十
瞬間、止まっていた世界が動きだした。
天翔丸は手中にきた七星に渾身の神通力をそそぎこんだ。
ズザアアアア……!
滅ぼしの力で大量の水が音をたてて消えていく。天翔丸は押し寄せる水を消し、水に含まれる空気を残すという剣技をやってのけた。それで水中にわずかな空間がひらく。
しかしそれが限界だった。自分と陽炎が呼吸できるほどの小さな空間を維持するのが精一杯で、突破口を開くことはできない。
「半海! 半海! もう一度、話しを……!」
天翔丸は大声で呼びかけた。
だが、それ以上は言葉を発することができなかった。大声を出すと呼吸が乱れ、集中力と神通力が途切れそうになる。しかも猛烈な勢いで神通力を消耗していき、この状態もあまり長くはもちそうもない。
すると陽炎が飲んだ水を吐き捨て、天翔丸の代わりに声をはりあげた。
「半海、覚えているか! 昔、交わした約束を!」
返答はない。
陽炎はさらに声を大きくして呼びかけた。
「おまえは私に竜王淵を見せ、私はおまえに鞍馬山を見せた! 私たちは互いに夢を語り合い、そして、約束を交わした!」
激しく渦巻く水中から、半海の弱々しい声が返ってきた。
「……約束……?」
「『共に、鞍馬の眷属になろう』ーーそう、誓い合った」
その言葉に、半海の妖力が大きくゆれるのが感じられた。水中に現れた魚眼が食い入るように陽炎を見つめ、そして半海が驚きをあらわにつぶやいた。
「その目、その蒼……おまえ、もしや陽炎か?」
陽炎は小さくうなずいた。
「そうだ」
水はまわりを激しく渦巻いている。その水の動きがわずかに変化し、とまどいに大きくうねった。
「嗚呼……陽炎、生きていたのか……先代の鞍馬天狗が墜ちたとき、鞍馬の眷属もろとも、おまえも死したと思っていた」
「私もだ。あのときおまえも、おまえたち一族も、すべて死に絶えたと思っていた」
水越しに二人は互いを一心に見合う。
半海が懐かしげにつぶやいた。
「おまえの目、変わらぬな……一点の曇りもない、濁りもない、竜王淵のように蒼く清らかなその目が、私は好きだった」
その言葉を聞いて、天翔丸の問いがひとつ解けた。
(そうか)
竜王淵の色、美しい蒼、道理で見覚えがあるはずだ。
(陽炎の目の色と同じなんだ)
自身の力で濁ってしまった淵の底で、半海は声をゆらした。
「陽炎……おまえと幼き日に交わしたあの約束は、世の理も知らぬ幼子の戯れ言、しょせんかなわぬ夢物語よ。だが……おまえは初志を貫き、鞍馬天狗をお護りしているのだな……それに比べて、私は……私は罪を犯した……あろうことか、鞍馬天狗に危害を……!」
「おまえは罪を犯してなどいない! 鞍馬天狗はまだ生きている!」
陽炎はあらんかぎりの声をはりあげて訴えた。
「半海、おまえならなれる! 鞍馬の眷属になれる!」
荒れ狂う水中で半海は苦しげにつぶやいた。
「眷属にはなれぬ……私には無理だ」
「昔、おまえは言っていた! ただ命令に従うのではなく、本音で語り合えるような主従になりたいと! 先代の鞍馬天狗ではそれはかなわぬ夢だった、だが新たな鞍馬天狗は違う! おまえと話すために、七星を手放し、竜王淵の底まで来た! 力で抑えつけるのではなく話し合うために! いまもおまえとの対話を望んでいる!」
しゃべることのできない天翔丸に代わり、陽炎はその思いを代弁した。
「おまえの思い、緑水の思い、新たな鞍馬天狗は誠心誠意聞いてくださる! もう一度、もっと、話してほしい! 話せばーー!」
「話さずともわかる。ここまでの危険を犯して、猫又一匹を救いに来られたのだ……これまでの鞍馬天狗とは違う、お優しく慈悲深い方なのだとわかる」
「ならばーー!」
「問題は鞍馬天狗ではない、この私なのだ」
半海は天翔丸を見て言った。
「鞍馬天狗、私はあなたの眷属にはなれません……あなたの護山を護るお手伝いがどうしてもできません。私は……私は、父の命を奪った鞍馬山が憎くて憎くてたまらないのです……!」
憎しみを口にしながら、半海は泣いているようだった。
あふれる涙が水と混じり、その姿がぶれて見える。
「息子の私が竜王淵の主となり、鞍馬の眷属となることが父の望みなのに……その望みを叶えて父を安心させたいのに、それがどうしてもできないのです。私は愚かな親不孝者です……責められなければならないのは、あなたではなく私なのです……!」
自責の念が激流を巻き起こし、淵の底はさらに荒れていく。
(違う! 半海、おまえは何も悪くない!)
天翔丸は七星で押し寄せる水を消しながら、心中で叫んだ。
(親の命を奪われて平気な奴なんかいない! おまえが憎むのは、当たり前だ!)
しかし、それを声に出すことができなかった。
七星でただ水を斬り消すだけならそれほど難しくはない。だが斬るものを選別することが難儀だった。激流の中には、押し流されている岩魚たちがいる。気をつけないと水と一緒に彼らまで斬ってしまう。
神通力と集中力を切らさないように歯を食いしばっていると、半海が声を震わせて言った。
「鞍馬天狗、私を罰してください……あなたが墜ちれば、また竜王淵に死毒が……どうか私を斬り、竜王淵を救ってください!」
確かにそれは一つの解決方法ではある。半海を斬れば激流は消え、この窮地から脱することができるだろう。
そうすることを促すように、また頭に七星の声が響いてきた。
ーー滅ぼせ……それがその者の願いだ。
(違う! そんなのは半海の本当の願いじゃない!)
半海が大きなうねりと共に七星めがけて向かってきた。
「鞍馬天狗、どうか……!」
天翔丸は焦った。呼吸する空間を保つだけで精一杯の状態で、押し寄せる水と半海を選別して斬るのはいまの自分には不可能だった。
さらに半海が七星の滅ぼしの力に身を投じようとこちらへ向かってきた。
ーー滅ぼせ……生きるために、滅ぼせ。
追いつめるように迫ってくる声を、天翔丸は怒鳴り声でかき消した。
「滅ぼさねえって言ってんだろっっ!」
そして半海を救うために、七星にそそぎこんでいた神通力を、ぴたりと止めた。
できたのはそこまでだった。
次にどうすべきか考える間もなく、もはやなすすべもなく、陽炎と共に水に飲まれようとしたーーそのときだった。
突然、頭上から竜巻が吹きおこった。
強風が深い淵を突きぬけ、寄せる水を吹き飛ばして、天翔丸と陽炎を護るように吹き巻いた。半海たちが起こす渦とは違う。風は水中ではなく天から起こっている。
天翔丸は天を仰ぐように、竜巻の先を見上げた。
(これは……!)
自然現象ではない。何者かの力を感じる。半海の妖力を圧倒するほどの強大な力が風となり、押し寄せる水を吹き飛ばしている。
やがて頭上から、その力の主が現れた。
轟と音をたてながら竜巻の中を突きぬけてきたのは、一羽の大きな鳥だった。矢のような勢いで迫ってきたそれは、大きな黒い翼を広げて勢いを落とし、天翔丸と陽炎の前のふわりと降り立つ。
天翔丸は鋭利な嘴のある顔を見て、その名を叫んだ。
「黒金!」
黒金は冷ややかなまなざしで天翔丸を一瞥し、その身を覆い護ろうとしている陽炎に言った。
「ほらみろ、案の定じゃねえかァ。そいつに説得なんざ、どだい無理な話だったんだよォ」
そして大きな翼をふり、羽ばたきで風を起こした。それはただの風ではない。これと似たような風を天翔丸は見たことがある。
意志をはらんだ旋風から特別な力を感じる。
(これは……神通力か?)
天狗が神通力をもって羽団扇で風を起こすのとよく似ていた。
しかも強さは段違いだ。黒金は羽団扇よりも大きな翼で吹きまく強風をおこし、大した労もなさそうに水をのけると、底に倒れている半海に言った。
「おい、一番の親不幸がなんだか知ってるかァ? 親を助けられないことでもなねェ、親の期待に応えられないことでもねェ、子が親より先に死ぬことだ」
半海がはっと顔を上げ、黒金を見る。
「しかも死に際に目の前で息子に死なれちゃあ、目もあてられねえ。死んでも死にきれねえぞ」
半海の目からゆれが消え、気迫で光を帯びる。
「わしが水を抑えて助力してやる。気合いを入れて、水を鎮めな」
半海は立ち上がり、深呼吸をし、両腕を掲げてその身体から力強い妖気を発した。
ゴゴゴゴゴ……!
音をたてて淵全体の水が動きだした。荒れていた流れはみるみる消え、大きく緩やかな流れとなって元の清澄な淵へと戻ってゆく。
半海は再び巨大な渦を発生させ、天翔丸と陽炎の周囲に大きな空間を作った。
やがて流れに翻弄されていた岩魚たちの姿が水中に見えてきて、水尾が滑るように半海に駆け寄った。
「半海様! ご無事ですか!?」
「ああ。すまない……皆、無事か?」
無事を知らせるように、水中の岩魚たちそれぞれから波紋がおこった。
半海はうなずき、一方に向かって片手をのべる。その妖力で水中から一つの泡が近づいてきて、中にいた琥珀が空間へと解放された。
「天翔丸〜!」
「琥珀!」
琥珀は泣きながら駆け、天翔丸にがばっと抱きついた。
「琥珀、大丈夫か? 怪我はないか?」
「うん……!」
「良かった……」
白い毛をなでほっと息をつきながら言うと、厳しい声がそれをとがめてきた。
「全然良くねえだろ。わしが来なけりゃ、おめえら死んでたぞ」
天翔丸が顔をあげると、黒金が鋭い眼光で射抜くように見下ろしてきた。
「主っつーのはな、口先だけでできるもんじゃねえんだよ。言ったことを実行し、結果を出さなきゃならねえ。おめえは、こいつらを説得すると大口をたたいておきながら、失敗した。琥珀を助けることもできず、あげく自分も溺れ死ぬところだった。しかも陽炎を巻き添えにして」
怒りがおさまらないのか、濁声がいつになく刺々しい。
「おめえは何も成せず、何一つ護れなかったーーこれが結果だ。おめえが招いた、最悪の結果だ」
天翔丸は七星を力なく下ろし、荒い呼吸をくりかえしながらうなだれた。
黒金がわずかな会話で半海を説得し、強大な力で後押しし、結果琥珀まで救出してしまったのを目の当たりにし、思い知らされる。
自分は何一つできなかった……うなだれる他ない。
黒金は腹立たしげに溜息をつき、天翔丸のかたわらにいる陽炎に問いを投げた。
「陽炎、おめえがそいつを信じ、つきあってやった結果がこのざまだ。これでもまだ、そいつを護る価値があるっていうのかァ?」
陽炎は天翔丸の前にかばい立ち、いっさいの考慮もなく答えた。
「無論だ。鞍馬天狗は、何をおいても護られなければならない存在だ」
「まともな鞍馬天狗ならなァ。だがそいつに、その資格があるのかって訊いてんだよ」
「ある。他に鞍馬天狗たる資格をもつものはいない」
「だとしてもだ、我慢にも限度ってもんがーー」
「おまえの見解は間違っている」
陽炎は黒金の言葉を断ち切った。
「黒金、なぜわからない? 資格云々などもはや考慮すべき問題ではない。考えるべきことは、新たな鞍馬天狗をいかに護り、いかに鞍馬山を護っていくかだ」
「それはおめえの義務じゃねえだろ。このままじゃおめえはそいつの巻き添えを食って、いつか死ぬ。わしは友を失いたくない。おめえが心配なんだよ」
「無用の心配だ」
「陽炎」
「鞍馬天狗を窮地から救ってくれたことの感謝はする。だが鞍馬天狗を蔑むものを、私は友とは思えない」
陽炎は友を突き飛ばすように言って、そして半海とむきあった。
「半海、おまえが憎むべき相手は鞍馬山ではない。新たな鞍馬天狗でもない。ましておまえにも罪などない。すべての罪は、私にある」
半海が眉をひそめた。
「おまえに? それはどういうことだ?」
「鞍馬山から死毒が発生し、それによって緑水が寿命を縮めたーーすべては先代の鞍馬天狗が落命したためだ」
陽炎は淵に響き渡らせるように、はっきりと、己の罪を告白した。
「先代の鞍馬天狗を墜としたのは、この私だ」
竜王淵の底が大きく揺れた。岩魚たちの驚きが波紋となり、幾重もの波となって水を揺さぶる。
天翔丸は呆然と黒衣の背を見つめた。
(それって……陽炎が威吹を殺した……ってことか?)
威吹は自分の父親だという。ならばーー
(陽炎は、親の仇……ってことか?)
あまりのことに最初はぽかんとし、やがて大きな驚きがわき上がってきて胸に広がっていく。
陽炎は一同に事実を知らしめるように述べた。
「私がすべての元凶だ」
半海は驚きをあらわに叫んだ。
「なにを莫迦なことを……ありえない! おまえがあの先代を墜とせるわけがない、おまえにそんなことができるわけがない!」
「それが事実だ。おまえたちが憎むべきは、この私なのだ」
黒金が溜息をつきながら言う。
「だからよォ、それが事実だとしても、おめえが責めを受けたって仕方ねえだろ。おめえには何の責任もねえんだからよォ」
「責任はなくとも、私に罪があることは明らかだ。新たな鞍馬天狗に罪はない。責めるなら私を責めろ」
全身からしたたり落ちる水をぬぐうこともせずに、寒さに震えながら、陽炎は自責の言葉を発しつづける。
天翔丸はその背を見つめながら目を潤ませた。
威吹を墜としたという陽炎の告白を、どう受け取り、どう思えばいいのか、よくわからない。しかし陽炎が己の罪を告白することで、新たな鞍馬天狗をかばっていることはわかった。
かばいながら矢面に立ち、責めの矢を一身に受けようとしている。
巻き添えを食って命をおとしかけた陽炎には、誰よりも責める権利があるのに。反論もできない鞍馬天狗を弁護し、非難や叱責から護ろうとしているその姿に、胸が締めつけられるような思いがした。
「山を護り、そこに棲むものたちを護ってこその守護天狗だろうが。そいつには山を護る気がねェ。それでもーー」
黒金の批判を打ち払うように、陽炎が怒鳴った。
「それでも! 天翔丸が、鞍馬天狗だ!」
名を呼ばれた瞬間、鼓動がどくんと跳ね、わき上がる強い感情に天翔丸の全身が震えた。
とまどっていると、淵の奥底から低い声が響いてきた。
「その見解に、私もご賛同いたす……」
岩魚たちが一斉に声の方をむき、半海が悲鳴をあげるように叫んだ。
「ち、父上!」
底の奥底にある岩穴から竜王淵の主が現れ、その姿に、天翔丸は息が止まるほどの衝撃を受けた。
(あれが……緑水!?)
原型はおそらく、半海と同じような半人半魚だ。
まだ生きてはいる、だがその身体はもはや死に身同然だった。動くごとに腐り果てた身体のあちこちが崩れて、わずかに身をゆらすだけで黒ずんだ鱗や肉片がぼろぼろと落ち、ところどころ骨が見える。飲みこんだ死毒がその身から漏れ出て、主をとりまく蒼く清澄な水が墨を落としたようにじわりと濁った。
ゆっくりとのたうつように這い出てきた緑水が渦の空間に入ってきた瞬間、強烈な腐臭が鼻をつき、天翔丸は思わず手で鼻を覆った。
緑水の状態は、半海からも陽炎からも言葉で聞いてはいた。
ーーー鞍馬山から染み出る死毒を飲みつづけ、寿命を縮めた。
頭ではわかっていたつもりだったが、死毒を飲みつづけるということがどういうことなのか、緑水の姿を目の当たりにしてその壮絶さに戦慄する。
これで生きているなんてとても信じられない。
目を背けたくなるような、見るも無惨な姿だった。
「父上! いけません、動いてはお身体が……!」
駆け寄ろうとした半海に、緑水の一喝がとんだ。
「ならぬ」
弱々しくも重みのある声に、半海の足が止まる。
緑水は頭をもたげて半海の方をむいた。
「死毒にまみれたこの身に近づけば、おまえも毒される。来てはならぬ……下がれ、半海」
白濁した両眼は眼窩からいまにもこぼれ落ちそうで、おそらくもう目は見えていない。なのに、見るものを圧倒するような気迫がある。
「下がって、聞け……父の遺言を」
緑水は崩れゆく身を持ち上げるようにして立ち上がり、黒金と向き合った。
「八咫烏……神に仕えしあなたにも、主の在りように様々なお考えがありましょう。ですが、鞍馬天狗は我らにとってかけがえのないお方……十五年の時を待って現れた待望の主にございます。責めるのは、どうかそれまでに」
黒金は同情と哀れみに満ちた溜息をついた。
「眷属の鏡と言うべきか……だが忠義を尽くした成れの果てが、その姿だ。そんな目に遭っても、まだ忠誠心はなくならねえのかァ?」
「いささかも」
「こいつに鞍馬山を護る気はさらさらねえ。そんな主に不満はねえのかァ?」
「山を護ることに疑問をもちながらも、鞍馬山に降山してくださった……そのおかげで死毒の流入が止まり、我ら一族は救われました。我らにとってこの結果がすべてにございます」
「結果、たまたまそうなっただけだぜ。自覚もやる気もねえ主に運命を握られていることに、悲観はねえのかァ?」
「喜びこそあれ、何を悲観することがありましょう」
緑水は肩を上下させて懸命に息をしながら、息子の方を見やった。
「半海……おまえもそうなのであろう? 竜王淵へと潜り、おまえと向き合ってくださった……このような方が鞍馬天狗であることが、戸惑うほどに嬉しかったのであろう?」
半海は思いを噛み殺すように口をつぐんでいる。
緑水はそれをほどくように言った。
「死にゆく父のために、その喜びを無にしてはならぬ」
「しかし……私は悔しいのです! 鞍馬天狗のために忠誠を尽くしてきた父上がこのような目に遭われることが……私は、父上の無念を晴らしたいのです!」
「父の無念は死ぬことではない。鞍馬の眷属でありながら鞍馬天狗をお守りできなかった……その一念のみだ」
緑水は一瞬、苦痛に満ちた声をもらし、しかしすぐに穏やかさを取り戻して言った。
「この無念は私が抱えていくもの……おまえが背負うものではない」
「しかし……」
「半海、おまえはいつも自分の気持ちをせき止めていたな。良き息子であろうと、無理をしていた……だが、水をせき止めてはいつかあふれる……心もまたしかりだ。思うままに流れてみよ。新たな鞍馬天狗とならばできよう……本心を語り合える、このお方とならば」
「父上……」
緑水は息子に向かってうなずき、そして今度は陽炎の方を向いて言った。
「十五年前、あなたと威吹様に何があったのか、私は知りません。ですがこれだけはわかります。何があろうと、威吹様はあなたを責めたりはなさらない……決して」
陽炎は返答こそしなかったが、緑水をまっすぐに見つめ、その言葉を受け止めているように見えた。
天翔丸は奇跡を見るような思いで、目の前の光景を見つめた。
(これが緑水か)
自分の命がまもなく尽きようというときに。
温かみのある言葉でこの場にいるものたちの心を鎮めていく。
轟音を立てながら激しく渦巻いていた周囲の水が、いつのまにかゆっくり穏やかに流れている。
(これが竜王淵の主……!)
深淵を浄めていくそのさまは、主というにふさわしい姿のように思えた。
「新たな鞍馬天狗よ……」
緑水は重たげな身体を持ち上げるようにして動かし、こちらに向かって膝をついた。
「お礼を申し上げます。我が命が尽きる前に、よくぞ降山してくださった」
「ーーやめてくれ!」
天翔丸はたまらず叫んだ。
「俺は……あんたに、そんなふうに言われるような立派な主じゃない! 俺は、何もできなかった!」
勢いのままに淵にとびこみ、波を立てて荒らしてしまっただけで。
いたたまれない思いで拳を握りしめていると、緑水が優しくすくいあげるように言った。
「あなたは護ってくださったではありませんか。竜王淵を……我が一族を……そして息子を……滅ぼさずに、救ってくださいました」
天翔丸は泣きたいような思いにかられた。
死に瀕している緑水の目に果たして何が見え、その耳に何が聞こえていたのか。滅ぼせという七星の声を振りはらって滅ぼしの力を止めたーーその自分の精一杯の行為をわかってくれるものがいることに、胸が震える。
そのとき、緑水の身体がぐらりとかたむいた。
「緑水!」
天翔丸は叫ぶと同時に踏み出していた。濡れた岩を蹴り、滑りこむようにして倒れる緑水の身体を両腕で受け止める。
受け止めた衝撃で黒ずんだ鱗がボロボロと落ち、死に身がさらに大きく崩れた。腐り落ちた肉片が手や衣にべったりとつき、目にしみるような強い腐臭で息がつまる。だが天翔丸はかまわずその身を包みこむように抱き、そしてありったけの神通力をそそぎこんだ。
以前、雲外鏡に教わった。神通力はこの世でもっとも強い生気、弱っている生物を回復させることができると。
天翔丸は緑水を蘇生させるため、渾身の神通力を発した。
緑水が息絶え絶えに言った。
「鞍馬天狗……いけません、私にふれては……あなたまで死毒に……」
死毒がじわりと身に染みこんでくるのを感じながら、天翔丸はさらに身を寄せ、神通力を強めた。
「あんたはこれを飲みこんできたんだろ、十五年も……!」
鞍馬山から染み出る死毒ーー緑水を介してそれにふれて、身をもって感じる。身体を内側からねじられるような激しい痛みと、今にも呼吸が止まりそうな苦しみと恐怖。
ふれるだけでこれほどの苦痛に見舞われるのだ、これを飲みつづけることがどれほどの苦行か。竜王淵を護るために自ら犠牲となり、十五年も苦難に耐えてきた末、行き着く先がこんな死であっていいわけがない。
死なせてはならない。
心の底から涌き出す思いを、天翔丸は力いっぱい叫んだ。
「緑水、死ぬな!!」
声は大きく響きわたり、周囲の水に波紋を起こして、半海や竜王淵にものたちの元まで広がっていく。
しかし、すでに手遅れだった。
注いだ神通力は緑水の身に吸収されることなく、すべてこぼれ出てしまう。死に身にはもはや生気を受け取る力すらなかった。
緑水は浅く弱い呼吸をしながら目元をやわらげた。
「『死ぬな』とは……あなたは威吹様とはずいぶんと異なる鞍馬天狗ですな……しかし強く温かな神通力は、よく似ておられる……」
神通力の光を浴びながら、緑水は安堵したように息をついた。
「我が死を惜しんでいただくには及びません。私の心は、威吹様が墜ちたときに共に果てました……十五年……次代の鞍馬天狗が降山するまで、淵と我が一族を護ることのみを望み、生きながらえて……その望みは叶えられました」
その表情に苦痛はなかった。救われたような、満たされたような微笑みが見てとれる。
「鞍馬天狗、いつまでもお元気で……御身を大切に……あなたの御代が末永くつづくこと、心よりお祈りいたします……ーー」
緑水の息が絶え、力が尽きた。腐敗した身が溶けるように流れ落ち、骨がばらばらと崩れて、救い上げようとした天翔丸の腕からこぼれ落ちていく。
「父上ーー……っ!」
半海の悲痛な叫びが竜王淵にこだまし、魚たちの嘆きで水が大きく波打つ。
竜王淵の主は、最後に鞍馬天狗の健勝を祈りながら、その腕の中で生涯を終えた。