに言っていただかないと」

「なら、上のものと話をさせてくれ。竜王淵の主、緑水と話せるか?」

「申し訳ありませんが、今宵、我が主は生死の瀬戸際にあります。もはや起き上がることも、話すことも困難な状態でございます。現在、竜王淵の主は、息子の半海様が代理でつとめております。その半海様より、鞍馬天狗へご伝言がございます」

「なんだ?」

「『猫又を地上へ返すには、条件が二つある』と。まず一つは、『鞍馬天狗が竜王淵の底へまいられよ』ーーとのことにございます」

 天翔丸は迷いなくうなずいた。

「わかった。行く」

 水尾は瞠目し、驚いたようにこちらをまじまじと見てきた。

「あの……鞍馬天狗みずから淵の底に来られるのですか? ……本当に?」

「ああ。もともとそのつもりで来た。こっちの話を聞いてもらうんだから、そっちに出向くのが筋だろ?」

 当たり前のことを当たり前に言ったつもりだが。

 なぜか水尾はひどく驚いていて、その驚きがなかなか覚めやらないようだった。

「なんだ? 俺、何か変なこと言ったか?」

「いえ、そうではございませんが……少々驚きまして」

「驚くって、なんで? あーーーーっ!?」

 突然、天翔丸は頭を抱えて叫んだ。

「まずい! 大事なことを忘れてた! 俺、淵へ行けないかも!」

「何か問題でも?」

「大問題だ!」

 天翔丸は真剣な顔で水尾に問題点を告げた。

「俺は、泳げない」

 水尾は丸い目を丸くし、そして次の瞬間、噴き出した。

「し、失礼いたしました」

 笑ったことをわびながら、笑いを抑えきれないのかくつくつと笑う。

 陽炎が咳払いをしながら天翔丸に言った。

「竜王淵は巨大な竜が潜れるほどに深いのです。いくら泳げても、地上の生物が底まで潜ることはできません」

「そうなのか? じゃあどうやって行けばいいんだよ?」

 その疑問には、水尾が笑いをおさめて答えた。

「泳げずともまったく問題はありません。鞍馬天狗が底までお通りできるよう、我らが水をのけて、道を作りますゆえ」

「水の中に道を作る!? そんなことができるのか!?」

「はい」

 天翔丸は感嘆の声をあげた。

「すごいなぁ〜!」

「我らは水の妖怪でありますれば、たやすいことです」

「そっか。なら、俺でも底へ行けるな。よかった」

 ほっと息をつく天翔丸を、水尾は凝視した。真意を探るように。

 天翔丸は話を戻した。

「条件が二つあるって言ったな。もう一つは?」

「もう一つは……」

 水尾は少し口ごもりながら、やがて意を決したように言った。

「恐れながら……竜王淵へおいでになる際には、滅ぼしの剣をこちらで預からせていただきたい」

「それは、できないっ!」

 下がっていた陽炎が前に出てきて、怒鳴るように割りこんできた。

「その条件は飲めない! それだけは、絶対に!」

 激しく抗議する陽炎をとどめて、天翔丸は水尾に返答を告げた。

「わかった。七星を預ける」

「いけません!」

「俺は半海と話し合いに行くんだ。武器は必要ない。そうだろ?」

「七星はただの武器ではありません! 七星は鞍馬天狗の命そのもの、それを他者に手渡すことは命を渡すと同じことなのですよ!?」

「大げさだな。話し合いの間、預けるだけだろ」

「大げさではありません! 事実、先代はーー!」

 陽炎は天翔丸の腕をつかみ、淵から引き離した。

「七星を渡すというのなら、私は竜王淵へ行くのは反対です」

「またそこからか!?」

 話が後退してしまい、天翔丸はげんなりとした。

「俺がいいって言ってんだから、いいじゃないか!」

「いいえ、鞍馬天狗が過ちを犯そうとしているのを見過ごすわけにはいきません。七星を渡して竜王淵へ行くと言うのなら、私は全力をもってそれを阻止します」

 陽炎は強く反対し、断固として引こうとしなかった。

 こんなところでもめている場合ではないのに。

 天翔丸がいらいらしはじめたとき、言い合いを見ていた水尾がぽつりとこぼした。

「……私も、いさめるべきだったのかもしれません」

 天翔丸と陽炎は、同時に水尾に目をやった。

 水尾はうつむきながら、とつとつと語った。

「私は主の従者をつとめながら、半海様を幼少の頃よりお世話してまいりました。半海様は本当に、本当に緑水様をお慕いなさっていて……そのお気持ちをよく知っているので、お父上を救うために天紅卵を要求しに行く半海様を、強く止められませんでした。なんとしても、私が止めなければならなかったのに……止めていれば、こんなことには……ーー」

 その表情にも口調にも、強い後悔と苦渋がにじんでいる。

 うなだれる水尾に、天翔丸は言い放った。

「止めたって、無駄だろ」

 水尾ははっと顔をあげた。

「止められれば止められるほど、絶対に行ってやるって気になる。誰かを助けたいって目的があるならなおさらだ。俺はそう思うから、半海もきっとそうなんだろ。だからーー」

 天翔丸は水尾をいたわるように言った。

「おまえのせいじゃない」

 水尾は大きく息を呑んだ。身震いしてその足元から波紋がおこり、竜王淵の水面に広がっていく。

 天翔丸は陽炎に向き直り、話を戻した。

「というわけでだ、俺は絶対に竜王淵へ行くぞ。おまえがいくら止めても無駄だ。無駄なことはやめろ」

「そうはいきません。竜王淵の底へ行くことは百歩譲ってよしとしましょう。しかし、七星を渡すことだけはなりません」

「しょうがないじゃないか、半海がそういう条件を出してきたんだから! 条件を飲なまきゃ、半海と話せないだろ!」

「話しても無駄です。天紅卵を要求するにとどまらず、こんな条件を出してくるなんて、挑発的で、喧嘩腰で、敬意のかけらもない。半海にはもはや鞍馬天狗に仕える気はないようです。あなたが行っても、まともな話し合いにはならないでしょう」

「そんなの話してみなきゃわからないだろ!」

「とにかく、鞍馬天狗が七星を自ら渡すなんて、絶対にやってはならないことです。ありえないことです」

 二人の言い合いが加熱しはじめたとき、それに水を差すように水尾が叫んだ。

「本当に、ありえない!」

 突然の乱入に、天翔丸も陽炎も驚いてそちらを見る。

 水尾が水面をすべり地面にあがってきて、二人の議論に首を突っこんだ。

「ご眷属、あなたのおっしゃる通りです。『竜王淵の底へ来ること』『七星を渡すこと』、この二つの条件を鞍馬天狗が飲むなど、本来、絶対にありえないことです」

 天翔丸は眉をひそめた。

「あ? なんだよ、そっちが要求してきたくせに」

「ええ、こちらから要求しておきながらこのようなことを申し上げるのは非常にはばかられますが、私はこの条件を、鞍馬天狗は到底承知なされないだろうと思っていました。天紅卵を要求した上、このような条件を並べ立てるなど、不敬も甚だしい。私は鞍馬天狗のお怒りを受け、この身を滅ぼしの剣で斬られるものと……その覚悟をもってここへまいりました」

 天翔丸は驚いて水尾を見た。

 最初から水尾には気迫のようなものを感じていたが、まさか命を投げうつ覚悟だったとは。

「しかし、あなたは迷うことなく条件を飲まれた。半海様と話すために、こんな無体な条件を承諾してくださった。あなたはこれまでの鞍馬天狗とは違う。その言動も、ありようも、まったく類を見ない……まさに、新たな鞍馬天狗」

 水尾の口調が熱を帯び高揚していく。

 天翔丸を見るそのまなざしも熱くなっていく。

「私は私の死をもって、半海様の目を覚ますことができればと思っておりました。ですが、あなたならーー」

 水尾は地に膝をついて、天翔丸に請願した。

「私の身命を賭してお願い申し上げます。鞍馬天狗……ぜひとも、竜王淵の底へおいでください」

 しかしそんな水尾の請願にも、陽炎は主張を曲げようとしなかった。天翔丸を竜王淵から引き離すようにして背に隠し、双方の交渉を阻んで水尾を突っぱねた。

「七星は渡せない。その条件だけは、絶対に飲めない」

 水尾は陽炎と正面を切り、真っ向から挑むように話しかけた。

「確かに、これは鞍馬天狗にとってかなりの危険を伴うことであり、通常であれば到底飲めない条件でしょう。なにせ、条件を出された半海様ご自身でさえ、この条件を鞍馬天狗が飲まれるとはまったく想定しておりません。だからこそ、やる価値があるーーそう思われませんか?」

 陽炎は鋭い眼光で水尾を見返した。

「危険を(おか)すには、それに見合うだけのものがなければやる価値はない。何のために、鞍馬天狗に命を賭けろと言うのだ?」

「そんなの、琥珀を助けるために決まってるだろ!」

 天翔丸の主張を、陽炎は一蹴した。

「鞍馬天狗の命と猫又の命、天秤にかけるまでもありません。あなたが危険を冒す価値はない」

 陽炎の断言をはねのけるように、水尾が力強く言い放った。

「我ら竜王淵の一族を、鞍馬の眷属にするためにです!」

 一瞬、陽炎が息をのんでその言葉が途切れる。

 水尾は、陽炎の背後から顔をのぞかせていた天翔丸に鋭い魚眼をむけて述べた。

「鞍馬天狗、もし我ら一族を眷属として欲していただけるのなら、我らの(ふところ)へ……この竜王淵へ、飛びこんできていただきたい」

 陽炎は背から出ようとする天翔丸の腕をつかんでそれを阻み、水尾と相対した。

「眷属を得るために、呼吸さえままならない水中へ丸腰で飛びこめというのか」

「その価値はあるかと。我ら一族は代々鞍馬の眷属となり、忠誠を尽くしてまいりました。鞍馬天狗の御為に何をすべきかわかっております。必ずお役に立てるものと自負しております」

「おまえたち一族が再び鞍馬の眷属となるかどうか、その決定権は次代の主である半海にあるはずだ。従者のおまえの言葉では意味がない。半海の言動からは、敵意しか感じられない」

「確かに。半海様は以前より、鞍馬天狗に対し反感を抱いておられます。鞍馬天狗と我々の関係を眷属ではなく隷属だと憂い、加えて十五年という鞍馬天狗不在の期間が、不信感を強固なものにしました。このまま本心を押し殺し、慣例として主従の契りをかわしたところで、その関係はいずれ破綻します。半海様の忠誠心を呼び起こすために、ここは鞍馬天狗に行動を起こしていただく必要があります。鞍馬山と竜王淵の未来のために」

「それはそちらの事情だろう。そちらの内紛のために、鞍馬天狗に危険を負えというのか」

「恐れながら、この事態を招いた原因はそちらにもあるでしょう。鞍馬天狗の代替わりに十五年もかかったために、我らの主が寿命を縮めました。この多大な犠牲に対し、鞍馬天狗もそれ相応の誠意と覚悟をもって我々に相対していただきたい」

「眷属は、守護天狗の命を護るためのものだ。その眷属のために守護天狗が命を賭けるなど、本末転倒だ」

「ーーあなた、それでも鞍馬の眷属ですか?」

 水尾は不審をあらわに鋭い目で陽炎を見据えた。

「守護天狗にとって、眷属はなくてはならないものです。眷属が主を護るために命を賭けるように、主も眷属を己の命のように大切にする。主従といえど、その関係は対等であるべきです。眷属を軽んじるその発言、聞き捨てなりません」

「軽んじているわけではない。もう鞍馬天狗の代わりはいない、何があろうと護らなければならないと言っているのだ」

「ならば、なおさら眷属が必要ではありませんか。守護天狗は群を形成するために、ふつうは積極的に眷属の数を増やそうとするはず。それには時に危険を伴うこともあるでしょう。なのにあなたは、鞍馬天狗に眷属ができるのを阻もうとなさっている」

 陽炎が声を荒げた。

「そのようなことはない!」

「そうでしょうか? ではなぜ、鞍馬天狗をそのように背に隠されるのです?」

「むろん、鞍馬天狗の御身を護るためだ」

「御身を護るのは大切な役目ですが、それはあくまで主の意志にそって行われるべきことです。ですがあなたは、七星を渡して竜王淵に来るという鞍馬天狗のご英断を頭から否定なさる。私は鞍馬天狗とお話ししたいのに、厚かましく割りこんでしゃしゃり出てくる。あなたのそのなさりよう、まるで鞍馬天狗が飛び立とうとするのを阻んで鳥籠にでも押しこめるかのようだ」

 陽炎は言い詰まり、けれど強く言い返した。

「違う!!」

「真の眷属ならば、主の飛翔を阻むようなことはしないはず。あなた、本当に鞍馬の眷属なのですか?」

 水尾の厳しい追及に呼応するように、水面がざわざわと波立っている。

 その水音にかき消されそうな声で、陽炎は答えた。

「……私は、鞍馬の眷属ではない」

 その返答に、水尾が目をむいた。

「眷属ではない? 眷属ではないものが、なぜ鞍馬天狗のおそばに侍っているのです? 何の権利があって鞍馬天狗の行動を制限し、図々しく意見しているのですか? 眷属ではないものが眷属のような顔をして、鞍馬天狗の御身にそのように慣れ慣れしくふれるとはーー!」

 そそり立った水が刃のようになり、その切っ先を陽炎に向けて、水尾は敵意をあらわに凄んだ。

「おまえは何者だ?」

 天翔丸は陽炎の背を見つめた。

 陽炎は答えず、その表情は見えず、何を考えているのかわからない。

 ただ、強く腕をつかんでくる。その手はこわばり、かすかに震えている。

「鞍馬天狗、その者からお離れください」

 水尾が水の刃を尖らせながら警告してきた。

「その者は、あなたの主権をおびやかしています。鞍馬天狗の威を借りて何かをたくらんでいるやもしれません。このような胡乱者(うろんもの)をおそばに置くのは危険です」

「危険……?」

 言いながら、天翔丸は陽炎の手に触れた。

 こわばっていた手がびくっとして離れる。

 天翔丸は前に踏み出し、陽炎を背にかばうようにして水尾と相対した。

「こいつの何が危険だって言うんだ?」

「得体の知れない者をそばに置くほど危険なことはありません。このままではあなたの御為になりません」

「俺のためってなんだ? 会ったばかりのおまえが、何が俺のためになるかどうしてわかるんだ? おまえに、俺や陽炎のいったい何がわかるって言うんだ?」

 元は鞍馬の眷属だった水尾は、その経験から忠告しているのだろう。

 だがその忠告に、天翔丸はいらだちを抑えられなかった。陽炎へのいらだちとは違う、心底から突き上げてくるような強い怒り。

 これまで、陽炎がどれほど鞍馬天狗を護ってきたか知らないくせに。

 眷属ではないというだけで危険だと決めつけ、無下に鞍馬天狗から引き離そうとすることに、腹が立って腹が立って仕方がなかった。

「知らないくせに……陽炎のことを何も知らないくせに、勝手なことを言うな」

「あなたはご存知なのですか? その者は何者で、何が目的であなたのおそばにいるのか」

 天翔丸はその問いを打ち払うように言い放った。

「知るか。訊いても、こいつは自分のことを何も言わないからな」

「なんと……この者は、あなたにも素性を明かさずに、おそばにのうのうとのさばっているのですか。それがわかっていながら対処しないあなたもあなただ。いけません、一刻も早く追い払われるべきです」

「なんでおまえにそんなこと言われなきゃならないんだ? 確かにこいつは俺のやることに文句ばっか言ってくるし、腹が立つし頭にくるけど、言いたいことを言ってるだけじゃねえか。それでなんで追い払えって話になるんだ?」

「あなたのご意志を無視し、主権を奪って偉そうに指図しているではありませんか」

「指図してるのはおまえだろ。眷属じゃないから追い払え、それは指図じゃねえのか?」

「私はご忠告をしているのです。守護天狗がそばに侍らせるのは主従の契約をかわした眷属のみ、それが常識でしょう」

「知らねーな。俺は鞍馬天狗になったばかりだからな、何が常識なのか、さっぱりわかんねーわ」

 天翔丸は挑発的に、喧嘩腰で言い放った。

 ざわざわと波立つ水音と険悪な空気があたりに張りつめる。

 水尾は剣呑(けんのん)をあらわに天翔丸を見据えた。

「新たな鞍馬天狗はなかなか見所のある御方だと思いましたが……あなたの主としての評価は、見直さなければならないようですね。あれは英断ではなく、たんなる無知からくる無謀ということも」

「言ってろ。おまえにどう思われようが、心底どうでもいいぜ」

「それは私個人に対してのお言葉ですか? それとも我ら竜王淵の一族に対して、どうでもいいとおっしゃられたのですか?」

「好きなようにとれよ。俺は琥珀を助けたい、それだけだ」

「あの猫又は、あなたの眷属なのですか?」

「違う。俺に眷属はいない」

「なるほど、これから眷属を選定していくところなのですね。主と眷属は一蓮托生、主の評価が眷属の評価となり、眷属の評価が主の評価となります。どうかそばに置く者を厳選してください。もし不心得者を眷属にすえるようなことがあれば、あなたの見識が疑われ、鞍馬天狗の名に傷がーー」

 天翔丸は腰元から七星を鞘ごと抜きとり、それを水尾にむかって思いきりぶん投げて、腹の底から怒鳴りつけた。

「ぐだぐだぐだぐだうるせえんだよ! 俺はおまえの説教を聞きに来たんじゃねえ。そっちの要求通り、七星を渡して竜王淵の底へ行ってやるって言ってんだ。さっさと道を開けろっっ!!」

 怒号がびりびりと空気を震わせて、その命令があたりに響いた。

 七星は水流で受け止められ、流されて、水尾の手に渡った。

 稀代の宝剣を投げつけてくるという鞍馬天狗の暴挙に、水尾は驚き、戸惑い、そして不快で顔をこわばらせる。しかしそれらの感情を飲みこんで、命令に応じた。

「……かしこまりました」

 水尾が手を掲げると、水が音をたてて動きだした。

 竜王淵の水面がごうごうと渦巻き、その中心が大きな穴となって、水の中に道が現れた。

「鞍馬天狗、どうぞお入りください。我らの竜王淵へ」

 水尾は天翔丸にはそう言って、その背後にいる陽炎には幾本もの水の刃を向けた。

「おまえはならぬ。下がれ」

 天翔丸は陽炎の腕をつかんで、自分の傍らに引っぱり寄せた。

「こいつは俺の連れだ。一緒に連れていく」

「それは困ります。正体のわからぬ者を、淵へ入れるわけにはいきません」

「そっちの無体な条件を全部飲んでやるんだ、代わりにこっちの条件も飲んでもらう。陽炎を同行させる。この条件は譲れない。絶対に、譲らない」

 強固な意志でその身の底にある神通力がうねり、天翔丸の瞳が金色を帯びた。

 闇の鞍馬山を背にして、主の眼が爛々と光る。

 水尾は低くうなり、水の刃を収めて、渋面で応じた。

「……まあ、いいでしょう。同行者を入れるなとは言われておりませんし、何者だろうと地上の生物ならば、水中ではいかようにもできますから。どうぞ、お二人でおいでください」

 水尾は岩魚の姿となって水中へと身を躍らせて、深く深く潜っていった。一緒に鞍馬の宝剣も淵に沈んで見えなくなった。

 渦の中にある道は、獲物を飲みこもうと大きな口をあけている巨大な魚のようにも見える。

 その奥は暗く、深く、何も見えない。

 天翔丸は黒衣の袖をくんと引いて言った。

「行くぞ」

「……私はここに」

 陽炎はうつむきながら後ずさり、袖をつかんでいる天翔丸の手をほどいた。

「私が同行すれば、あなたの見識が疑われることにーー」

 天翔丸は陽炎の胸ぐらをつかみ、ぐっと顔を寄せた。

 そしてかすかに揺れているその瞳を睨むように見据える。

「鞍馬天狗を護るんだろ。もう代わりはいないから、何があろうと護らなきゃならないんだろ。ついて来ないと護れねえぞ」

「ですが……あなたは、私に『来るな』と」

「俺が来るなと言ったのに、おまえはそれを突っぱねてついて来たんだろうが。俺が何と言おうと同行すると言い切った。俺にそう宣言したんだから、やり通せ。説教臭い魚に難癖つけられたくらいで、引き下がるんじゃねえ」

 天翔丸は念を押すように言った。

「守護天狗には護衛が必要なんだろ? 俺に、眷属はいないんだからな」

 ーーおまえしか。

 それは言葉にはしなかったが、確かに伝わったとわかった。

 陽炎の表情に気迫が満ちていく。

 金の目に照らされて蒼い目に力が宿っていく。

 それを見届けて、天翔丸は突き飛ばすように手を離した。

「ったく……これから話し合わなきゃならない奴の従者に喧嘩を売っちまって、俺の第一印象、最悪じゃねえか。七星も渡しちまったし、状況も最悪だ。最悪だけど、行くしかねえ」

 天翔丸はぶつぶつぼやきながら、水の道を覗きこんだ。

「っつーか、これが道なのか? どう見ても垂直なんだけど。入ったら、底まで落ちるんじゃないか? これ、入って本当に大丈夫なのか?」

「あれこれ考えていてもどうにもなりません。飛びこんでみるしか。行きましょう」

 陽炎は天翔丸を包みこむように抱きこんで、水の道へと飛びこんだ。

「おわ!?」

 天翔丸は黒衣にしがみつきながら、陽炎と共に暗く深く冷たい淵の底へと落ちていった。


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