十一
溶けおちた亡骸に手をのばそうとすると、強い目眩に襲われて、天翔丸は前のめりによろけた。
倒れていくその身体を、陽炎が背後から両腕でつかみ支える。
琥珀が驚いて声をあげた。
「天翔丸? どうしたの? 大丈夫!? 天翔丸!」
それに答えることもできなかった。目眩は激しくなり、頭痛と吐き気にも襲われて、声を出すことも身を起こすこともできない。身体にべったりと付着している肉片から死毒が染みこみ冒されていく。
陽炎が素手でそれをいくらかはらい落とすが、完全に除去することはできない。
「半海……!」
陽炎が頼みを口にする前に、うずくまっていた半海が立ち上がり言った。
「陽炎、そのまま鞍馬天狗を支えていよ」
半海が両手をかかげて妖力を発すると、周囲の水が音をたてて動きだした。
渦巻く水が天翔丸と陽炎の身体を巻きこみ、飲みこむことなく緑水の遺体と、そして二人の身にこびりついた腐肉や死毒を洗い落とした。
天翔丸はほうと息をついた。死毒をのぞかれると呼吸が少し楽になり、身体にもいくらか力が入るようになった。だがまだ自力で立ち上がることができず、陽炎の腕にしがみつきながら息を整えることにつとめる。
やがて目眩もおさまってきて、天翔丸は視線を上げてはっとした。
緑水の遺体をふくんで濁った水流が頭上で激しく渦巻いている。渦は遺体の身も骨も粉々に砕き、そして上方へと押し流す。
「半海、何を……!?」
「父の遺骸を粉砕し、鞍馬川の下流へ流します」
緑水の身は淵の上を流れる川の流れにのり、そして骨のひとかけらも残ることなく見えなくなった。
天翔丸は半海に抗議するように言った。
「なんでだよ!?」
「死毒に長くふれればそれだけ寿命が縮まります。一刻も早く死毒をとりのぞき、あなたの身を浄める必要がありましたので」
「だからって……!」
「あなたをお護りするためです!!」
新たな主の大声が淵に響き、余韻が長く尾を引いた。
半海は深呼吸を一度し、そして唖然としている天翔丸と目をまっすぐに合わせて言った。
「鞍馬天狗、あなたは鞍馬山で生きるための習わしをご存知ないのですか?」
「習わし?」
「生物は息絶えた瞬間から死物になります。死骸が狂骨となって、あなたを喰らいにかかるかもしれません。その魂が死霊となって、あなたを呪うかもしれません。父が死物となりあなたを襲う可能性もありますので、私はそれを防いだまで」
絶句する天翔丸に、半海は忠言を淡々とのべた。
「眷属であろうと身内であろうと、そばで誰かが命を落としたら、即刻七星で斬ってください。骸を消し、魂を消して、あの世へと引導する……代々、鞍馬天狗はそうやって生きてきました」
天翔丸は身震いした。
「それが……鞍馬天狗の宿命なのか?」
死物と戦いつづけるだけでなく、身近なものの死を悲しむことも、骨を拾うこともできない。そんな非情な宿命が、他ならぬ自分のものなのか。
「はい」
断言した半海の目は泣きはらしたように赤かったが、しかしもう涙はなかった。父親の落命からいくらもたっていないのに、そのゆるぎない瞳にはすでに強い覚悟が宿っているように見えた。
「地上へお送りします」
半海が手を動かすと、天翔丸たちの足元に薄い水の膜が張られた。そしてそれが上昇しはじめ、天翔丸、陽炎、黒金、琥珀、一同が一気に地上へ浮上した。
水はさらに変化して動いた。地上へと押し上げられた天翔丸たちの濡れた身体から水が引き、とりのぞかれた水滴が雨のように空中を飛んで淵へ戻っていく。一同の濡れそぼった髪や身体や衣が、あっという間に乾いた。
半海は手を下ろすと、水面で跪き、鞍馬天狗にむかって言った。
「こたびのこと、今後のこと……日を改めて、申し開きに鞍馬山へ参上いたします。それまで我ら一族、しばし父の喪に服すことをお許しください。お詫びはそのときに」
天翔丸はうつむきながらつぶやいた。
「詫びなきゃならないのは、俺の方だ」
鞍馬天狗の命を救うため、父の遺体を粉砕して流すというつらい役目をやらせてしまった。
「ごめん……」
水音にかき消されそうなほどの弱い声で、天翔丸は半海に心から謝罪した。
「俺が鞍馬天狗で、ごめん……」
「あなたは父に喜びを与えてくださいました」
思わぬ言葉に顔をあげると、半海がまっすぐこちらを見ながら言った。
「眷属にとって最大の喜びは、主より与えられることです。主のお手にふれていただく、主より言葉をいただく……すべてが眷属の喜びなのです。あなたは父にとって真の主ではありませんが、最後に先代とよく似た神通力を与えられて、至上の喜びを感じたことでしょう」
半海は深々と頭をさげた。
「父の臨終をみとってくださり、ありがとうございました」
それに習うように、水面にいる水尾や淵の中に見える魚たちが頭を垂れるようにする。そして半海は魚の姿となり、水中に消えていった。
見送りながら、天翔丸はようやく半海の本当の目的がわかったような気がした。
手のほどこしようもなかった緑水のあの状態からみるに、おそらく最初から、半海は天紅卵をもってしてももう父を救えないことをわかっていたのではないか。
たぶん、知ってほしかったのだ。鞍馬山から下りてこない、姿すら見せない山の主に、その足元で苦しんでいるものがいることを。その傷みを、苦しみを、知ってほしかったのではないか……。
天翔丸は深い溜息をついた。
臨終をみとってくださったと半海は言ったが、たまたま緑水の死に水をとるような形になっただけで、そうしようと思ってやったわけではない。半海の説得も、琥珀の救出も、緑水の助命も、自分の力では何もできなかった……それが結果だ。
自分のいたらなさと無力さに、出るのは溜息ばかりだった。
「天翔丸……ごめんなさい」
かたわらにいた琥珀が涙をぽろぽろと流しながら言った。
「うちね、天翔丸を助けたかったの……でもうちのせいで、危ない目にあわせちゃった……ごめんなさい……ごめんなさいーー」
天翔丸はふらつく身体を起こし、陽炎の手を離れて、琥珀のそばへ近寄った。
「おまえは俺を護ろうとしてくれたんだろ?」
「でも護れへんかった……天翔丸を護れないと、眷属になれないのに……!」
白い毛並みの大きな身体を震わせながら猫又は泣きじゃくり、琥珀色の瞳からはとめどなく涙があふれつづけている。
天翔丸はその姿をしばし見つめ、ぽつりと言った。
「そんなに俺の眷属になりたいのか?」
しゃっくりあげて泣き震えながらも、琥珀ははっきりとうなずいた。
「うん……」
幼い声は涙にぬれながら一途でかたくなだった。ここで拒絶したら、このままずっと泣きつづけるのかもしれない。
天翔丸は深く息を吐き、そして考えた末の一つの決断を告げた。
「琥珀、約束しろ。もう二度と俺の身代わりになろうなんて思うな。俺のために危ないことをするな。それが約束できるならーーおまえを眷属にする」
琥珀がはっと顔をあげて、涙にぬれた瞳で天翔丸を見た。
「ほんま……?」
「俺より先に死ぬな。絶対にだ。約束できるか?」
琥珀は涙をぬぐい、神妙な顔で言った。
「うん、約束する。ーー約束します」
天翔丸はうなずいた。
「じゃあ……今から、おまえは俺の眷属だ」
見開かれた琥珀色の瞳が明るい色をたたえ、喜びの涙があふれた。
「ありがとう、天翔丸……!」
琥珀は天翔丸の首に抱きつき、天翔丸は大きなその身体を両腕で受け止めるように抱きしめる。それが二人の契りとなった。
琥珀を泣き止ませるために。
琥珀を死なせないために。
眷属にするという選択を、天翔丸はとった。
しゃらん……。
そのとき、錫杖の輪がぶつかりあう音が小さく聞こえた。
音に引かれるようにそちらを見ると、黒衣の背が見えた。こちらからその表情は見えない。陽炎は少し重そうに身体を起こして立ち上がり、鞍馬山の方へ向かって一人歩いていこうとしている。
「陽炎」
天翔丸はその背に呼びかけた。
「大丈夫か?」
鞍馬天狗を助け起こす際に共に死毒にふれたはずだ。即座に半海によって身を浄められたものの、自分と同じように目眩や苦痛に襲われたかもしれない。
そう思ってーー心配して、呼びかけたが返答はなかった。
「陽炎?」
陽炎は足を止めるどころか足を速めて、山を駆け上がり遠ざかっていく。
天翔丸は大声で呼びかけた。
「陽炎! おい……!」
一度も振り返ることなく、陽炎は暗い山奥へ消えていった。
天翔丸はその場に座りこんだまま呆然とした。
(今のは……なんだ?)
声が聞こえなかったのか? いや、たいした距離はなかったのだから、聞こえなかったはずはない。
天翔丸という名を呼ばないどころではなく、こちらを見もしなかった。
問いに答えないどころではなく、呼びかけた声に反応すらしなかった。
これはいままでの拒絶とはわけが違う。
(俺は……無視された、のか?)
そう思った瞬間、強い動悸がして天翔丸は胸を押さえこんだ。予想もしなかったことに動揺し、鼓動も呼吸も激しく乱れる。
(な、なんで……? どうして? 俺は……何をした?)
陽炎が理由もなく鞍馬天狗を無視するはずがない。
必ず何か理由があるはずだ。そうでなければ、こんなことありえない。
(何が悪かったんだ? 半海を説得できなかったことか? 緑水にふれたことか? 琥珀を眷属にしたことか? 七星を手放したことか? それとも、竜王淵に行ったこと事態が間違いだったのか?)
天翔丸は自分の行動を一つ一つふりかえり、理由を探した。しかしいくら考えても答えは得られず、自分のすべてが悪かったように思えてくる。
陽炎は鞍馬天狗を護り育てるのが目的だったはず。
まるでそれを放棄するかのように、置き去りにするなんて。
(俺は……鞍馬天狗失格ってことか?)
最後の鞍馬天狗だと言っていたが、あまりの不甲斐なさに幻滅しあきれてしまったとも考えられる。だから見限られ、見放された。
そうとしか考えられなかった。
死毒は浄められて目眩はなくなったのに、足元が崩れていくような思いがして、天翔丸は地面にうずくまった。
「天翔丸? どうしたの? 大丈夫?」
心配する琥珀の声に答えることもできず、天翔丸は不安の波に飲みこまれうちひしがれた。
鞍馬山の山奥にある尸珞の場。
どんな生物も踏み入った瞬間に石になるという場の生死の境となるところに、陽炎は立っている。
後を追って飛んできた黒金は、その背後にふわりと降り立った。
「あいつは眷属というものを全くわかってねえよなァ。主と危険を共にするのが眷属なのに、琥珀に出した条件が『身代わりになるな』『危ないことをするな』ときた。あんなのは主従とは言えねえよなァ」
同意を求めて話しかけたが、返答はこなかった。
陽炎は尸珞の場を見つめ、立ち尽くしたまま微動だにしない。
「陽炎、どうしたァ?」
「天翔丸に眷属ができた……」
陽炎は淡々とした声で、ぽつりぽつりとこぼれ落とすように言う。
「琥珀が最初の眷属だ……半海も遠からず眷属となるだろう。あれほどこじれていた因縁を払拭し、竜王淵のものたちの心をつかんだのだ。天翔丸は大丈夫だ……これから先、多くの眷属に恵まれ、皆から慕われて……きっと良き主になる」
「わしにはそうは思えねえなァ」
陽炎の展望に、黒金は異を唱えた。
「いくら眷属ができようと、あいつはもっとも献身的に尽くしているおめえを軽んじている。何もわかっちゃいない、どうしようもねえ主だ」
「どうしようもないのは、私だ」
陽炎はうなだれてつぶやいた。
「一番の問題は、この私だ」
黒金は眉をひそめた。
「そりゃあ一体どういうことだ?」
「守護天狗には眷属が必要不可欠だ。主は一人では主たりえない、眷属がいてこそ主となれる。いま天翔丸にもっとも必要なのは眷属を従えていくことだ。鞍馬天狗としての将来を思うなら、天翔丸に眷属ができたことを喜ぶべきなのだ。なのにーー喜べなかった」
陽炎は両手で顔を覆い、震える声で胸中を吐露した。
「天翔丸に眷属ができたことを、私は喜べなかった……!」
「喜べないのは当然だろ。主従のなんたるかを何もわかってねえ琥珀を眷属にするなんざ、賢明な判断とは思えねえ」
「いや、違う。眷属になにより必要なのは、命をはって主を護る覚悟だ。それがあることを琥珀は証明した。天翔丸の判断は賢明だ。琥珀は眷属にふさわしい。愚かなのは私だ……私は、嫉妬した」
激しい感情に陽炎の顔がゆがんだ。
「私には鞍馬の眷属になる資格がない。どうあがいても眷属にはなれない。わかっているのに……『眷属になりたい』という願いが叶えられた琥珀に、嫉妬したんだ……!」
二人が主従の契りをかわす姿に、平静を装うことができなかった。
とてもあの場にいられなかった。
だから、逃げた。
「『鞍馬天狗に眷属ができるのを阻んでいる』ーー水尾の言うとおりだ。そんなつもりはなかった、だが無意識に、阻もうとしていた。私は天翔丸を竜王淵へ行かせたくなかった、そこには眷属の資格があるものたちがいるからだ。半海には鞍馬の眷属になれると、さも忠義面で言っておきながら、その実、胸の奥底ではそうならなければいいと思っていた。眷属ができれば私は天翔丸のそばにいられなくなる、ならば、ずっと眷属などできなければいいとーー!」
「陽炎!」
声を荒らげる友を、黒金は止めた。
「落ち着け。わしはおめえという奴をよく知っている。おまえはそんな奴じゃねェ」
陽炎は首を横にふった。
「おまえは私の醜さを知らない。守護天狗を墜とすという大罪を犯しておきながら、今さら眷属になりたいなど……身の程をわきまえぬ浅ましい願いだ。だが捨てられない……未練を消せない……どうやっても、感情を殺せない!」
消そうとすればするほど。
殺そうとすればするほど、あらがうように思いは胸の奥底で激しく渦巻く。
「守護天狗に眷属ができるのを阻むなど、絶対に許されないことだ! そんなことは断じて願ってはならない! 私は過ちを繰り返そうとしている……私のこの感情が、いつか必ず天翔丸の災いとなる」
それは経験からくる結論だった。
ふだんいくら感情を抑えていても、それはいざというときの行動に現れ、判断を間違う起因となる。十五年前、それによって先代の鞍馬天狗が墜ちた。
「私は災厄だ……鞍馬天狗の災厄だ……」
山間を吹きぬけてきた風が陽炎の背から吹きつける。
陽炎は風に抵抗せず、その身体が尸珞の場の方へ傾いた。
「陽炎!」
黒金はあわてて陽炎に飛び寄る。が、その前に陽炎は自ら踏みとどまり、後方へ退いた。
黒い翼で陽炎を覆いながら、黒金は叱りつけるように言った。
「陽炎、おめえ……いま死のうとしただろォ!?」
「死んで鞍馬天狗を護れるのなら、とうにそうしている」
陽炎は黒い翼をふりはらって友から離れる。
「できることなら己を呪い殺し、この身を八つ裂きにして、この世から消え去りたい。だが駄目だ……『鞍馬の眷属になりたい』という願望をもったまま死しては……未練を抱えたまま死んでは、死にきれない。強い願望は遺恨と化す……いま死ねば、私は鞍馬天狗の怨敵ーー死物となってしまう」
もし死物となって、鞍馬天狗に襲いかかるようなことになったら。
想像するも恐ろしくおぞましい事態だ。
「それだけは! それだけは、なんとしても避けなければならない……! 避けられる方法は、ただ一つだ」
「なんだ、その方法ってのはァ?」
「七星だ」
黒金は陽炎のいわんとすることがわかって、愕然とした。
「陽炎、まさか……!」
「七星ならば、この呪われた身もこの浅ましい願いも、私という存在ごと跡形もなく消し滅ぼすことができる」
「鞍馬の眷属になるためじゃなかったのかァ? そんな莫迦げたことのために鞍馬天狗を待っていたのか、十五年も!」
「緑水の高潔な死を見て思い知らされた……私はあのようには死ねないと。無念はあっても未練を断ち切り、遺恨を残さずに死す……あれこそが真の鞍馬の眷属だ。私はあのようにはなれない。罪の有無以前に、もともと私には眷属の資格はなかったのだ」
「ちょ、ちょっと待て! だからって、死ぬこたァねえだろ!?」
「天翔丸は武術の才能に恵まれている、すぐに私など越える。教えられることをすべて教えて武術の修行が終了したのち、私は天翔丸に憎まれ、七星で斬られてこの世から消滅する……さすれば、鞍馬天狗の災厄は消え失せる」
「陽炎! 待て、陽炎!」
友の制止に足を止めることなく、陽炎は闇に飲みこまれるように山奥へと消えていった。
水底に汚泥がたまるように、長く胸中に秘めた思いは心の深淵に降り積もって澱みとなる。陽炎は自ら救いもない、光も届かない澱んだ深淵へと、さらに深く沈んでいった。