五
日は没し、夜の帳がおりて鞍馬山が闇に覆われた。
この山の主の髪が真っ赤に染まり、金色の瞳が闇にひらめき、夜行の生物の姿へと変化する。しかしその表情は冴えない。
天翔丸は山道を歩きながらずっと考えこんでいた。そして何度も立ち止まっては、鞍馬寺の方をふりかえる。
何度かふりむいて前をむいたとき、前方を歩いていた陽炎が立ち止まってこちらを見ていた。
「早く巣へ」
言葉少なく、端的に用件のみを伝えてくる口調は冷たい。その冷たさに拒絶を感じ、話をすることすらはばかられる。
それでも天翔丸は黙っていられなくなり、胸中にうずまく疑問を投げかけた。
「八雲は……本当に敵なのか?」
陽炎は淡々と無感情に答えた。
「この鞍馬山は主であるあなたのものです。むろん、山中にある鞍馬寺も。それがわかっていながら、あなたへの引き渡しを真っ向から拒絶しました。敵対することを八雲自身が表明しました」
「そうだけど……」
「あの男に、あなたは墜とされかけました」
「墜とされかけたのに、怒りがわいてこないんだ……!」
命をとられかけたのだから、敵と認識することが正しいのだろう。理屈ではそうだが、なぜか感情が伴わない。天翔丸自身、不可解な自分の感情に戸惑っていた。
この感情がなんなのか、自分でもよくわからない。
だから陽炎の意見を聞きたかった。聡明なこの男と問答して、その見解から、答を知りたい。
「本当に、八雲を敵と判断していいのか?」
陽炎はこちらを見たまま、無言だった。
なにも言葉を返してこない。
沈黙の間がなんだか苦しくて、天翔丸は無言をうち消そうとするように問いかけた。
「おかしくないか? 本当に敵なら、なんで最初っから俺を墜とそうとしなかったんだ? 一緒に酒を飲んだり、温泉に入ったり、碁を打ったり、問答をしたり、そんなことしてないでさっさと墜とせばいいのに。いままで俺を墜とせる機会はいくらでもあった。なのに、なんでいま突然、敵だと表明したんだ?」
そこには何か深い理由がある気がした。
だから無性に後ろ髪を引かれ、ふりむかずにいられない。
「俺、八雲とちゃんと話さなきゃいけない気がする……!」
八雲の心の奥底にあるもの、その真意を知らなければいけない気がする。
「陽炎、おまえは八雲のこと、本当はどう思ってるんだ?」
天翔丸はまっすぐ陽炎と向き合い、まっすぐに問いかけた。
「おまえが八雲を忌み嫌ってるのはわかってる。それは、八雲が鞍馬天狗に危害をおよぼすからだよな? でもおまえは、そんな八雲を、本気で鞍馬山から追い出そうとはしていない」
いつだったか、八雲が結界術について話したときに言っていた。俺に陽炎を倒せる力はないが、陽炎も俺を倒すことはできない、と。
だがこれまで、多種多様なものたちと機智に富んだ戦いをくりひろげてきた陽炎を見てきて思った。本気で陽炎が八雲を鞍馬天狗の敵と判断しているのなら、たとえ真っ向勝負ではかなわなくても、ありとあらゆる方法をもって排除しようとするはずではないのか。
「おまえは何度も俺に鞍馬寺へ行くなって言ってきたけど、ただ言うだけだった。本気で止めるつもりなら、俺をどこかに縛りつけるなり、閉じこめておくなりすればいいのに。でもおまえはそうはしない」
天翔丸は心底から問いかけた。
「おまえも、八雲も、いったい何をどうしたいんだ?」
だが陽炎は反応しなかった。
これだけ問いかけているのに、一言も返答がない。碧眼には自分の顔が鮮明に映っている。見つめられているはずなのに、まるでその目には自分が見えていないかのようで。
胸にじわりと不安が湧いてきて、たまらず天翔丸は怒鳴った。
「なんとか言えよっ!!」
ようやく陽炎が口を開いた。
「私は……ーー」
強風が音をたてて吹きつけ、かき消されそうなその声を聞き逃さないよう、天翔丸は思わず身を乗りだす。
陽炎は黒髪をゆらしながら目を伏せ、言葉を一度とぎらせて言い直すように答えた。
「私があなたに応じられることは、必要な知識の教授、および武術の指導のみ。それ以外のことにはいっさい応じられません」
冷水を頭から浴びせるような返答に、天翔丸は身内からくる震えをこらえながら、懸命に問いを返した。
「……なんだよそれ……?」
先ほど鞍馬寺で陽炎がふれてきた一瞬。
死の恐怖に震えた直後に、陽炎に包まれてぬくみと安堵を感じた。いざというときはやはり来てくれるのだとーー信頼していいのだと思い、ほっとした。
だが返される言葉があまりに冷たすぎて。
陽炎のぬくみも感じた安堵も今はもう消えてしまっている。温かさを感じた直後だけに、よけいに寒さが増した。
温かさと冷たさの落差が激しすぎて、天翔丸は混乱した。
「おまえ……一体なんなんだよ? そんなふうに突き放すなら、俺を護ったりするなよ!」
「あなたは鞍馬天狗、護られなければならない存在です」
「訊いてるのは俺のことじゃない! おまえのーー」
問いを断ち切るように、陽炎は言い切った。
「問答には応じられません。相談事なら、相談する相手を選びなさい」
鋭い剣で斬り捨てられたかのような傷みが胸に走る。それでも天翔丸は両拳を握りしめ、歯をくいしばり、しぼりだすようになお問いかける。
「俺の問いには答えられない……何も答えるつもりはない……そういうことか?」
八雲に関する問いは私事というよりも山の主としての問いだ。鞍馬山に住む住職の言動をどうとらえ、これからどう接していけばいいのか、それは鞍馬天狗としての質問であり相談だった。
これにも答えられないというのなら。
「もう……俺とは何も話したくないってことか?」
声が震えそうになるのを懸命にこらえながら発した問いに、返答はただの一言だった。
「はい」
樹間を吹きぬけてきた風にあおられ、天翔丸はよろけるようにそばの木の幹に手をついた。うなだれるようにうつむき、胸の奥に刺さる傷みがじわりとひろがっていくのに懸命に耐える。
そのとき、ちりん、と鈴の音が聞こえた。
「天翔丸、大丈夫……?」
音の方に目をむけると、木の陰で猫又姿の琥珀がこちらを見ているのが見えた。首につけた鈴を小さくゆらして、心配げに問いかけてくる。
「どこか痛いの? 悲しいの? 大丈夫?」
まっすぐに純粋に気遣ってくれる言葉が、胸にしみるようだった。胸の傷みをおさえてくれる温かさ。
天翔丸は心からわびた。
「琥珀……ごめんな。怒鳴ったりして、ごめん」
琥珀は木陰に半分隠れながら、身を縮める。
「もう怒ってなぁい……?」
天翔丸は首を横にふった。
「お前はなにも悪くない。悪いのは俺だ。あれは八つ当たりだ。本当にごめんな」
琥珀はうかがうようにこちらを見ているが、出て来ようとはしない。
「どうしたんだ? 出て来いよ」
「うち、天翔丸のそばへ行ってもええの?」
「え? なんで?」
「だって……守護天狗は神聖な存在なんやもん。勝手に近づいちゃいけないし、さわっちゃいけないって」
天翔丸はふっと笑った。
「そんなこと気にするな。守護天狗になっても俺は俺だ。鞍馬天狗である前に、天翔丸という俺なんだから」
「うち……天翔丸に近づいてええの?」
「ああ」
「ふれてもええ?」
「いいに決まってるだろ」
そう言っても、琥珀はまだためらっているようだった。
「でもうち、天翔丸のために何もでけへんし……」
「そんなことない。鞍馬寺にあった晩飯、用意してくれたの、おまえだろ?」
「うん……」
「ごちそうさま。うまかったぞ」
ようやく琥珀の表情がほぐれ、笑みが浮かんだ。
天翔丸は手をさしだして、
「こっち来いよ」
琥珀は涙をぬぐい、木陰を出て駆けてきた。
こちらからも琥珀の方へ歩を進めようとするーーが、それはできなかった。
陽炎がいつの間にか距離をつめて背後に立ち、手首をつかまれて引き戻された。
「……離せよ」
にらみつけながら言った言葉に陽炎は答えない。
腕をふりほどこうとしたが、強い力でさらに引っぱられ、よろけたところを黒衣に包みこまれてしまった。天翔丸は抵抗しながら怒鳴った。
「離せよ! 俺とはもう何も話す気はないんだろ!? だったらーー」
「静かに。何か来ます」
鋭利な碧眼は山の下方を見据えていた。陽炎はすでに錫杖をぬいて臨戦態勢をとり、警戒をあらわに張りつめるような空気を身にまとっている。
天翔丸は抵抗をやめ、その視線の先に目をむけた。すでに夜は更けて山は濃い闇に満ちている。夜目で山を眺めて特に異常はないように見受けられたが、しかし陽炎がこのように警戒し、何かが来ていると言うのならそれは疑いない。天翔丸は身構えながら山に来た何かの気配を探った。
やがて闇の向こうから音が聞こえた。
ざざざぁ……ざざざぁ……何かが地面をなでるような、這うような音。
「……なんだ、この音は?」
不安から思わず口をついて出た問いに、陽炎が答えた。
「水です」
「水?」
言われてみれば、たしかに水音のように聞こえる。まるで流れる川のような音。だがここは山の尾根にあたる場所だ。鞍馬川ははるか下に位置しており、水音など聞こえるはずがない。ないはずの現象がーー異常事態が起こっている。
すると流水音にまじってかすかに声が聞こえた。
「……鞍馬天狗……」
耳をすますと、流れるように寄せてきた妖気と共に、その声がはっきりと聞こえた。
「鞍馬天狗はいずこにおわす」
若い男らしき声にはかすかに怒りの響きがある。
琥珀も妖気を感じ、毛を逆立てて声の方にむかって威嚇した。
「鞍馬天狗はいずこにおわす」
ただその言葉だけをくりかえしながら近づいてくる。怒りに満ちた声が、水音とともにうねるように。
天翔丸が緊張を高め息を潜めていると、陽炎が首に水晶の連珠をかけてきた。
「ぐっ!?」
「下がっていてください」
そう言って陽炎は背に天翔丸を隠すようにして立ち、声の方をにらみすえた。
連珠は気配を消すためのものだ。いきなりかけられて天翔丸はむっとしたが、陽炎の意図はわかったので文句は言わなかった。鞍馬天狗に対して怒りをもった何者かが迫っている。まだ気配を消すことができない自分を隠すには、これは必要不可欠だ。
天翔丸は陽炎の背後から覗き、やがて見えてきた光景に目をみはった。
大量の水が、山の斜面をはいあがってきた。高いところから低いところへ流れるという水の法則をまったく無視して、あたりを探るように左右の山肌をなでながら流れ上がってくる。
声は水の中から聞こえた。
「鞍馬天狗はいずこにおわす」
波立ち、うねり、意志をはらんだ大量の水が、怒濤のようにせまってきた。
「止まれ!」
陽炎が水にむかって鋭く声を放った。
瞬間、水の動きがぴたりと止まった。
「何者だ、名乗れ」
その場にとどまった水がぼこぼこと泡立ち、次の瞬間、渦を巻いて一本の水柱が立つ。竜のごとくうねる水柱の中から一匹の魚がとびだした。
それは巨大な岩魚だった。
岩魚は宙で身体をくねらせ、その身に妖力がみなぎって身体が変化した。
人のように手足ができ、人のような顔になり、人のような衣をまとう。しかし手足も顔も鱗にびっしりおおわれ、鰓が頬や肩からのびていて、完全に人にはなっていない。
清澄な水色の衣をまとった半人半魚の男が、拝謁するように膝を折った。
「我が名は半海。竜王淵の主の息子にございます。新たな鞍馬天狗にお願いの儀があってまいりました」
陽炎は錫杖を身構え、警戒をあらわにしながら半海に言った。
「おまえは山のしきたりを知らないのか? 入山には主の許可を得ることが必須。主に無断で、ここまで山深く立ち入るとは」
「許可? 麓には誰もおらず、山にむかって声をかけても返答すらない。このような状態で、どう許可をとれと言うのですか? むしろ入山者をここまで立ち入らせた、そちらの守備に問題があるのでは?」
陽炎が言葉を返そうとするのを遮って、半海は頭を下げた。
「主の許可をとろうにも、伝達の方法がありませんでした。ゆえにやむをえず入山したまでにございます」
頭を下げながらこちらにむけてくるまなざしは鋭い。言葉使いは敬語ではあったが、言葉の端々にも、まなざしにも、そして全身から発せられる気迫のような妖気にも明らかに険がある。
半海が陽炎にむかって請願した。
「鞍馬天狗にお願いがあり、お目通りいたしたくまいりました。おとりつぎを」
天翔丸は陽炎の背後で息を殺した。
この半海という岩魚の妖怪、目的は鞍馬天狗に面会することだ。
(俺が出るべきか……?)
そう思いながらも身体が動かない。自然に逆らう水の流れ、それを操っているだろう半海のただならぬ気迫に圧倒されて足がすくむ。
どうすべきかわからず、答を求めて黒衣のそでを引いた。
言葉での返答はなかった。が、その手が後ろ手に肩にふれてきて出ないようにとうながしてきた。
陽炎は鞍馬天狗を全身で隠し、代わりに入山者と相対した。
「まずは、その願いとやらを聞く」
「それは鞍馬天狗に直接申し上げたい」
「その願いが鞍馬天狗の耳に入れるに値するかどうか、まずこちらで判断させてもらう」
半海は顔をゆがませ、歯噛みしながらうなった。
その感情に呼応して水が波立つ。不快、反感、不服、そして怒り。半海の背後で水は激しくうねり、いまにも押し寄せてきそうだ。
そんな相手の気迫に劣らない気迫で、陽炎は凄んだ。
「言え! 言わねばここを通すわけにはいかない。我が命をかけて、おまえの進行を阻む」
半海はうなるように言った。
「では……申し上げます」
そして反感をありありと見せながら話し始めた。
「竜王淵の主ーー我が父、緑水が死に瀕しております。鞍馬天狗不在の十五年間、鞍馬山から染み出る死毒が竜王淵に流れこみ、淵が汚染されました。父は我ら一族を守るため、十五年もの間死毒を飲みつづけ、寿命を縮めたのです。その父を救うためーー」
半海は苦渋をしぼりだすように、しかしはっきりと言った。
「鞍馬山の天紅卵をいただきたい」
(鞍馬山から染み出る死毒? テンコウラン?)
陽炎の背後で天翔丸は首をひねるばかりだった。半海が話していることも事情もまったくわからず、ただ聞いていることしかできない。
陽炎は拳をにぎりしめながら問いかけた。
「半海……守護天狗に天紅卵を所望することがどういうことか、わかって言っているのか?」
「無論、すべて承知の上にございます。我が父を救うため、なにとぞ天紅卵をいただきたい」
はりつめた空気に、波打つ水音が漂う。
やがて陽炎はかぶりをふった。
「それはできない」
「我が父の命、救う価値はないとおっしゃるのですか」
「そうではない。竜王淵の主を筆頭にその一族が代々鞍馬天狗に仕え、忠実に尽力してきたこと、充分に承知している。その功労は計り知れなーー」
「恐れながら!」
半海が鋭い声で陽炎の言葉をさえぎった。
「我ら一族がお仕えしてきたのは鞍馬天狗です。たかが眷属にいくらねぎらわれても、その言葉には露ほどの価値もありません。主の言葉でなければ、意味がない。第一、天紅卵を渡すか否か、決めるのは鞍馬天狗であってあなたではないでしょう」
半海は立ち上がり、ずいと前に踏み出してきた。
「ご要望どおり、こちらの願いをお教えしました。さあ、鞍馬天狗に会わせていただきましょうか」
緊張で硬直する天翔丸を後ろ手で覆うようにしながら、陽炎は首を横に振った。
「それはできない」
「なぜ?」
「たとえ鞍馬天狗に会ったとしても、おまえの願いは叶えられないからだ」
「ですから、それはあなたの決めることではーー」
「叶えたくても、できないのだ!」
陽炎が声をはりあげた。かすかに震える声で。
「おまえの父を救いたくても救えない……なぜならーー鞍馬山に、天紅卵はない」
半海は眉をひそめた。
「ない……? それはどういうことですか?」
「十五年前に天樹が朽ちて枯死した。鞍馬山に天紅卵は生まれないのだ……もう二度と」
半海の顔にみるみる驚きが広がっていく。
「ま、まさか……そんな莫迦なことがあるか! 新たな天狗が生まれたのに、天紅卵がないはずがない! でたらめを言うな!」
「このような山の一大事、ただの入山者には言わない。代々鞍馬の眷属であったおまえたちだからこそ、ありのままを告げている。天紅卵はない……これは、事実だ」
重々しく告げられた陽炎の言葉に、半海の表情が悲嘆と絶望にゆがむ。そして力なくその場にくずおれた。
陽炎は静かにうながすように言った。
「竜王淵の主のこと、そしておまえの覚悟、しかと鞍馬天狗に伝えておく。いまは山を下れ」
「……いまは?」
半海の背後で水が震えるようにざわざわと波打ちはじめた。
「いまでなければ、いつだというのだ? 次などない、今宵で父上の命は……いまでなければ駄目なのだ、いま、すぐでなければーー!」
半海が立ち上がると同時に、その背後で水が見上げるほどの高さまでそそり立った。
「眷属では話にならぬ! 鞍馬天狗はどこだ? 直接願い出る!」
「鞍馬天狗に願い出たところで答は同じだ。淵に帰れ」
「鞍馬天狗はどこだぁぁぁ!」
半海が牙をむくように怒号すると同時に、膨大な量の水が一気に襲いかかってきた。
陽炎は天翔丸を抱えて跳躍し、枝上にのって波をかわす。そして小声で、しかし強い語気で天翔丸に耳打ちした。
「尸珞の場へ行きなさい、全速力で!」
天翔丸は駆け出しながら、木陰で身を縮めていた琥珀に叫んだ。
「琥珀、逃げろ!」
「う、うん!」
天翔丸と琥珀は並走するように枝から枝へと跳躍して逃走し、天翔丸の背後を護りながら陽炎がつづいた。
後方から大量の水と怒りの声が追いすがってくる。
「鞍馬天狗ぅぅぅぅ! どこだぁぁぁぁ!」
水の流れは驚くほど速かった。あっという間にあたり一帯が水で覆われて足の踏み場がなくなり、逃走経路は樹上しかなくなった。
「鞍馬天狗はどこだぁぁぁぁ! どこだぁぁぁぁぁぁ!」
水柱がしぶきをあげながら幾本も立ちあがった。それが竜のように宙に踊り上がり、樹上にまでのびてきた。
天翔丸は樹上を逃走しながら、横目で琥珀を見やる。
幼くともさすがは猫の妖怪だ、琥珀は敏捷な動きでうまく水竜をかわしながら逃げている。
(よし)
わずかに気が緩んだその一瞬、足元がおろそかになった。
「うあ!?」
枝を踏みしめそこなった足がぐらつき、幹につかまって落下はまぬがれたものの逃走が止まる。そこへ水竜が突進してきた。
(まずい!)
衝撃を覚悟して身を固くする。
しかし衝撃はなく、代わりに盾となった陽炎が水竜に捕らわれた。
「陽炎!」
水には錫杖も霊力も無力だった。水竜に巻かれた陽炎はなすすべもなく枝から引きずり下ろされ、うねる波間に落下していきながら天翔丸に向かって叫んだ。
「行きなさい!」
そう指示される前に天翔丸は行動していた。即座に踵を返し、抜剣しながら宙へと跳躍し、落ちていく陽炎を追う。
何も話したくないとまで冷たく拒絶しておきながら、当然のことのように身を挺して護ってくるーー本当にわけがわからないし、無性にいらつく。
「っっざけんな!」
いらだちと神通力をこめて、陽炎を捕らえていた水竜とその周囲一円の水を七星で斬り消した。
瞬間、すべての水の動きがぴたりと止まり、水中から半海の声が響いた。
「いまのは神通力……七星か。この場にいるな、鞍馬天狗」
天翔丸はぎくりとした。
ざざざざざぁぁ! 水が音をたてて動き、自分と陽炎を包囲した。
水中にぎょろりとした目が見え、その目がこちらを見る。
がーーその視線は、天翔丸を素通りした。
「どこだ? どこにいる鞍馬天狗! さては空に逃げたな? 出て来い!」
天狗の気配は水晶の連珠で隠している。
七星は陽炎がとっさに身で隠している。
どうやら半海は、翼のない人間のような姿をしている天翔丸を鞍馬天狗だと認識できないようだった。
「おのれ、鞍馬天狗! 眷属をおいて己だけ飛び逃げるとは卑怯な! それでも山の主か!? 姿を見せよ!」
渦巻く水はより激しさを増し、半海の怒りもますます激しく高まっていく。
琥珀は枝上で身をすくませながら、窮地におちいっている天翔丸を見下ろした。
(天翔丸……!)
天翔丸が陽炎と共に渦巻く水に完全に包囲されている。このままでは天翔丸が水に飲みこまれてしまう。
(どうしよう、どうしよう……!)
あせるばかりでどうすればいいのかわからなかった。
恐怖に息があがり、足が震える。激しく怒っている半海という妖怪も、見たこともない渦巻く激流も、怖くてたまらない。
「聞け、鞍馬天狗! 姿を見せねばこの眷属二人の命を奪う! それでもいいか!?」
半海の怒鳴り声に、琥珀は小さく悲鳴をあげた。
怖いーーだがなにより怖いのは、天翔丸がいなくなることだ。
琥珀はきっと目をつりあげ、妖力をみなぎらせた。
(うちは、天翔丸の眷属になるんやから!)
懸命に考えて、天翔丸を助ける方法が一つだけ見つかった。それは陽炎にはできない、自分にしかできない方法。
陽炎に負けたくない。天翔丸を助けたい。どうしても眷属になりたい。
だから、すごく恐いけれど。
(うちが天翔丸を助けるんや!)
天翔丸は陽炎と背を合わせ、いまにも押し寄せてきそうな流水の壁をにらんだ。どこかに抜け出せる穴のようなものはないか探したが、まったく見つからない。
(七星で突破できるか?)
そう考えて七星を握りしめると、そのもくろみを察した陽炎の手が手にふれてきて止められた。
「この水の量、消しきれないかと」
だよな、とすぐに思い直し、小声で問う。
「じゃあ、どうすんだよ?」
返答は得られなかった。陽炎も渦巻く水壁のあちこちに目をやり、この窮地から脱する方法を考えているようだった。
(鞍馬天狗は俺だと名乗り出るか?)
半海の目的は鞍馬天狗と会って祈願することだ。
だが半海と話そうにも、なにをどう話せばいいのか皆目わからない。
(どうすればいい?)
焦燥の汗が背につたったときだった。
「鞍馬天狗は、こっちよ!」
琥珀の声が聞こえて、天翔丸ははっと見上げた。
琥珀がいた場所に、なぜか翼をもった天狗がいた。
いつだったか鞍馬山に襲来してきた比良山の木葉天狗だ。だが本物の木葉天狗ではない。鋭いはずの嘴は丸っこいし、天狗が持つ神器の羽団扇は八雲がもっているような扇子だし、なによりおしりあたりから猫の尻尾が出ている。
琥珀が考えた天翔丸を助ける方法ーーそれは天狗に化けて、天翔丸の身代わりになることだった。
よくよく見るとおかしな天狗であったが、怒りに我を失っている半海の目はそれで充分にあざむけた。
「そこにいたか、鞍馬天狗ぅぅぅぅぅ!」
怒濤のうねりがひときわ大きな水竜となって宙を遡上し、鞍馬天狗を装った琥珀を飲みこんだ。
天翔丸は叫んだ。
「琥珀ーーーーーっ!!」
琥珀を飲みこんだ水が山を下りはじめた。
「いけません! 追ってはーー!」
陽炎の制止の声をふりきって、天翔丸は全力で山を駆け下りた。
大量の水が細長い川となって山を一気に下っていく。それに劣らない速さで天翔丸は山の斜面を飛ぶように走り、やがて水流の最後尾に追いついた。
「琥珀を返せ!」
地を蹴り、七星を輝かせながら 水の尾を踏みつけるようにして流水にとびこんだ。だが七星の力は流水をわずかに消しただけだった。激流の勢いは止められず、逆に流れに巻きこまれてひっくり返り、倒れた拍子に七星から手が離れた。
「しまっ……!」
口に大量の水が流れこんできて、声が出せなくなった。
都育ちの天翔丸は川遊びの経験すらない。せいぜい庭先の浅い池での水遊びか湯浴み程度で、水に親しむ機会はほとんどなかった。つまりまったく泳げない。まして凍りつくような冬の冷水にこの激流だ、たとえ泳げてもなすすべはない。
水に呼吸が妨げられ、冷たさに体温が奪われ、激流にもがくこともできず身体の自由が奪われて、流れるままに流されるしかなかった。
溺れるという初めての経験に、天翔丸は激しく苦悶した。
ーー天翔丸!
流水音にまぎれて、かすかに呼び声が聞こえた。
(陽炎!)
天翔丸は流されながら、声の方へむかって本能的に手をのばす。
が、理性で思い直した。
(いやーー陽炎じゃないか)
陽炎はもう天翔丸とは呼ばなくなった……だから、空耳だ。
(いや、でも、やっぱり……陽炎、だったよな?)
声はたしかに陽炎のものだったと思う。いつもは冷たく無感情だが鞍馬天狗が危機に陥ったときは切羽詰まった声で、こっちが恥ずかしくなるような大声で、あんなふうに名を呼ぶのは陽炎以外に思いつかない。
それともやはりあの声は幻聴だろうか。かつてそう呼ばれていた記憶なのか、またそう呼ばれたいという願望なのかーー。
(あぁ、もう、本当にわかんねえ……ーー)
混濁する思考が薄れ、のばしていた手から力がぬける。
激流に翻弄されて、天翔丸の視覚も聴覚も感覚も、意識も、すべてがとぎれた。