竜王淵の主 一
そこは闇のような深淵だった。
水は清らかで透明度は高いが、その深さゆえに光が届かず、地上からいくら目をこらしても中を覗き見ることはかなわない。石を投じても淵に吸いこまれて消えてしまい、水中に潜ろうにも水の冷たさに耐えきれず出るしかない。
地上に棲むものたちを拒む深淵の底。
そこで、彼らは生きていた。
「今宵が峠かと」
この淵の主の命に終わりが近づいているのを、その従者がぽつりと告げた。
夕暮れ、地上では強い風が吹いており淵の水面は大きく波立っている。波は風や流れこむ川の流れによるものばかりでなく、淵の底からも生じていた。淵に棲んでいるものたちがさめざめと泣き、その嘆きがさざ波をおこして底から淵全体へと広がっていく。いま、淵は深い悲しみに満ちていた。
「なぜだ……」
震えながら疑問を投じたのは、若き青年の声。
「なぜ父上がこのような目に遭わねばならんのだ?」
声だけでなく、主の息子である彼の鱗におおわれた拳も小刻みに震えている。
父の死因が寿命をまっとうしてのものなら、誰もが通る道だからと静かに臨終を見守ることができたかもしれない。怪我や病に見舞われたのなら運が悪かったとあきらめもつく。悪事を働いた末にその報いを受けて死をもたらされたというのなら、これも因果応報とまだ納得がいく。
だが父は死を下されるような罪など犯しておらず、まだゆうに百年は生きられるはずだった寿命をこの十五年の間に急速に縮めて、苦痛の末にまもなく死にいたろうとしている。
納得がいかないのは、これがまともな死に方ではないからだ。
「父がいったい何をしたというのだ? なぜ父上が、このように死ななければならんのだ?」
繰り返される息子の問いに、従者が沈痛に答えた。
「緑水様はおっしゃられました……これは竜王淵に棲むものの宿命だと」
竜王淵という名のこの淵には、昔、竜がいたという。入り口こそ池というほどの大きさだが、潜れば巨大な竜の身体をも内包できる深さと広さがあり、なにより清らかで澄みきった水に恵まれている。天から降りてきてこの淵を見つけた竜はここをいたく気に入り、心地よい清流に身を浸した。
しかし水神である竜もこの淵に棲むことはできず、やがて逃げるようにして去ってしまった。今や竜は近づくことすらなく、淵の名にかつて竜がいたという昔話が名残として残っているのみだ。
なぜ竜は去ったのか。
それはこの淵が、鞍馬山の麓にあるためだった。
「我ら一族は代々、鞍馬山の主、鞍馬天狗にお仕えするのが使命です。鞍馬天狗に忠誠を誓い、眷属となって運命を共にする……ゆえに、こうなることも覚悟の上だと緑水様は」
「忠誠を誓った結果がこれだ」
「鞍馬天狗のおかげで、この淵は竜もうらやむほどの清流に恵まれます。鞍馬天狗がいるからこそ、ここは我ら一族の安住の地となりえるのです」
従者の言葉に、息子は吐き捨てるように言った。
「安住? 私は生まれてこのかた、この地に安らぎを感じたことなどない」
竜王淵は鞍馬天狗のなわばりの中にあり、その支配下にある。
思えば、先代の鞍馬天狗が山を統治していた御代も、はらはらしどおしだった。先代は天狗という生物の型からはみだすような破天荒な天狗で、山を護る主でありながらたびたび山を出奔し、行方不明になっていた。
鞍馬天狗が山から飛び立ったと聞くたびに気が気ではなかった。大丈夫なのか、鞍馬天狗は帰ってくるのか、何度も父に問いかけた。
父はただ「大丈夫だ」と微笑むばかり。
確かに父の言うとおり、先代はいくらかたつと帰山し、それなりに山を治めてはいた。
しかし胸をなでおろすたびに思った。
本来、主と眷属という関係は対等の立場で結ばれる。
だが自分たちに選択肢はない。自由も、異を唱える権利もない。
これでは眷属ではなく隷属だ。
「私は鞍馬天狗の奴隷になるなど、ごめんだ」
「いまはその話はやめましょう。今宵が最後の時です。皆で緑水様を静かにお見送りいたしましょう」
「おまえたちはこれでいいのか? 父上は誠心誠意、山の主に仕えてきた。その見返りがこれか? こんなむごい仕打ちが許されていいのか!?」
いつの間にかすすり泣きがとまり、重い静寂で淵が張りつめている。
誰からも慕われていた主の臨終。くやしく思わない者などいない。
「今日の災厄にいたった原因は鞍馬天狗にある。山の主でありながら己の役目を果たさず、あの悪しき山を長きにわたり放置していたからだ。そのせいで父上は寿命を削られた」
三ヶ月あまり前、新たな鞍馬天狗が鞍馬山に降山した。それは誰から知らされたことでもなく、この淵のものは誰もまだ新たな主の姿を見てはいないが、主が降りると鞍馬山が明らかに変化するため知らされずともわかる。
しかし、もう手遅れだった。
竜王淵は、鞍馬天狗がいるおかげで竜もうらやむほどの清流に恵まれるーーだが、いなかったら。
鞍馬天狗不在の期間は十五年。
それはあまりに長過ぎる年月だった。
先代の代から長く忠義を尽くしてきた父が、山の主の怠慢によって死をもたらされたことにどうしても我慢がならなかった。
「父上は鞍馬天狗に殺されるも同然だ」
「い、いけません、そのようなことを口になさっては! もし鞍馬天狗のお耳に入ったら……!」
「かまわぬ。鞍馬天狗は知るべきだ……己の犯した罪を」
「もうすぎたことです。新たな鞍馬天狗を糾弾したところで、どうすることもできません。あなたは緑水様の後を継ぎ、この竜王淵の新たな主となられるお方。これからの一族のことをお考えください。終わったことにとらわれていてはーー」
「まだ終わってはいない。父上の命はまだ消えていない……消されてたまるか」
息子は噛みしめるようにつぶやき、そして低い声で言った。
「父上を救う手立てが一つだけある……ーー鞍馬天狗に、天紅卵を所望する」
一族の者たちが息をのみ、あたりの水が大きく波打つ。
従者があわてて、
「お、お待ちください! いけません、それだけは……!」
「これまで父も我が一族も、命をとして山の主に忠誠を捧げてきた。その見返りにたかが卵を一つ求めることが何の罪にあたるか」
「で、ですが……!」
止める従者の声をはらいのけて、新たな竜王淵の主が声高らかに宣言した。
「今宵、鞍馬山へおもむき、鞍馬天狗にお目通り願う」
決意の声が深淵の底に響きわたり、淵全体を大きくゆらす。
その声は強い怒りに満ちていた。