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      四

 天翔丸の背がぞくりと粟立った。

 八雲の両の掌から燐火(りんか)が一つずつぽっと出て、その手の上でころころと転がるようにゆれる。青白い炎でお手玉でもするように遊びながら、八雲は抑揚のない声で淡々と言う。

「燐火を手中に憑かせることは悪しき所行だと、陽炎から聞いたはずだ。なぜ俺を問いつめない?」

 天翔丸は答えようと口を開くが、なにをどう答えればいいのかわからなかった。不意の追及に胸がどくどくと鳴り、緊張で手が小刻みにふるえ、わずかに呼吸が乱れる。

 もちろん忘れていたわけではない。

 死物と戦うのが鞍馬天狗の宿命。死者の魂である燐火は微弱ではあるがれっきとした死物で、鞍馬天狗にとっては敵にあたる。

 八雲はそれを知っていて、燐火を鞍馬天狗の手に憑かせた。なぜそんなことをしたのか、聞かなければならないと思っていた。しかし思っていただけで何もせず今日にいたっている。

「陽炎のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったか? それともたかが僧侶一人放っておいても支障はないと思ったのか? 俺などおまえの眼中にはないか?」

「そ、そういうわけじゃ……!」

「どういうわけだ?」

 悪事を働いたのは八雲の方なのに、自分の方が責められているような心持ちになりながら、天翔丸はぽつりと答えた。

「俺は……あんたと争いたくない」

 八雲は声をあげて笑いとばした。

「武神鞍馬天狗の言葉とは思えんな」

「俺は争いが嫌いだ……できれば、戦いたくない」

「ならばおまえは何のために武術の修行をしている? 戦うためじゃないのか?」

「それは……そうだけど……」

 八雲は顔を寄せてきて、さらに問いをつめてくる。

「なぜ真相を究明しようとしない? なぜおまえは害をおよぼしたこの俺にのこのこと会いにくる? なぜ俺の酒を疑いもせずに飲む?」

「酒……?」

「その酒には毒を盛ってある」

 刃物をあてられたように胸がひやりとした。

「冗談……だよな?」

「なぜ冗談だと? なぜその可能性を考えない? 俺には鞍馬天狗に燐火を憑かせた前科があるんだぞ。二度目はないとなぜ思う? なぜ疑わない? おまえは自分が死なないとでも思っているのか? 死が蔓延(まんえん)しているこの世にいながら、死と戦える力を持っていながら、自分は死と無縁だとでも思っているのか?」

 八雲は(せき)を切ったように言葉を吐き出しつづける。

「この世は非道で非情で残酷だ。おまえが戦いたくないなどと寝ぼけたことを言っている間に、戦うすべをもたないものは理不尽に命を奪われていく。おまえが悠長に、ここで酒を飲んで愚痴をこぼしている間にも!」

 その声にも顔にも怒りがじわりとにじみ出る。

 八雲が何かに怒っているのはわかるが、何をそんなに怒っているのかが天翔丸にはわからず戸惑うばかり。わからないという反応が、また八雲の怒りをかきたてているようだった。

「おまえは本当に鞍馬の主になる気があるのか?」

「も、もちろん! 俺は本気で……!」

「では主とはなんだ? おまえが目指す主とは?」

 答えられず、八雲の目線をまともに受けることもできない。

「わからないのか? わからないのに、主になるとほざいたのか。口先だけで」

 天翔丸は口をつぐむしかなかった。それは図星である上に、八雲の語勢に気圧されて言い訳もできない。

「おまえは主になると言ったが、ただそれだけだ。何もしていないし、何をしようともしていない。知りたくないことから目をそらし、面倒事を避け、争いから逃げて、戦う前に戦いを放棄している。その結果がーーこれだ」

 突然、八雲は手をふりあげ、床を思いきりたたいた。

「オン!」

 瞬間、本堂の空気が一変した。

 八雲の両手首に巻かれていた組紐がいつの間にか天翔丸の周囲に円を描くように張り巡らされており、八雲の霊力で操られる組紐が床に転がっていた霊の実を次々と貫きながら割った。

 一気に解放された数人の死霊たちが宙に浮かび、恨み言をうめきながら黒い呼気を吐く。死気が本堂に充満し、場が穢れていく。

 天翔丸は反射的に腰元の七星に手をやろうとしたが、手が動かなかった。

 死霊たちにとり囲まれ、床には組紐がはりめぐらされて完全に包囲されている。気がついたときにはすでに身動きがとれなくなっていた。それが死霊たちによる金縛りのせいなのか、八雲の術の捕縛なのかもわからない。ともかく完全に動きを封じられ、七星を使うことを封じられていた。

「滅ぼしの力を活かすすべをもたず、山を護るどころか己を護ることもできず、いま俺に息の根を止められてもおまえはその理由すらわかるまい」

 八雲の全身が霊力で青白くぼうっと光っている。まるでこの世をさまよう燐火のように。

「己を知らず、他も知らず、世も知らず、理も知らずに死す愚かな子供ーーこれが、おまえの有様だ」

 ゆらりゆらりと死霊たちが包囲を縮めながら寄ってくる。慎重に、確実に、獲物に迫る狩人たちのように距離をつめてくる。

 さらに組紐が蛇のように天翔丸の身体に這い上がり、首にまきついてきた。首がくっと絞めつけられて息がつまり、天翔丸は焦った。これは冗談ではないと悟るが時すでに遅く、もう逃れるすべはない。呼吸ができず、苦痛をーー死を感じた。

 その瞬間、錫杖の金属音が鳴ると同時に扉が勢いよく開け放たれ、強風が吹きこんできた。風が死気を吹き飛ばし、矢のように飛んできた霊符で死霊たちがひるんで後退し、首に巻きついていた組紐がちぎれ飛ぶ。

 天翔丸は風を胸いっぱいに吸いこみ、そして息をのんだ。

 一瞬、背後から黒衣に覆われて首に温もりを感じた。絞められた首の具合を確かめるように大きな手がふれてきて、こわばっていた身体が黒衣に包まれて自然と安堵でゆるむ。髪にかかる呼吸は急いで駆けつけてきたのだろう、少し乱れている。

 ふりむかなくてもそれが誰なのかわかった。

(陽炎)

 だがそれは風が通りすぎる間の、ほんの一瞬のことだった。

 陽炎はすぐに手を離し、身を離した。そして天翔丸と目を合わせることなく、その碧眼で八雲をにらみすえながら怒気に満ちた声で問いかけた。

「貴様……何をしている?」

 陽炎は全身を尖らせるように霊気をみなぎらせ、錫杖を身構えて戦闘態勢をとる。

 八雲は突然の乱入者に動じることなく、その乱入をあらかじめ見越していたかのように()めて平然と受け答えた。

「何をしているか説明しなくても、察しのいいおまえならわかるだろ?」

「貴様がいままで犯してきた悪事をすべて合わせてもこの一事には及ばない。鞍馬天狗を()とさんとするこの悪行、その身を八つ裂きにしても償えない」

「そうだろうな」

 責めをさらりと受け流し、八雲はしらけたような表情で言う。

「償う気などさらさらないが、墜とす気もなえるわ。肝心の相手に、狙われているという自覚がまるでないのだからな」

 八雲は組紐を引き戻し、その除霊術でうめいていた死霊たちを霊の実に戻す。

 そして呆然としている天翔丸にむかって、そっけなく言い放った。

「酒は尽きた。酒盛りは終わりだ。死気に穢れているこの寺は居心地が悪かろう。早く自分の巣へ帰れ」

「ちょ、ちょっと待てよ! 八雲、ちゃんと話をーー」

「もうおまえと話すことはない」

「あるだろ! 俺に言いたいことがあるから、だからこんなことを……!」

「言いたいことは言い終えた。俺の意志は行動で示した」

「……え?」

「察しが悪い奴だな。はっきり言わないとわからんか」

 八雲は去ろうとしない天翔丸を突きとばすように言い放った。

「俺は鞍馬寺の住職。この寺は俺のものだ。いまさら山の主が現れようとゆずり渡す気はない。ここから出て行けーー鞍馬天狗」

 その表情に笑みはなく、見下ろしてくる目には敵意が鋭利にひらめいている。

 天翔丸が動揺していると、陽炎がかたわらで言った。

「あの男はあなたに従わないことを宣言しました。山の主に対する明らかな反逆です。八雲は、あなたの敵と認識しなさい」

 天翔丸は唇をかんだ。

 うすぼんやりと感じていたこと、知りたくなかった事実……それをはっきりと告げられてしまった。でも、この期に及んでもそれを認めたくなくて、請うように八雲を見つめる。

 しかし八雲の敵意に満ちた眼差しがゆらぐことはなかった。

「行きましょう」

 結局、天翔丸は八雲に何一つまともに言い返すことができず、陽炎にうながされるままに鞍馬寺を後にした。


 二人の姿が山中に消え、気配が遠ざかって消えたのを確認すると、八雲は扉を両手で閉めた。うつむいた顔に長い黒髪がかかり陰を落とす。それを払いのけることもせずに小さく深く嘆息し、つぶやいた。

「……俺に言い負かされているようでは、主とは認められんな」

「おめえを論破(ろんぱ)できたら、あいつを主と認めるってぇのかァ?」

 突然背後から聞こえた耳障りな濁声に、八雲はびくりとしてふりむいた。

 天井の隅のわずかな闇にまぎれ、二つの目が爛々と光っている。一羽の(からす)蝙蝠(こうもり)のように天井にぶらさがりその鋭い眼光でこちらを見据えていた。

「獲物を狙ってる狩人っつうのはまぬけだよな。獲物に気をとられて、自分が狙われていることにまったく気がつかねえ。おめえも気をつけた方がいいぜェ?」

 八雲は動揺を隠しながら、密かに歯噛みした。

 自分が鞍馬寺の周囲に張り巡らせている結界は侵入者を感知できる。しかし黒金(くろがね)という名のこの鴉は結界をものともせずに軽々とすりぬけて、気取られることなく忍び寄ってくる。

「盗み聞きに覗き見か。いい趣味だな、八咫烏(やたがらす)

「死霊をはべらせて粋がってるおめえの趣味の良さには負けるさ、外法師(げほうし)

 鴉は笑みをうかべながら、いやに鋭利なまなざしでこちらを見据えながらしんとした本堂に声を響かせる。

「めずらしく熱弁をふるってたじゃねえか。鞍馬天狗と本気で向き合おうって気にでもなったのかァ?」

 八雲はふんと吐き捨てるように言った。

「鞍馬天狗など名ばかりだ。あんな子供相手に策を弄することがばかばかしくなっただけだ」

 広大な葬送地蓮台野にはびこる死物たちをたった一晩で消し去った所行。

 それを目の当たりにして総毛立った。この世には神も仏もいない……そう憂えてきたが、常識と想像をはるかに超えた強大なその力に神を感じ、畏怖した。

 天狗はまさしく山の神。

 この世を変える力をもっている。

 だがその天狗が考えているのは自分のことばかりだ。この世の有様をわかっていないし、わかろうともしない。そんなざまで、衆生の祈願に思いを寄せることなどあろうはずがない。

 それが無性に腹立たしく、もう偽りでも笑みをむける気にはなれなくなった。

「いくらたぐいまれな神通力があろうと、思考力と判断力がなければ意味がないということだ。あいつは自分の力の使い道も知らず、誰が敵で誰が味方かもわかっていない。あろうことか、あの陽炎を薄情だとぬかしている」

 黒金は深くうなずいた。

「そこに関しちゃあ、わしも同感だな。陽炎ほど情の深い奴はいねえのに……陽炎は何も変わっちゃいねえってのに」

 いっそ変われりゃあ楽になるのによォ、と黒金は憂いをつぶやき、すぐに声を改めてこちらに眼をむけてきた。

「だがよォ、あの莫迦天狗に負けず劣らず、さっきのおめえもかなりの駄々っ子に見えたぜェ? 鞍馬天狗が自分の気持ちを全然わかってくれない、どうしてわかってくれないんだよォーーってなァ」

「勝手に言ってろ」

 袈裟をひるがえし本堂から去ろうとすると、凄みのある声で呼び止められた。

「おいーー待てや。まだわしの用がすんでねえぞ」

 八雲がふりむいたときにはすでに天井に鴉の姿はなく、

「都で阿闍梨と陰陽師をたきつけ、鞍馬天狗を襲わせたのはおめえだよなァ?」

 背後から、それも間近から声が聞こえて八雲はとびのいた。

 いつの間にか背後に忍び寄っていた鴉は大鴉の姿になっており、こちらを見下ろすような巨体でありながらその気配はみじんも感じとれず、動きも読めず、狙われる獲物のように八雲の呼吸が乱れる。

「あれはちょいとやりすぎだなァ」

 八雲は後ずさって身構えながら、嘲笑を含んで言い返す。

「神の使いであったおまえが、今度は鞍馬天狗に尻尾をふるか」

「おいおい、勘違いすんなよ。あの莫迦に、このわしが仕える価値があるかよ。わしは鞍馬天狗なんざどうでもいい。だが鞍馬天狗を追いつめれば、陽炎が追いつめられる。鞍馬天狗が危機にさらされれば陽炎もさらされる。げんに、奇門遁甲(きもんとんこう)で鞍馬天狗もろとも餓鬼(がき)に喰われかけた」

「それはーー」

「知らなかったとは言わせねェぞ。おめえは陽炎が鞍馬天狗を護るためなら死地にも飛びこんでいくことを知っている。わしと陽炎が友であることも知っている。それらを知っていながら、わしの友を命の危険にさらした」

 大鴉の眼が鋭く赤く閃いた。

「少しばかり仕置きが必要だなァ」

 その視線が、八雲の足元を鋭く見る。

「霊の実、ずいぶん集まったみてえだな」

 思わずはっと息をのむと鴉は嘲笑した。

「いくら隠しても無駄だぜ。わしの浄眼は死の穢れを見逃さない」

 八雲は両手首の組紐をすべてほどき、床になげうって霊力をこめた。

「結界!」

 床を這う組紐が円を描き、強固な結界をつくりだす。

 しかし鴉の赤い目が一瞬ひらめいただけで、組紐は粉々にちぎれとんだ。

「わしにおめえの術は通じねェ。何度やっても同じだ。いいかげんわかれよ」

 鴉が翼をひろげたと思った次の瞬間、その羽ばたきで八雲は身体ごとふっとばされて壁に叩きつけられた。傷みに苦悶していると両掌にぞわりとした感覚が走る。蛍と撫子が出ようとしているのを感じた。

「蛍、撫子、出るな!」

 八雲は両掌をにぎりしめ、二人の出現を止めた。いくら二人が力ある有能な死霊であろうと、八咫烏の前ではひとたまりもない。実体のない死霊など、神鳥のひと羽ばたきで消し飛ばされてしまう。

 うずくまっている間に鴉によって厚い床板が破壊され、その下に隠しておいた壷があらわになる。頑丈な壷もたやすく割られ、中に収めてあった大量の霊の実が散らばった。

「死せばあの世へ逝くのが理だ。世迷いし怨霊ども、とっとと死に還りな」

 八咫烏の羽ばたきで強風がおこった。霊力を含んだ風は怨霊たちをあっという間に浄化し、すべての霊の実を消し去った。八雲が怨霊退治で集めたそれを、一つ残らず消し、無にした。

「おめえがせっせと集めていた霊の実はきれいさっぱりなくなったぜ。ここ数年をかけたおめえの苦労は無駄骨となったわけだ。これがおめえへの仕置きーー陽炎に危害を加えた罰だ」

 八雲は顔をゆがめて歯噛みした。

 八咫烏はたんなる神の伝達役というだけでなく、神へ進言が許される知恵者だと言われている。さすが元神の使いと言うべきか。自身が傷つけられてもこれほど落胆はしない。何をすれば有効な罰になるか、この鴉は憎らしいほどによくわかっている。

「やってくれたな、鴉……!」

「自業自得だろ。おめえがどんな悪事を働こうが、この世の理を破ろうが、何をたくらもうがかまわねえ。だが、陽炎を追いつめるようなことだけはするな」

「友情のためというわけか。元は偉大な神の使いが、陽炎一人のためにそこまで気を回すとは、神使(しんし)の任を放免されてよほど暇とみえる。堕ちたものだな」

「おめえにどう思われようとかまわねェがな。陽炎には大きな借りがある。借りを返さねえと寝覚めが悪いってぇだけだァ」

「仁義ゆえか。だがおまえの陽炎への執着の仕方は、端から見ていると少々いきすぎのきらいがあるぞ。まるで恋着する稚児を囲おうとする好色坊主のようだ」

下衆(げす)らしい勘ぐりだな。それ以上くだらねえことを言いやがると、その口、二度ときけないように引き裂くぞ」

「痛いところを突かれておかんむりか? 怒るということは、それこそがおまえの本心ではないのか?」

「ばかばかしくて怒る気にもならねえなァ。っつーかよ、おめえ、身近に『恋着する稚児を囲おうとする好色坊主』がいただろ? 経験がねえと、そういう発想は出てこねえもんだ。おめえ自身に男色趣味はねえようだから、おめえが子供んときに好色坊主に恋着された経験でもあるんじゃねえのかァ?」

 鋭い問い返しに、八雲はひと呼吸をおいて答えた。

「だったらなんだ? 腐りきったこの世でそんなことは珍しくもあるまい」

「そんな下衆とわしを一緒にすんなって言ってんだよ」

「はたしてそうかな? 正確ではないにしても、あながち見当違いとは思えんぞ。おまえが友と呼び厚い友情をむけているその相手は、おまえほどに思いをむけてはいない。肝心の陽炎は鞍馬天狗に夢中で、おまえの友情をそれほど必要としていないように見えるぞ」

 ほんの一瞬、鴉の言葉が途切れて間があいた。

 その無言の間に、八雲は斬りこむように言葉を投げつけた。

「友情にしろ恋情にしろ一方方向はつらかろう。おまえの私情が報われる気配はない。知恵者と誉れ高い八咫烏なら、そのことにとうに気づいているのではないか? わかっていながらなぜ陽炎を助ける? おまえのやっていることは無意味で、すべてが無駄骨ではないのか?」

 八雲はその心の奥に切りこんでいくように、動揺を誘いその心中をさぐるために問いを放つ。

 しかし黒金は動揺を見せることなく冷ややかに言い返した。

「あいにく、わしはおめえと問答する気はさらさらねェよ。話し合う必要なんかねェ。だってよォ」

 鴉の黒い翼がふわりと広がった次の瞬間、八雲は蹴爪で床にねじ伏せられていた。

「わしとおめえの力の差は明白だ。力に物を言わせればいいだけのことだ」

 大鴉の足一本に胸元を押さえつけられて、八雲の身体中の骨がきしみ、息がつまる。いくら動こうとしてもびくともしない。

「いいか、これは警告じゃねェ、命令だ。金輪際、陽炎と鞍馬天狗に危害を加えるな」

 返事をこばんで口をつぐんでいると、鋭い蹴爪がぐぐっと頬にくいこんできた。頬に傷みと流れる自分の血のぬくみを感じて、八雲は苦痛の声をもらした。

「ぐ……!」

「さァ、どうする外法師? わしに逆らってその哀れな人生をいまここで終わらせるか、命令をのんで生きながらえるかーー選べ」

 八咫烏のぎらりとした赤い浄眼に見下ろされ、鋭い蹴爪をつきつけられながら八雲は返答した。

「……もとより、これ以上あいつらと関わる気はない。鞍馬天狗も、鞍馬天狗に尽くす陽炎も、見ていていらつくだけだ」

 鋭利な蹴爪が離れ、身体を圧迫する力が消えて八雲は解放された。

 黒金は軽い羽ばたきで本堂の出口まで飛ぶと、

「ひねくれた返事だが、ひねくれ者なりの了承と受けとってまあよしとしてやるぜ。この寺でせいぜい無駄な抵抗をするんだな」

 そう言い捨てて飛び立ち、あっという間にその姿は見えなくなった。

「くくく……はーっはっはっは!」

 八雲は床に横たわったまま、哄笑を本堂に響かせた。

「力に物を言わせる? 知恵者八咫烏が、物を言うことを放棄して力に逃げたぞ。よほど俺の言葉が痛かったとみえる。無駄な抵抗をしているのはそっちじゃないか。仕えていた神に捨てられ、唯一の友にも友情が通じず、まったく報われない人生だな、ざまあみろ!」

 蛍と撫子が手の中で騒いでいるのを感じた。

 八雲が手を開くと、蛍がとび出てきて叫んだ。

「八雲様、大丈夫ですか!?」

「聞いていたか蛍、八咫烏のていたらくを! 論術では俺の勝ちだ!」

 つづいて出てきた撫子が悲鳴をあげるように言う。

「八雲様! 血が!」

 ああ、と八雲は思い出したように頬に手をやった。手に赤い血がべったりとつく。身体を起こすと、したたる赤い血が袈裟に点々とついた。

「たいしたことはない。あいつは俺を脅しただけだ。殺しはしない。いや、殺せないんだ。なにせ俺には利用価値があるからな」

 鞍馬天狗は降山したが、まだ自分の身すら護れない雛のようなもの。

 自分の結界術は八咫烏には通用しないが、現実、この術がなければ鞍馬山は護れない。術者を殺して結界術を失うことは、鞍馬山を護るという陽炎の願いに反することだ。

「できることはせいぜい力を盾にして脅すことくらいだ。心配は無用だ」

 撫子は透き通った手で八雲の傷ついた頬にふれる。肉体を失った死霊ゆえにふれることはできないが、ふれていたわるように気遣った。

「何を言ってるんですか。あぁ、ひどい傷……痛むでしょう?」

「生きている証だ」

 蛍が少し怒りながら、八雲の背を押すようにする。

「もう、強がりはいいですから、早く手当を!」

 二人の死霊にせかされて、八雲は水場へむかった。

 水桶の冷水はすぐに血で真っ赤に染まった。凍てつく水で血を洗い流しながら、八雲はつぶやいた。

「いつものことだ……」

 こんな傷みも、落胆も。

「こんなことは、いつものことだ。いつものことだから嘆くには値しない。また一からやり直せばいいだけだ。賽の河原で石を積みつづける子供のように」

 泣きじゃくる子供のように丸めている背は震えている。

「そうだろう?」

 震えながらつぶやく八雲に、二人の女霊はなぐさめるように寄り添う。

 そんな外法師と死霊たちのやりとりを、離れた樹上から大鴉が見下ろし、そして音もなく、声もなく孤独にうなだれた。

 仏の加護を得られない破戒僧、神の加護を失った元神使。

 二人が棲まう鞍馬山の主はまだ加護を与えられる状態にはなく。

 何の加護も得られない二人は憤りをぶつけあい、互いの心身を傷つけあい、うずく傷みに耐えながら身を縮めた。


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