六
上空から事のなりゆきを眺めていた黒金は、思わず感嘆の声をもらした。
「こりゃ、すげえなァ」
妖怪化した岩魚がこれほど見事に水を操るとは知らなかった。水辺ならばともかく、水場からはるか離れた山中で大量の水を意のままに動かすなど並の妖力ではない。
「もともと岩魚の水をあやつる能力が高いのか、それともあの半海って奴が特別なのか……なかなか興味深い妖怪だぜ」
めずらしい妖怪を見つけると無意識に調査対象として観察してしまうのは、神使だったときの癖である。神の命令に従ってさまざまな妖怪の生態や動向を調査するという役目も負っていたから、妖怪に関しては雲外鏡に劣らず精通していたつもりであったが、世の中にはまだまだ知らないことがあるようだ。
岩魚は山間の川や淵をなわばりとし、そのなわばり内で静かに暮らす温厚な種族だとされているが、水の世界の覇者・竜王の眷属だったとも言われている。温厚ゆえにその真の力を見る機会はめったになく、黒金自身が地上の生物であるため調査もろくにできず、いまだ謎が多い。
「この世は広い。いやァ、深い。ーーって、感心してる場合じゃねえか」
琥珀につづいて鞍馬天狗が、そして鞍馬天狗を追って陽炎が水に飲みこまれた。鞍馬川にむかって流れ下っていく水は上空から見るとまさに巨大な竜のようで、竜の尾のあたりの水中に陽炎の黒衣が見える。
「ったく……まぁた鞍馬天狗を助けるために無茶しやがって」
おそらく陽炎自身は泳ぐことはできるはずだ。昔、鞍馬の眷属になるためにありとあらゆる修練を積んだと、陽炎自身から聞いたことがある。ならば、もしものときの備えとして水練も積んでいるだろうが、しかしいくら泳げたとしても相手が悪すぎる。
陽炎も鞍馬天狗もしょせんは地上の生物。
水中で、水の妖怪にかなうすべはない。
そんなこともわからずに激流にとびこんでいくような莫迦な天狗など放っておけばいいのに。だがそう思う一方で、陽炎が鞍馬天狗を放っておくわけがないということもわかっている。
本当に陽炎は何一つ変わっていない。
腹が立つのは、そんな変わらない陽炎の忠心を、護られている当の天狗がまったくわかっていないことだ。
「ったく、いまいましいぜ。いまいましいがーー」
鞍馬天狗はともかく、友をみすみす水死させるわけにはいかない。
黒金は溜息をつき、翼を大きく広げた。
「しょうがねえなァ!」
ぼやきながら、大きな黒翼でひとあおぎした。その羽ばたきで神通力のこもった強いつむじ風がおこり、水竜の尾をずばっと断ち切った。
岩魚の妖力から切り離された流水はただの水になり、あたりを水浸しにする。
そして水の中からずぶ濡れの陽炎が出てきた。
黒金は飛び寄り、溜息をつきながら、あきれたような感心したような声をかけた。
「よくやるなァ、おめえは」
自分の身さえ危ういあの激流の中で、陽炎は鞍馬天狗をしっかりと両腕で抱きこみ、さらに七星をも手にしていた。呼吸の限界だったのか苦しそうに顔をゆがめ息は荒かったが、そんな状況下でも鞍馬天狗を護っていた。
「でもよォ、わしが助けなけりゃァ、危なかったぜ? ちったぁ自分の身の安全というものを考えろよな」
忠告に耳を傾けることなく、陽炎は意識を失っている鞍馬天狗に大声で呼びかけた。
「ーー天翔丸!」
返事はない。
腕の中で天翔丸はぐったりとし、息をしていなかった。
「天翔丸! 天翔丸っ! 目を開けなさい、天翔丸っっ!!」
いくら大声で呼びかけても、ゆさぶっても、頬をたたいても反応がない。
「翼のない鞍馬天狗がどういう末路をたどるかと思ってたら、たんなる溺死かよ。冴えねえ死に方だなァ」
黒金は冷ややかに言い放ち、そして友を案じて言った。
「陽炎、おめえのせいじゃねえ。こいつがうかつで莫迦で無力だったからだ。自業自得だァ」
呼吸が止まるーーそれは生物の死を意味する。
しかし陽炎は鞍馬天狗の死を認めなかった。
陽炎は天翔丸の口に口づけ、直接息を吹きこんだ。自分の呼吸もそこそこに、何度もくり返し息を送る。
黒金は眉をひそめた。
「おい、よせよ。んなことしても無駄だ。もうそいつはーー」
「天翔丸!……天翔丸!!」
陽炎は何度も呼びかけ、何度も息を吹きこみ、鞍馬天狗の蘇生を試みた。
しばらくそれをくり返していると、天翔丸がぴくりと動いた。そして水を吐き、げほげほと咳こむ。息を吹きかえすと同時に意識も戻り、目を開けてこちらを見た。
「か、陽炎……」
陽炎は脱力し、ようやく自分の呼吸につとめた。
天翔丸は身体をおこし、あたりを見回した。
「……琥珀は?」
すでに激流は見えず、水音も聞こえない。
天狗に化けた琥珀が水竜に飲みこまれる光景が天翔丸の目に焼きついている。濡れそぼった自分の全身から冷たい水滴がぼたぼたと落ち、こんな冷たい水の中にいまも琥珀がいるのだと思うと、いてもたってもいられなくなった。
「琥珀……!」
天翔丸はかじかむ手足を懸命に動かし、地をはうように山を下りようとした。
しかし腕をつかまれてそれを阻まれる。
陽炎が強い力で腕をつかみながら、鋭いまなざしで問いかけてきた。
「どこへ行くつもりですか?」
「決まってるだろ。琥珀を助けにーー」
天翔丸の頬を、陽炎の手が打ちすえた。
容赦ない平手打ちに天翔丸の身体がふっとび、口の中が切れて血の味がひろがる。
「いまさっき、あなたの息が止まりました。溺れて死にかけたのですよ。また同じことをくり返すつもりですか」
天翔丸は血の混じった唾を吐き捨て、陽炎をにらみつけた。
「竜王淵はどこだ?」
「竜王淵は岩魚たちのなわばりです。先ほど見た力はほんの序の口、なわばり内では彼らの力が最大限に発揮されます。水中ではどうやっても彼らに太刀打ちできません。たとえ七星をもってしてもーー」
「んなこと、関係ないっ!」
天翔丸は怒号した。
「琥珀は俺の代わりに連れ去られたんだぞ?! かなわないからって、このまま琥珀を見捨てろって言うのか?!」
「琥珀はあなたを護るために自ら犠牲になったのです。望みがかなって本望でしょう」
「ふざけんなっ!!」
天翔丸は話しても無駄だと判断し、地に落ちていた七星を拾い上げて一人で歩きはじめた。
「待ちなさい!」
行く手に陽炎が立ちはだかり、道を阻む。
天翔丸は七星の切っ先を陽炎にむけて凄んだ。
「どけよ」
「どきません」
「どけえぇぇぇーーーっ!」
天翔丸は神通力で七星を光らせ、本気で斬りかかった。
しかし相手は自分の武術の師。簡単にかわされ、足をはらわれた。
「うぐっ……!」
倒れた瞬間に足をつかまれ、ひねりあげられる。
「どうしても行くというのなら、あなたの足を折ります」
天翔丸は瞠目し、耳を疑った。
「鞍馬天狗に死なれるよりましです」
陽炎の目には迷いもゆらぎもない。その目を見てわかった。これは脅しじゃない。陽炎は鞍馬天狗を行かせないために、本気で足を折るつもりだ。
ひねられた足の骨がきしみ、天翔丸は激痛にもだえた。絶叫しそうなほどの痛みを歯をくいしばってこらえ、地面に爪をたてながらうなった。
「俺は……ただ生きていればいいのか?」
「主の第一のつとめは、生きのびることです。あなたは鞍馬の主になると表明しました。ならばそのつとめを果たすために最善をつくしてください」
「なにがつとめだ……!」
「鞍馬天狗」
「これが、鞍馬天狗なのか?」
天翔丸は牙をむくように陽炎を見据えた。
「おまえ、今まで俺に言ったよな? 鞍馬の主として、『誇り高く』とか、『慈悲の心を忘れるな』とか」
教えられてきたのは武術や戦い方だけではない。
強さを求められると同時に、ことあるごとに主としての精神をも要求されてきた。主とはどうあるべきか、それは当の陽炎から言われてきたことだ。
「自分の命惜しさに琥珀を見捨てるーーそれが山の主なのか?」
口をつぐむ陽炎に、天翔丸は息を荒げながら怒鳴りつけた。
「俺はそんな卑怯な主にはならねえぞ! 絶対に!!」
「主は山の要、たとえ犠牲をはらってでも護らなければならない存在です。それが天狗の世界の常識です。しかもあなたは唯一無二の鞍馬天狗、あなたの代わりはいないのですよ」
天翔丸は吐き捨てるように言った。
「んなの、知ったことか……!」
「知ってください。鞍馬天狗ならばーー」
「なんだろうと!」
主とはなんなのか、天狗の常識とはなんなのか、どうすることが最善なのか、わからないことばかりだ。だが、確かにわかることが一つだけある。
「ここで琥珀を見捨てたら、俺は一生後悔する……!」
誰からとがめられようと。
たとえ助ける方法がなくても。
何もしないで見捨てるなんて、絶対にできない。
「折りたけりゃ、折れよ! それでも俺は行く! おまえがいくら止めても、這ってでも、俺は琥珀を助けに行くからな!」
夜闇の中で、天翔丸の瞳が金色に輝いている。
ゆるがぬ意志をたたえて。
「折れ!!」
陽炎はしばしその目を見つめ、やがてひねり上げていた足から手を離した。
「……彼らを説き伏せることができますか?」
天翔丸は足の痛みをこらえながら、陽炎の提案に耳をむけた。
「先ほども言ったとおり、七星をもってしても、水中では水の妖怪には太刀打ちできません。また半海が欲している天紅卵は鞍馬山にはなく、要求に答えることもできません。琥珀を助けるには、鞍馬天狗であるあなたが半海と話し、竜王淵のものたちすべてを説得するしかありません」
黒金がせせら笑った。
「んなこと、できるわけねえだろ。眷属になりたいと駄々をこねる琥珀ですら説得できねえ。反逆を宣言した八雲にも一方的に言い負かされる。どう考えても、そいつにゃ無理だ」
陽炎は鋭い目を黒金に向けた。
「黒金、口を挟むな」
「事実を述べてんだ。おめえ、そんな奴に付き合ってたら命がいくつあってもーー」
「何度も言っているはずだ。もう、私には関わるな」
ぴしゃりと言われて黒金は口をつぐむ。
陽炎は鞍馬天狗に向き直って問いかけた。
「戦うという選択はなしで、話し合いで解決を。できますか?」
天翔丸はまっすぐ陽炎を見ながらうなずいた。
「わかった。俺が半海と話して、琥珀を返してもらえるように説得する」
陽炎はうなずき、立ち上がる。
「では、影立杉へ。まずは身体を温めてからです」
「そんな時間はない! こうしている間にも琥珀が……!」
「半海の望みはあなたとの対話です。そんな歯の根もあわないほどに震えていて、まともに話せますか?」
たしかに先ほどから濡れた身体が小刻みに震え、声も震えてしまっている。
「でも早く行かないと……!」
琥珀のことが心配でならない。
すると心配を軽減するように、陽炎が言った。
「琥珀が鞍馬天狗ではないことはすでに知られているはずです。当人でないとわかれば、半海は非道なことはしません」
天翔丸は眉をひそめた。
「なんでそんなことがわかるんだよ?」
ひと呼吸ほどの間をおいて、陽炎は答えた。
「……初対面ではないので。昔、半海と一時を共にすごしたことがあります」
天翔丸はおどろいて目をしばたたいた。
「おまえら、知り合いだったのか?」
「知り合いと言えるような間柄では……半海は竜王淵を治めている主の息子、次代の主です。立場で言えば、あなたに近い存在です。私が知り合いなどと軽々しく呼べるような相手ではありません」
「でもお互い知ってるんだろ? なら、知り合いじゃないか。どうしてそう言わなかったんだよ?」
陽炎はうつむきながら答えた。
「半海と接したのはほんのわずかな時期……あちらは私のことを覚えていないようでしたし、私を鞍馬の眷属だと勘違いしていましたから。ともかく、怒りにまかせて琥珀を殺めるような事はないと思います。……あの半海に限って」
最後の言葉はぽつりとこぼれた感じだった。陽炎にしてはめずらしく語勢が弱い。
らしくない言いようだなと思っていたとき、ふと天翔丸は重大なことに気がついた。
ーーあの半海に限って。
相手のことをよく知っていなければ、そんなふうには言えない。
陽炎が、半海のことを信じられるほどによく知っているのならば。
(半海も、陽炎のことをよく知ってるのか?)
二人が共にすごしたという時がいつなのかはわからないが、少なくともその時の陽炎を半海は知っているということになる。
もしかしたら陽炎の過去をーー陽炎の正体を知っているのかもしれない。
天翔丸の胸がどくんと波を打った。
陽炎はいつものように無表情無感情な青い瞳をこちらにむけて言った。
「半海を説得するのであれば、彼らの事情を知らなければ話にならないでしょう。私が知るかぎりのことを話しますので、影立杉で身体を温めながら聞いてください。竜王淵に棲む一族のことを」
影立杉へとむかう天翔丸と陽炎を見送りながら、黒金は苦々しい顔でつぶやいた。
「関わるな……か。ほっといたらおめえが死んじまうじゃねーか」
だから放ってはおけない。
「しっかし意外だったなァ。あの陽炎が、気迫で負けやがるとは」
足を折ってでも止めると言った陽炎が折れ、天翔丸が主張を通した。
「あれは論破っつーのか?……いやいや、ただのわがままだな」
論破はもっと理路整然と行われるものだ。天翔丸はただ感情的にわめいて主張を押し通しただけ。論破とは似ても似つかない。なんだかんだ言っても鞍馬天狗には甘い陽炎相手だから、通用しただけのことだ。
「だが、竜王淵の連中はこうはうまくいかねえぞ」
かつては忠実な鞍馬の眷属だった一族だが、いまは鞍馬天狗を害することも辞さないようだ。
「陽炎は莫迦天狗が奴らを説得できる方に賭けたようだが、その賭けが吉と出るか凶と出るか……」
黒金はかつて神の知恵者と言われたその英知で考えた。窮地にむかっていく天翔丸と陽炎に勝算はあるのか。
「あぁ、くそ! 凶だ、凶! どう考えても、うまくいくとは思えねェ」
鞍馬天狗の試練にまた陽炎が巻きこまれる。
それを止める良案が浮かばず、黒金はうなった。