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第7話 能登の錫杖~中編~

作者: 目賀見勝利

  《大和太郎事件簿・第7話/能登の錫杖しゃくじょう

        〜竹内文献モーゼ伝説殺人事件〜

           《 中編 》



能登の錫杖16;捜査会議?

東京千代田区桜田門前警視庁捜査一課;2008年11月4日(火) 午前10時ころ


マンションを管理している警備会社にある監視カメラの録画映像を調査した川角刑事が言った。

「ケネディ氏が住んでいたマンションの玄関にある監視カメラ映像とエレベータ内にある監視カメラ映像を調査してきました。各フロアには監視カメラは設置してありませんでした。それで、ちょっと怪しい男がいました。10月25日、土曜日の夜、午後9時30分ころの映像です。」

「どんな男だ?」と円谷係長が訊いた。

「紺色のスーツを着て、サングラスをしている男が、ケネディ氏が殺される前日にマンションを訪問しています。白い手袋をしていましたから指紋は残っていないでしょう。エレベータで上に昇る時の映像では8階で降りているが、下に降りる時はケネディ氏の部屋がある9階からエレベータに乗って来た。そして、昇る時にはスーツの胸ポケットには何も入っていなかったが、降りる時の映像では胸ポケットに白い紙が折りたたんで入れてあった。A4サイズかB5サイズの紙を2回くらい折りたたんだ感じでした。それと、スーツの左胸の内ポケットにはピストルが入っているようでした。エレベータの監視カメラは天井から撮影していますからスーツの胸の膨らみが見えます。そして、内ポケットから拳銃の台尻だいじりが覗いているのが見えました。何故か判りませんがピストルのホルスターはしていなかったようです。」

「ふつう、殺し屋はホルスターをしない。殺しの仕事をした後など、万一、職務質問する警察官などと出くわした場合には拳銃を川や海や植物の繁みに捨てることを考える。この場合、ホルスターの処分に困ることになるからな。水には浮くし、ホルスターを身体から外すには上着を脱がなくてはならないから、面倒なことになる。これを嫌がって、ホルスターを着用しない殺し屋が多い。殺しに取り掛かる時や用心する時には上着の内ポケットに拳銃の握り部を引っ掛けるように収める。スーツや上着が拳銃の重みで垂れ下がってしまうがな。内ポケットが深い場合はポケットの袋の底部を糸で縫いつけて適当な深さに造り変える。マンションの録画映像で拳銃の台尻が見えていたのは用心していたからだろう。たぶん、そいつは殺し屋、ヒットマンだ。」と老練の山口刑事が言った。

「なるほど、勉強になりました。」と若い川角刑事が言った。

「ところで、管理人はその男を目撃していないのか?」

「管理人は通いですから午後5時には帰ります。午後5時から翌朝の8時まで管理人は不在です。そのために監視カメラが設置してあるようです。」

「その胸ポケットの白い紙と云うのは、ケネディ氏の机に置いてあったコピー紙と同じ種類のものだな。」

「たぶん、そうだと思います。コピー内容が何だったかですね。日本語で書かれていたのか、英語で書かれていたのか・・・・?」

「で、その男の足取りは?」

「マンションへは車で来たのか、電車で来たのかを近くのコンビニの監視カメラ映像やJR市ヶ谷駅、東京メトロ市ヶ谷駅、麹町駅の映像を調べました。JR市ヶ谷駅で乗り降りしていますが、何処の駅から来て、何処の駅で降りたかは不明です。現在、監視カメラ調査班がJR各駅の監視カメラ録画映像を調べています。」

「その時刻、ケネディ氏はマンションには居なかったのか?」

「ええ、朝の9時ころに外出して、その日も殺された日にもマンションには戻ってきていませんでした。」

「外出中にヒットマンによって拉致監禁されてクロロホルムなどで眠らされていたか、それとも殺害現場の国会前庭でヒットマンと出会い殺されたか?ヒットマンと待ち合わせをしていた可能性はあるだろうか?日本水準原点標庫で何かを調べている時に殺されたのか?みんなの推理を聞きたい。」と円谷係長が言った。

「現場の状況から殺害現場は国会前庭でまちがいないでしょう。殺し屋が拉致監禁していたのなら、わざわざ国会前庭には連れ出して殺す危険は犯さないでしょう。待ち合わせ、または調査中に突然襲われたと云うところでしょう。」と山口刑事が言った。

「山さんの意見に賛成の者は・・・?」と円谷係長が訊いた。

「全員が賛成か。それでは待ち合わせと考えるか、突然の襲撃と考えるかだが?」

「待ち合わせでしょう。人通りが少ない場所とはいえ、襲う時刻が昼間で国会警備の警官が近くにいる場所を咄嗟に選ぶでしょうか?待ち合わせで、確実に殺せる準備をした上での犯行。二人組かそれ以上の人間が現場へ用心しながら来る。ケネディ氏も人通りはないとしても国会前庭で真昼に殺されるとは思っていない。犯人たちと一緒になって水準原点標庫で何かを確認しようとしていたと推理するのが妥当でしょうか。」と山口刑事が言った。

「水準原点標庫前で何を調べようとしたのかな・・・?」

「それが、殺し屋の胸ポケットに入っていた白い紙に書かれていた内容と関係するのでは?」

「なるほど、書かれていた内容が何かと云うことですね。そして、犯人とケネディ氏とは顔見知りであり、どれくらいの深い関係にあったのか?最近になって知り合ったばかりなのか、以前から付き合いがあったのか?」

「以前からの付き合いであったとすれば、お互いに利害関係があった訳ですから、今になって急に殺す理由はないでしょう。最近、何かの事で知り合いになったと云うことでしょう。ケネディ氏は相手の正体を知らなかったが、犯人はケネディ氏の正体を知って殺害に及んだ。ケネディ氏は単なるアメリカ大使館の職員ではなくCIAの調査官であった可能性がありますね。」

「凶器のピストルはアメリカ軍用拳銃。やはり横田基地の兵器盗難事件と関係していますかね?」と川角刑事が言った。

「よし、その線で捜査を進めよう。今回の我々の特別任務は殺人犯人検挙ではなくテロ集団の摘発にあると云う事を念頭に置いて捜査を続けてください。まずは、ヒットマンの居場所が判ればいいのだが・・・。」と円谷係長が言った。



能登の錫杖17;調査ミーティング?

香港アメリカ総領事館の会議室;2008年11月5日(水) 午前9時過ぎ


「太郎から提案のあった龍唖通信計算機系有限公司と云う通信ソフトを開発するIT企業の調査はどうなっている、馬沢東まーつーとん?」とジョッシュ・オブライエンが訊いた。

「技術部長の宋理永そうりえいですが、太郎が言っていたように、香港マフィア『蛇尾』に脅かされています。先日もホテル『北国酒店』の一室で『蛇尾』の幹部と密会していました。そして、現在も原潜の巡航ミサイル管理ソフトのメンテナンスを担当しています。しばしば、この香湾から海南島の唖龍湾にある中国海軍潜水艦基地に行っています。管理ソフトの設定を書き換えることは可能でしょう。ただ、海軍の技術武官がソフト内容チェックで立会検査をするとのことですから、検査をうまくごまかすか、金銭を渡して技術武官を抱き込むかをしなと設定変更は発見されてしまうでしょう。宋理永の住んでいるマンションには盗聴器をしかけて情報入手に努めています。」と馬沢東が言った。

「香港マフィア『蛇尾じゃび』とオメガ教団との関係はどうだ、スティーブ?」とオブライエンが訊いた。

「日本にいるジョージ・ハンコックと連絡を取りながら調査を進めているが、新しい事は何も判っていない。モンゴルのウランバートル本部、日本の北海道札幌市と富山県高岡市にある支部の近くには監視所を設置し、オメガ教団に出入りする人物の素行調査をしている。盗聴器の設置はまだ出来ていない。近日中に電気工事を装って盗聴器の設置を行う予定です。蛇尾については、馬沢東と連携しながら調査しているが、調査を始めてから今日まで、オメガ教団の人間は香港に来ていない。」

「そうか。引き続きの調査を進めてくれ。」

「ところで、太郎の方はどうだ?」

「武器商人の山極亮輔の新しい動きはありません。しかし、ちょっと気になる事があります。」

「それは?」とオブライエンが訊いた。

「先日、日本に戻っていた時に私の探偵事務所近くでちょっとした拉致未遂事件に遭遇した。その事件で逃げた犯人たちの残して行ったピストルがアメリカ軍用拳銃ベレッタ92FSだった。」

「リチャード・ケネディ殺害に使われたものと同じ種類と云うことか・・・。それで?」

「日本で殺されたケネディ氏と拉致されそうになった宝達という大学教授である古代史研究者と共通事項がないかどうかを調べる必要があるのではないかと私は考えています。宝達教授が狙われた理由は、犯人たちが宝達教授の知識を利用しなければならない謎を手に入れたのではないかと推理できます。特に、古代の文献に記された謎を解明したいのではないでしょうか。ケネディ氏が持っていたその謎を犯人が手に入れたとしたら、その謎を解ける人物が必要になると推理するのですが。」と太郎が言った。

「日本の極東本部にいるジョージ・ハンコックから何か聞いているか、スティーブ?」とオブライエンが言った。

「先日、日本の警察からリチャードの遺体と遺品を引き取ったらしいが、気になる物は何もなかったらしい。リチャードの住んでいたマンションにある物品類は近日中にまとめてアメリカに居るご両親の許に送るようするとか言っていたが・・・。以前にリチャードの部屋を調べたらしいが、気になる物は無かったとジョージは言っていたが。リチャードの物品類をもう一度調べてみる必要があると云うことか、太郎?」

「そういうことだ、スティーブ。古代史に関係する何かがあるのではないだろうか?」

「判った。太郎は日本に戻ってジョージと一緒になって、リチャードの遺物を調べてくれ。ジョージには私から連絡しておく。その他に意見がなければ今日はこれでミーティングは終了する。」とオブライエンが言った。



能登の錫杖18;マンションの再調査

東京市ヶ谷にあるケネディ氏のマンション;2008年11月6日(木) 午前10時ころ


「本日、リチャードの持ち物類を段ボール箱につめてアメリカ本国へ発送する予定だったが、一日だけ延期した。彼が殺されてから、この部屋のものは一切持ち出していない。置いてあった場所からは少しくらい動いている物はあるかもしれないが。今日はこの部屋の調査を太郎に任せる。私は大使館に戻っているから何かあったら電話で連絡してください。合鍵を渡しておくから、終わったらドアーに鍵を掛けてください。」とジョージ・ハンコックが言った。

「ありがとうございます。早速、調査を始めます。」


海外企業の日本駐在員を対象に立てられたマンションらしく、2DKの部屋サイズは日本人向けと比べ、一室の面積が広い造りになっている。天井の高さも日本人向けマンションよりも高い目に造られている。


太郎は、まず書斎机の上に置かれている本に目を向け、さらに壁のところにある本棚を調べた。

「日本語で書かれたL&S出版『秘密のモーゼ書』・・・か。リチャード・ケネディは日本語が読めたのか?あとでジョージ・ハンコックに確かめるとするか。バチカンの絶対禁書『モーゼの黒聖書』ね。白い神と黒い神の戦いか?それに、神を閉じ込めることができる呪文か?モーゼが神をアーク(聖櫃)に閉じ込めた。一言主大神を閉じ込めた役小角えんのおづのみたいだな。21世紀のモーゼが日本に現れる?うーん、モーゼか。すごい内容だな、この本は。机の上にあるのはこれだけか。」と思いながら、太郎は『秘密のモーゼ書』の本を机に戻した。

「机の引出の中は・・・?S&スミス・アンド・ウェソンのレボルバー型ピストルか。これは護身用だな。それと和英辞典か。あとは、特にこれと云った物はないな、机には・・・。本棚はどうかな・・・。本棚にある本は日本道路地図を除くとみんな英語だな。日本語の本は先ほどの『秘密のモーゼ書』だけだな。SF小説と推理小説が多いな。アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終り』、A・E・ヴァン・ヴォークト『ナルAの世界』などのハードSFか。ホードボイルドなレイモンド・チャンドラーの推理小説『大いなる眠り』か、ハンフリー・ボガード主演での映画の邦題は『三つ数えろ』だったな。そして、アガサ・クリスティ『ナイルに死す』に『メソポタミヤの殺人』か。それから、ノンフィクションのG・H著『神々の足跡』か・・・、オリオンの三ツ星と同じ配置にある三つの大ピラミッドね・・・。ふーん、リチャードは謎解き推理が好きだったようだな。それに聖書か。日本の古代史に関する事が書かれた本は無さそうだな。ああ、英語版・世界古代史ジャーナル別冊の日本特集があるな。イギリス・ロンドンにある出版社が発行しているのか。ふーん、日本の著名な古代史学者50名の一覧表か。藤原教授の名前もあるぞ。藤原教授の主研究は中臣鎌足をはじめとする藤原一族の歴史と日ユ同祖論である、か。なるほど、まあ、当たっているかな・・・。それぞれの学者の研究内容を紹介している訳か。宝達教授も紹介されているな。日本の古墳と出土品に関する研究が主である、か。最近は偽書とされる竹内文献の研究にも目を向けている、か。なるほど、よく調べているな。4弾目の棚には本が少ないが、1段目から3段目まではびっしりと本が詰まっているな。あれ!2段目の棚は少し隙間があるぞ。2センチ厚さくらいの本が抜かれているのかな?ハンコックは何も持ち出していないと言っていたな。とすると、誰かが持ちだした?まあ、ケネディ氏本人がどこかへ持って行ったと云うこともあり得るかな。日本道路地図は各県毎のものか・・・、さすがに、これは日本語の地図だな。」


書籍類を調べた後、クローゼットの衣類を調べたが何もヒントになるようなものは出てこなかった。ベッドのある寝室からも何も発見できなかった。

「パソコンが無かったな。無線LAN装置はあったから、携帯パソコンを使っていたのか?しかし、無線LANだと直線距離半径50m以内の近隣者にはベランダで盗聴される可能性があるな。この部屋は9階で地上30mくらいの高さだから、地上からの盗聴も可能だな・・・。仕事関連は大使館で行えばいいから、この部屋にパソコンは必要ないか・・・?」


太郎がそろそろケネディ氏の部屋から引き上げようとした時、玄関からのドアホンがなった。

「はい。」と太郎はドアホンの受話器を取った。

「マンションの管理人です。今しがたケネディさん宛ての海外からの宅急便が届いたのですが。」

「宅急便ですか?」

「ええ。DHLの海外宅急便です。このマンションの住人は日本語のできない外国人の方が多いので、宅急便は管理人の私が受け取ることになっています。」

「お待ちください。今、ドアーを開けます。」と言って、太郎は玄関に向かった。


部屋に戻った太郎は管理人から受け取った小さな荷物を机の前で開けた。

管理人にも立ち会ってもらい、荷物の中身を確認した。

「英語の本だけですね。」と太郎が言った。

「そうですね。あとは伝票と案内文だけですか。」

「ニューヨークの本屋からですね。銀行口座への入金確認に手間取って発送するのが遅れたことを詫びていますね。それだけです。」と案内文を見ながら太郎が言った。

「そうですね。内容物を確認しましたから、私は管理室に戻りますが、よろしいですか?」

「ええ。ありがとうございました。」


管理人が部屋から出て行った後、太郎は届いた本をパラパラとめくった。

「ヒエログリフ(古代岩刻文字)と神代文字に関する本か。エジプトの石碑に書かれているヒエログリフ(象形文字)の読み方が書いてあるな。象形文字が彫られているオベリスクの写真か。オベリスクを見ると、天空に切っ先を向けた巨大な剣を思い浮かべるな・・・。それと、神代文字の読み方も書いてあるな。宝達教授とケネディ氏に共通する事項は古代文字とベレッタ92FSか・・・。やはり、犯人たちは宝達教授の古代文字に関する知識を必要としているのかな?古代歴史に関する知識も必要としているか・・・。そして、古代の地名の現在の場所も・・・。それと、犯人たちの拳銃の入手経路はどこか?そこから犯人の絞り込みが出来る可能性があるな。しかし、この犯人たちが巡航ミサイルの暴発に関係しているとは限らない。ひとつの可能性と云うところだな・・・。無駄に終わるかな・・・。あくまでもケネディ氏殺害犯人と宝達教授を襲った犯人が同一組織の人間であり、この犯人グループがミサイル暴発の黒幕であると云う仮定での捜査になることを覚えておかないといけないな。斜視やぶにらみ的な推理だから深入りは禁物だ。」と太郎は考えを巡らせ、自分に言い聞かせた。


ニューヨークから届いた本を机の上においた後、部屋の玄閑ドアーに向かい掛けた。その時、太郎の脳細胞が太郎に二つの事件の共通項を告げた。

「岩刻文字に石碑か・・?そういえば、宝達教授は石動山いするぎやまとか言っていたな。能登の石とエジプトの石か?ケネディ氏殺害と宝達教授拉致未遂事件は能登地方が関係しているのかもしれないな。石動山か・・・。本棚には日本道路地図があったな。」

そして、太郎は本棚のところに行き、石川県の道路地図を取り出し、能登地方のページを開いた。

「28石動山のページには何も印はないな。31宝達志水のページはどうかな・・・。モーゼパークと宝達神社にマーカーが入っているな。33高松のページには手速比メ神社にマーカーがあるな。宝達山山頂と山麓の2か所共をチェックしている。ふーん。モーゼパークと秘密のモーゼ禁書か・・・?そして、宝達神社に手速比売神社か。学生時代に押水町へ行った時と比べて現在は様変わりしているだろうな。記憶も薄れているし、もう一度現地へ行ってみないといけないな、能登へ・・・。ケネディ氏は竹内文献のモーゼ伝説を知っていたのだろうか?ジョージ・ハンコックがモーゼの十戒石を探している秘密結社ビッグ・ストーンクラブの会員として、リチャード・ケネディはどうだったのかな・・・?」



調査を終えた太郎は903号室のドアーの鍵を掛けた後エレベータで一階に下りた。

そして、ロビーにある管理人室に立ち寄った。

「これで失礼します。ありがとうございました。」

「ああ、御苦労さまでした。」と管理人が言った。

「ところで、ちょっと訊きますが・・・。」

「はい。何でしょう?」

「玄関ロビーとエレベータ内にある監視カメラの映像記録は何処へ行けば見せてもらえるでしょうか?」

「ああ、録画映像は警備会社の映像サーバーに入っています。でも、この管理室にあるパソコンでもインターネット経由で見れますよ。私のID番号とパスワードを入力すれば見ることができます。何時の映像がご覧になりたいのですか?」

「10月26日の前後3日間くらいの映像が見たいのですが・・。」

「じゃ、録画映像のページを検索してみましょう。」と言って管理人がパソコンの捜査を始め、太郎もパソコン画面を覗きこんだ。


「あっ。ここでちょっと停めてください。」と太郎が言った。

「10月28日の午後1時29分か。ハンコックが手に本を持って帰って行く映像だな。本棚にあった本だろうか?先ほど、午前11時30分ころにマンションに来た時は手には何も持っていなかったな・・・。10月27日に来た刑事たちは何も持って行かなかったよな。写真機は2台ほど持っていたが、何も持ち出していない様子だった。ハンコックが何か隠しているのか・・・・?ハンコックが持ち出したのは本だけか?サングラス男と同じように何かの紙切れもポケットに入れて持ち出したかも知れないな・・・。」と太郎は思った。

「10月25日のエレベータ内の録画映像を出してもらえますか?管理人さん。」

「これがそうです。」

「あっ、ここで止めてください。ちょっと巻き戻して、サングラスを掛けたスーツ姿の男のところからスローモーションで映像を動かしてください。」

「このくらいのスピードでいいですか?」

録画映像をしばらく眺めた後、サングラスの男がエレベータで降りる映像のところで太郎が言った。

「あっ、ここで止めてください。」

太郎はスーツ姿の男の胸ポケットに白い紙が折りたたんで入っていたのを確認した。そして、男がエレベータで昇る時には何も入っていなかったのを思い出していた。

また、スーツの内ポケットには拳銃の台尻が見えている。

「最近は監視カメラの映像もハイビジョン並みになって、映像がきれいですね。」と太郎が言った。

「2011年から家庭での地上波デジタル放送の時代が来ますから、業務用の録画ではこのくらいの高画質映像はふつうでしょう。」と管理人が言った。

「確かにそうですね。この男のスーツの内側にある胸ポケットに見えているものですが、ピストルではないですかね?」と太郎が管理人に話しかけた。

「そうですね、確かにそうだと思います。私も商社に勤めていた時に自衛隊の希望で銃器の輸入を担当したことがありました。この銃の台尻はアメリカ軍用拳銃のベレッタに似ていますね。」

「商社にお勤めだったのですか。」と太郎が興味深げに言った。

「ええ。昨年に定年退職になり、英語とフランス語がしゃべれますので、この外国企業の駐在員向けマンションの通勤型管理人に採用されました。このマンションはフランス人の家族がたくさんお住みになっておられますから。」

「では、銃器の商売の事はよくご存じですか?」

「ええ、まあ。ココム規制などいろいろと法律上の制約がありますよ、日本やアメリカ、ヨーロッパにはね。日本では武器輸出三原則なる政治的な指針もあります。」

「いえ、そう云うことではなくて、銃器の密売商人とかをご存じですか?」

「少しなら経験があります。フランスに駐在していたころに民間の傭兵部隊組織から銃器の調達依頼がありました。フランスは外人部隊の伝統がありますから、アフリカ各国へ傭兵を派遣する民間組織がいくつかありました。現在はどうなっているのか知りませんが・・・。確か、日本人も数人ですが傭兵になっていた方がいらっしゃいましたね。」

「密売商人とのコンタクトはどのようにするのですか?」

「武器商人のほとんどは香港にいます。まず、みやげもの店や中華料理店、西洋レストランのマネージャにあたってみます。そこで、上手くいけば武器商人に巡り会えます。誰かの紹介がない場合、50から60軒くらいは回ってみないと巡り会わないでしょう。もちろん、回った店には連絡先を書いた名刺を渡してきます。名刺は偽名で、宿泊しているホテルの部屋番号を書いておけばOKです。相手も用心していますから、すぐに返事は帰ってきません。数日が過ぎると、相手から声がかかってきます。電話の場合もありますが、道を歩いている時などに突然声を掛けられます。そこから信用を得て、上手く商談にもち込みます。」と管理人が説明した。

「そうですか。なるほど。」と太郎が感心して言った。



能登の錫杖19;捜索手法の打ち合せ

埼玉県JR熊谷駅コンコースのコーヒー喫茶店;2008年11月7日(金) 午後2時ころ


宝達教授が富山県から妹を探すための打ち合せを大和太郎とするため、熊谷駅に到着した。

教授は授業の関係から日帰りの予定であった。

富山から飛行機で羽田空港に来た方が早いのだが、午前中に新潟県長岡市に立ち寄る用事があったので、教授は上越新幹線を採用した。

富山への帰り新幹線の関係から、太郎の事務所がある東松山市には出る時間的余裕がなかった。そのため、東松山市から路線バスがある上信越新幹線の停車するJR熊谷駅改札口で二人は会う約束をしていた。

二人は改札口から直ぐ近くにあるスターバックスコーヒーの店舗に入り、打ち合せをはじめた。


「母の話では、この御守りと同じものが赤ちゃんである妹の産衣うぶぎのポケットに入れてあったそうです。夢でみた山伏の言葉から、生まれて来た赤ちゃんが居なくなっても、その後に発見された時、自分の子であることを確認できるものを身に付けさせておいたそうです。現在も妹がその御守りを持っていればいいのですが。これは、富山県高岡市にある射水神社のお守りです。」と宝達教授が言いながら色褪せて茶色くなっている白い封筒から御守りを取り出した。

「まだ、奇麗ですね。」と御守りを手に取って見ながら太郎が言った。

「この封筒に入れたまま、七尾市にある実家の仏壇に供えてありましたから。母はご先祖様に妹を護ってもらうお願いを毎朝していたそうです。」

「左脚の太腿にあるあざと御守りが妹さんを確認するための要素と云うことですね。」

「そうです。」

「それで、妹さんを探し出す手立ての件ですが・・・。」

「ええ、どのようにされますか?」

「知り合いの勤めている毎朝新聞社にお願いしようかと思っています。」

「新聞社に尋ね人記事でも依頼するのですか?」

「いえ違います。尋ね人では無関係の人も沢山現われる可能性があります。これでは、対応する新聞社や我々の負担が大変です。妹さんご本人だけが判り、妹さん自らが行動を起こすように仕向けられる記事内容を造ってもらいます。」

「どのような記事ですか?」

「短編小説の形にした写真入り記事にしてもらいます。」

「よく判りませんが。」と宝達教授が言った。

「小説ですから、一般の読者にとっては小説を読むだけです。しかし、妹さんにとっては、小説の主人公の経験が自分の経験と重なる部分が多いことに気がつきます。特に、御守りの写真が自分の持っているものと同じであるわけです。そして、太腿にある痣の形も同じとすれば、妹さんとしては気になるはずです。そこで、妹さんがこの小説の作者が誰かを新聞社に問い合わせてくると云うのが私の読みです。新聞社は、この小説が昔あった現実の失踪事件であることを知っていますから、妹さんが現れた場合には親兄妹との奇蹟の再会記事にできると云うメリットがある訳です。妹さんのお名前は宝達奈巳なみさんで、漢字は奈良のと蛇のでよろしかったですよね?」と太郎が言った。

「そうです。でも、妹が毎朝新聞を購読していなかったらどうなりますか?」

「その場合は次の手を考えましょう。まずはこの方法を試してみます。」

「判りました。よろしくお願いします。」と宝達教授は太郎の考えに同意した。


宝達教授は能登半島に関する寺社の話や雑談を太郎としたあと、3時過ぎの新幹線で富山に帰って行った。



能登の錫杖20;毎朝新聞本社

毎朝新聞本社社会部の応接室;2008年11月7日(金) 午後6時ころ


毎朝新聞社会部の向山部長、鮫島姫子と大和太郎が短編小説掲載について話している。


「・・・と云う事情です。小説の掲載をお願いできますか?」と太郎が言った。

「宝達奈巳さんに関する話の経緯は大変に面白いですね。しかし、小説は誰が書くのですか?そして、その費用は誰が出すのですか?」と向山部長が訊いた。

「鮫島さんは学生時代にサークル活動で推理小説を創作されていたと聞いています。なかなか評判が良かったと私の知り合いが言っていました。」

「ほんとうか、姫子?」

「ええ、まあ。『ザ・推理』と云う同好会誌に毎年小説を書いていました。我ながら良い出来でした。」と姫子が自慢げに言った。

「新聞社の文芸部扱いだな。一週間の連載でいいのですね。姫子、面白そうな小説を書けるか?」

「ちょっと考えてみますが、たぶん大丈夫でしょう。自信はあります。」

「それと、連載中は射水神社の御守りの写真を毎回載せてほしいのですが。」と太郎が言った。

「まあ、それはいいのですが、小説の出来具合に対して文芸部長が何と言うかですな。それと、担当取締役の掲載許可が必要です。姫子、小説を一週間以内に創作できるか?」

「やってみます。」

「大和さん、掲載可否の返事は2週間後にします。それまで返事は保留です。」と向山部長が言った。



能登の錫杖21;調査ミーティング?

香港アメリカ総領事館の会議室;2008年11月12日(水) 午前9時過ぎ


「龍唖通信計算機系有限公司の技術部長・宋理永ですが、新しい動きはありません。毎日、会社に出勤しているだけです。このところは、香港マフィア蛇尾じゃびとのコンタクトはありません。宋理永を拉致して脅かしますか?」と馬沢東が言った。

「いや、蛇尾に我々の動きを悟られる危険がある。蛇尾とオメガ教団が何で繋がっているのかが判明するまでは用心して行動してほしい。ところで、ベレッタ92FSの件から何か判ったかな、太郎。」とオブライエンが言った。

「リチャード・ケネディ殺害犯人と宝達教授の拉致未遂犯人は同一か、同じ組織に属する可能性がある。リチャードは古代文字に興味があったようだ。宝達教授は古代文字に精通している。」と太郎が言った。

「古代文字が関係している理由は?」

「リチャードの住んでいたマンションから何かペーパーを持ちだした不審な男がいた。その男はベレッタと思われる拳銃を内ポケットに持っていた。」

「ヒットマンだな。そして、持ちだされたペーパーには古代文字に関係する内容が書かれていた、と推理できる訳か。」とスティーブ・キャラハンが言った。

「そう云うことだろう。だから、ベレッタ92FSの流通経路を調べればリチャード殺害犯組織に繋がっていく。しかし、その組織が巡航ミサイル発射事件に関係しているのかどうかは不明だ。リチャードが追いかけていた古代文字が関係する事が何なのか・・・?それが、ミサイル事件と繋がるのか?全く不明だ。現在マークしている山極亮輔以外の香港の武器商人の3人とコンタクトを取った。兵器購入の商談を装ってベレッタ92FSの流通情報を聞き出そうと思っている。」と太郎が言った。

「判った。蛇尾とオメガ教団のライン。そして、ベレッタ92FS流通ラインの両方を追いかけよう。武器商人とのコンタクトについて、スティーブは太郎の支援をしてくれ。武器調達部以外のCIA職員が直接に武器調達行為をすることは禁止されている。また、武器商人たちにCIA諜報部員の顔を覚えられるのも困る。太郎とスティーブは臨時調査のアルバイトだから秘密の武器調達のためにCIAから依頼された民間業者と云う設定ができる。」とオブライエンが言った。

「OK、了解。しかし、秘密の武器調達の目的を訊かれたらどのように答えるのだ。」とスティーブが言った。

「答える必要はない。ふつうの武器商人ならそこまで聞いて来ない。だが、万一、答えなければ自分の生命が危ない状況にある場合には『アフガニスタンのテロ対策に使う銃器をCIAの依頼で調達している。』と答えてくれ。」とオブライエンが言った。

「CIAの名前を出してもいいのですか?」と太郎が訊いた。

「太郎がこのアメリカ領事館に出入りしていることは、すでに武器商人には知られている可能性がある。変な事を言えば、逆に疑われるだろう。CIAが民間人を利用することは、その筋では有名だから疑われないだろう。」

「判りました。」

「ベレッタ92FSは米軍から何か情報は無いのかな?」とオブライエンが全員に訊いた。

「米軍基地からの横流しがあったとしても、軍部からのアナウンスはないだろう。米軍基地を個別に当たるか、武器商人からの情報収集がいるだろう。CIA本部の情報網で何か掴んでいないのかな。」とスティーブが言った。

「その件は私が本部に確認しておく。各員もベレッタに関係する事には気をつけておいてくれ。太郎は古代文字に関するラインも、更に深く追いかけてくれ。」とオブライエンが言った。



能登の錫杖22;修学院

京都修学院離宮近くの藤原大造教授宅;2008年11月13日(木) 正午過ぎ


D大学での午前中にあった授業を終えて、帰宅して来た藤原教授が、自宅を訪問してきた大和太郎と応接室で昼食のきつねうどんを食べながら談話をしている。

リチャード・ケネディのマンションにあった『秘密のモーゼ書』と竹内文献に記されたモーゼの墓や十戒石に彫られた古代文字の関係を調べるため、大和太郎は能登旅行を計画していた。

その調査地に関する事前情報を藤原教授から聞き出す目的で太郎は教授宅を訪問していた。


「富山県にあるT大学の宝達教授からの土産みやげ話があるとかでしたね。彼とは二度ほど学会の懇親会で話をしたことがありますよ。」と藤原教授が言った。

「ええ。藤原先生以外には話さないと云う約束で、来年3月の日本古代史学会総会で発表する論文の内容を聞いてきました。」と言って、太郎は宝達教授から聞いた論文概要を藤原教授に話し始めた。


太郎から論文内容を聴き終えた藤原教授が言った。

「あっはっはっは。これは、宝達教授から私への挑戦状だね。」

「えっ。挑戦ですか?」と太郎が訊いた。

「今、大和君が話してくれた内容では埼玉県の比企地方の横穴群や京都の伏見稲荷や上賀茂神社に関する事は詳しく話されているが、竹内文献との関係は少しも話されていないね。宝達教授は私に来年3月までにその内容を考えろと言っている訳です。」

「そう云うことになる訳ですか・・・。ふーん。」

たとえてみれば、ギリシア神話のスフィンクスの謎掛けみたいなものですかね・・・。」

「宝達教授がスフィンクスですか?」

「スフィンクスは自分の前を通る人間に謎を掛けて、解けなければ、その人間を食べてしまったと云う伝説があります。『朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は何か?』と謎を掛けたと云う話です。宝達教授は私に、『京都と竹内文献の関係が何であるかを解いてみよ。』と私に謎を掛けてきた訳です。」と藤原教授が楽しそうに言った。

「どうして、先生はそう思われるのですか?」と太郎が訊いた。

「宝達教授は修験道の修行をされています。」

「ええ、知っています。」

「修験道のことを天狗道と呼ぶ人もいます。厳しい修行によって身体能力を高める訳ですが、そのために他の修験者に負けないと云う形で苦しさに耐える人もいます。この修行のため、他の人に比べて抜きんでた人は鼻が高くなりやすいのです。天狗の鼻のようにね。宝達教授が天狗になっていると言っているのではありません。修験を行う人はどうしても競争心を持ちやすいのです。それ自体は悪いことではありません、自分を高める一つの手法ですから。宝達教授にもそう云う競争心が少しあるようです。これは、彼と学会の懇親会で話をした時の私の印象ですがね。また、天狗の霊が憑依した修験者も居るらしいです。ある霊能者に謂わせると、源義経は鞍馬山で修行した時に天狗が憑依したらしいです。義経の八艘飛びは天狗の仕業らしいですね。宝達教授は私に『知恵比べをしよう。』と言っている訳です。」

「知恵比べですか・・・。競争心と天狗ですか・・。そういえば、宝達教授は私に『大和さんは京都ですか。』と言いましたね。」

「私もね、負けん気は強い方ですから宝達教授の挑戦を受けてみましょうかね。」

「ええっ・・!!」と太郎が驚いた。

「あっはっはっは。研究者というのは闘争心がないと良い研究は出来ないものです。競争相手に対する闘争心ではなく、研究対象の真実に向かう闘争心と云ったものが必要です。まあ、軽い気持ちで行きましょう、大和くん。ところで、明日から能登の方へ行くのでしたね。」

「ええ、その予定です。」

「それでは、竹内文献に関係する能登の地を調査して欲しいのだがね。宝達教授との真実発見競争に負けない為に、知りたい事があります。」

「どのような事ですか?」


「能登と云うのは大和朝廷の第10代天皇・崇神天皇から第45代・聖武天皇のころまで重要な地域でした。言い替えると、大和朝廷支配以前には繁栄していた土地であったと云う訳です。聖武天皇の母親は藤原宮子といって、古事記や日本書記の編纂を主導した藤原不比等の娘です。」と藤原教授が言った。

「あの、奈良の東大寺大仏を造らせた聖武天皇(701〜756)ですか。」

「そう、その東大寺大仏に関して次のような話があります。」

「何ですか?」

「これは、出口王仁三郎が言っていたらしいのですが、奈良の大仏の台座に役小角えんのおづのが調べた日本国内の金鉱の所在地を記した金細工が埋め込まれているらしいのです。東大寺大仏殿は2回くらい火事で燃えて大仏再建された訳ですが、台座はけていなかったから古代のままだったと思いますがね・・・。その金細工に彫り込まれた金鉱地図の基となった古文書が何処かにあるはずなのです。743年に聖武天皇が大仏製作の発願をし、魂を入れる大仏開眼だいぶつかいげん供養会は752年でした。大仏の台座が完成し、その上に大仏像が置かれたのは聖武天皇が亡くなった756年です。大仏殿の竣工はその2年後の758年です。」

「その金鉱の場所が書かれた古文書はどこにあるのか判らないのですか、教授?」

「私は能登にあると推理しています。」

「古文書が能登に?」

「七尾市田鶴浜町に赤蔵神社と云うのがあります。神仏習合時代は赤蔵山上一本宮寺の講堂であった建物が現在の神社拝殿になっているようです。ここに、金鉱の所在を書いた古文書があったのではないかと推理しています。」

「その理由は?」

「730年に聖武天皇の御子である東宮が眼病になった時、藤原不比等の娘であり、東宮の母である光明皇后が夢を見た。夢に現れた老人が能州赤蔵山の大権現に祈れば眼病は治ると告げた。そして、奈良の多武峯とうのみねから30人の僧侶が赤蔵山に祭檀を設けて法要祈祷したところ、東宮の眼は治ったと云う。能州赤蔵山とは七尾市の赤蔵山のことです。この法要の時に金鉱の所在地を書いた古文書を献上したのではないかと私は推理しています。そして、天正年間に古文書に宝達山金鉱が書かれているのを発見した近江八平なる人物が神託を受けたと言って宝達金鉱を見つけ出した、と推理してみたのだが。その近江八平なる人物のゆかりの地を能登で発見できれば、役小角が見つけた日本全国の金鉱所在地が書かれている古文書の所在が判明するかもしれない。出口王仁三郎が言うには『仏の終わりの時、みろくの神にそれ(古文書?金鉱の黄金?)を渡す。』ことになっているらしいのだが・・・。」

「その仏の終わりの時が現在と云うことですか?」

「いや、それは判らない。もう少し先の時代なのかもしれないが・・・。」

「しかし、近江八平とは胡散うさん臭い名前ですね。近江の国から来た八平さんですかね?うそ八百の近江八百さんではないのですか・・・?」と太郎が言った。

「あっはっはっは。そうかも知れませんが、まあ、調べてください。私は滋賀県大津市の宇佐山にある近江神宮に関係する人物ではないかと推理しています。祭神は天智天皇、すなわち、中臣鎌足と一緒に大化改新を成し遂げた中大兄皇子なかのおおえのおうじです。祭神の別名は天命開別あめみことひらかわけ大神です。近江神宮は皇紀2600年・昭和15年に大津宮旧跡地に創建されましたが、そのすぐ裏の通称宇佐山には平安時代に創建された宇佐八幡神社があります。室町時代後期に、『坊人』と呼ばれた近江の僧侶や『延命の神徳』を解いた近江の薬売りが全国行脚をしていました。この近江人が、訪れた土地の神社仏閣に残されている古文書などを調べていたようです。その近江人が、金鉱所在地を書いた古文書をどこかの寺か神社で見つけたのではないかと。その人物が近江八平と自称したのではないかと推理したのですがね。」と教授が言った。

「宇佐山の近江神宮と宇佐八幡神社ですか。東大寺大仏の開眼に関係した宇佐神宮に通じますかね。」

「近江神宮は古代水時計などが復刻されており、『時間の神様』とも謂われています。キーワードは水と時間です。」


「他にも何か調べることがありますか?」と太郎が訊いた。

「七尾市の南部にある石動山いずるぎやまだね。」

「石動山。宝達教授がしゃくを見つけた(七尾市の南部にある)山だな。」と太郎は宝達教授の話を思い出していた。

「石動山には伊須流岐比古神社があります。石動山縁起では、天から石が3個落ちてきたと書かれています。流れ星が3個落ちてきたと云うことでしょうか。その時、天空には3つの光があったと書かれています。3つの光が星を意味しているのか、もっと他の光なのかは不明です。しかし、この石は自分自身で流れるように動いたらしいのです。それで、石が動く山、すなわち石動山いするぎやまと呼ばれたようです。」と藤原教授が言った。

「自分で動く石ですか?UFOみたいですね・・・。」

「そうかもしれないね。科学知識のない昔の人が空飛ぶ円盤を見たら、石が飛んでいると思うかもしれないね。この地方はUFOを見た人が多いので有名です。羽咋市にはコスモアイル羽咋というUFOブースなどを設けた宇宙博物館もあるからね。石動山の伊須流岐比古神社にはイワシガ池と云う小さな御手洗池みてらいいけがあるのだが、昔、大飢饉ききんの時に魚のイワシが湧いて飢えを凌げたと云う伝説があるらしい。山の上に海にいる魚が湧くなどあり得ないと思うのだが、UFOがイワシを運んで来たと云う人もいるがね。」

「そういえば、先日、羽咋市の町中にオタマジャクシが空から降って来たと云う新聞記事がありましたよ。竜巻などの発生はなかったので、UFO目撃で有名な羽咋市のことだからUFOの仕業じゃないかと評判になったそうですよ。」

「そういえば、インターネットのニュース記事ではパキスタンで10センチくらいの小人こびとを子供たちが捕まえて焼き殺したと云う情報が何時だったか、載っていたね。YOUTUBEにその黒こげの映像が投稿されていたが、宇宙人なのかどうかは真偽不明だね。小人で思い出すのが少彦名神すくなひこなのかみだね。の皮で出来ている衣を着ており、指の間から生まれ落ちた、小人こびとではないかと思われる神様。また、アメノカガミノフネ(天羅摩船、天鏡船)に乗って大国主命の前に現れた薬の神様。大国主命が国土平定に活躍した時に同行していたとされる神様だ。天鏡船がピカピカ光るUFOで、の皮に似た衣服が宇宙服、そして、石動山縁起に出てくる天空の現れた三つの光が空飛ぶ円盤。と考えると、古代にUFOが現れていたのかもしれない。七尾市黒崎町に宿那彦神像石すくなびこかみかたいし神社があり、少彦名神を祀っている。また、鹿島郡中能登町の金丸というところにも宿那彦神像石すくなびこかみかたいし神社がある。金丸明神とも呼ばれ、一宮気多神社の境外摂社とされている。また、能登半島の穴水町甲の円山にある加夫刀比古神社には少彦名神が祀られている。加夫刀比古神社は創健不詳ですが古代には存在しており、円山には奇石、異石が多く風景異様であったとされています。」

「少彦名神が小びとの宇宙人と云う訳ですか?」

「その可能性の証拠が現地にあるかもしれないので大和君に調べて来てもらいたいのだ。」

「判りました。調査してみます・・・。」と少し力の入っていない返事を太郎がした。


「ところで、浦島太郎の話を知っていますか、大和君?」

「ええ。昔々、子供にいじめられていた亀を助けた浦島太郎が、その亀に連れられて龍宮城に行った話ですよね。」

「そうです。」

「龍宮城で楽しんだ後、地元に帰ってきた浦島太郎は、知り合いが誰も居なくなっているのを知ります。そこで、龍宮城でお土産にもらった玉手箱を開けると白い煙が出てきて、若い浦島太郎は、あっと云う間に白髪の老人に変化してしまった。と云う話ですよね。」

「この浦島太郎の話はアインシュタインの相対性理論で云うところのタイムトラベルの話です。光速で移動する宇宙船に乗っている人は、遅い速度の地球に居る人よりも時間の経過が遅い。すなわち、地球では50年が経過していても光速で宇宙旅行して来た人には数日間しか経っていないと云うタイムトラベルの話です。相対性理論に於いて、光速で移動するには人間の質量=0となる必要があるわけですがね・・・・?」

「古代の浦島太郎は亀に似た宇宙船、すなわち空飛ぶ円盤に乗って宇宙旅行をして来たと云うことですか?」

「その可能性があると云う話です。」

「その証拠が能登の宿那彦神像石すくなびこかみかたいし神社にあるかもしれないのですか?」

宿那彦神像石すくなびこかみかたいし神社とは限りませんが、能登の何処かにあるのかもしれませんので、大和君に見つけて来て欲しいのです。」と藤原教授が言った。

「はあ、努力してみますが・・・。」と太郎は唖然としながら言った。

「大和君。考古学者や古代史研究家は探偵や刑事、検察官と同じです。断片的な事実から全体像を推理し、その推理に基づいて事実を探し求め、新しく発見した事実から推理を修正して更に事実を追いかけます。その繰り返しから真実に到達するのです。まずは事実、事象ありきなのです。事実、事象がない場合には真偽の判定はできません。数学や物理学の証明問題でも、ある条件の範囲内で事象は成立するものです。その限られた条件が何なのかを発見しないと真実の存在は見えてきません。例えば、ある数学の方程式が成立する条件は未知数Xが素数である場合のみであるとかですね。UFOである宇宙船が見える条件が何なのかが不明な現状ではUFO存在の真偽を判定できません。竹内文書の真儀も同じです。ある条件に当てはまるものには真実があるのです。その条件とは竹内巨麿が手を付けていない古文書が竹内文献の中にあるのかどうかです。また、手を加えたとしても、忠実に写し取っただけのものであるのかどうかです。」と教授は太郎を諭すように言った。

「なるほど、真実にはある条件が伴うと云うことですか・・・。」と太郎は、藤原教授の何ものにも捉われない発想に感心しながら言った。


「それから、行方が判らないと云う宝達教授の妹さんだが、奈巳なみさんとか云ったね。奈良の奈と、干支えとと云う漢字ですよね。」

「そうですが・・。」

「大和君は奈良県にある大神みわ神社を知っていますよね。」

「ええ。御神体が三輪山の神社ですね。祭神は大国主命の霊魂である大物主おおものぬし神、大己貴おおなむち神、少彦名神ですね。」

「天変地異や疫病がはびこっていた時、第10代・崇神天皇の夢枕に大物主大神が現れ、太田田根子を祝主かんぬしにして大物主の霊魂を祀れば疫病などが収まると告げる。太田田根子は活玉依比売いくたまよりひめの子孫である。活玉依比売は三輪山の神の子を宿したとされる。三輪山の神は大物主の眷属であるへびとされており、奈巳とは大物主の使いと云う意味かもしれませんね。」

「宝達奈巳さんが神の使いなのですか?だから、夢に現れた山伏姿の神にさらわれて、どこかで神業を行っていると・・・?しかも、大物主と云う出雲王朝に関係する神様の使いですか?」

「いや、かも知れないと云う仮定です。もっと別の神様かもしれません。」

「はあ?」

「大物主神と活玉依比売の間に生まれた御子の孫に当たるのが鹿島神宮の祭神である建御雷命であり、その子が太田田根子であるのです。だから、出雲王朝の大物主を祀る神社が多い能登の地には鹿島郡がある訳です。しかし、宝達と云う苗字が何を意味しているのかですね。」

「なるほど、そういうことですか。」

「そして、大神みわ神社と云う名から判るように、大神おおがみ、すなわち大分県にある宇佐神宮の創建神主であり、修験僧でもあった大神比義おおがのひぎとの繋がりも出てきます。神仏習合の始まりが宇佐神宮であったのは大神おおが家に伝わる秘儀に因ったのかもしれませんね。」

「秘儀とは?」

「鎮魂帰神法と修験の呪祖でしょうか。仏と神を結び付ける本地垂迹ほんちすいじゃくの秘術です。」と藤原教授が意味あり気に言った。

「八幡大神か比売大神、それとも神功皇后も関係するとでも・・・?」


「そうです。八幡神社です。能登の宝達志水町にある八幡神社の神職は宝達家が受け継いでいます。宝達教授が親戚であるかどうかは不明ですがね。宝達家と云うのは神仏習合時代には宝達山頂にある宝達権現を管理していた修験寺院和銅院別当の家系です。宝達権現は宝達山麓にある手速比売神社の宝達大明神の本地です。手速比売とは大国主の能登における妻です。手速比売神社が東間あづまと云う地番にありますが、吾妻あずますなわち大国主の妻と云う意味です。手速比売は出雲王朝に支配されるまでの古志こし王朝時代には奴奈河比売ぬなかわひめと呼ばれていました。大国主と奴奈河比売の間に生まれた御子が諏訪大社の祭神である建御名方たけみなかたです。そして、明治時代の神仏分離令によって、宝達山頂と宝達山麓にある神社は嵯峨井さかい家の管理、上田うわだ村などにある八幡神社が宝達家の管理とされるようになった様です。」

「なるほど、それで宝達教授は修験道に興味がある訳ですね。そして、八幡大神ですか。宝達教授の妹である奈巳さんね・・・。」と太郎は考え深そうに言った。


「私の調べて欲しい場所は以上です。宝達志水町の手速比神社、八幡神社。七尾市にある石動山、宿那彦神像石神社などです。」と藤原教授が言った。


「宝達教授の話にあった、伏見稲荷に関する内容についての感想はいかがですか?」

「埼玉県の黒岩横穴群はトルコの火山地域・アナトリア高原にあるカッパドキアの横穴群遺跡を連想させるね。そして、カッパドキアは世界の縮図としての日本地図では、確かに、京都深草にある伏見稲荷大社の位置に近似比定することができるね。黒海が琵琶湖に相当するとして、その南にカッパドキアがありますから、琵琶湖の南西にある伏見と考えてもいいかも知れません。誤差範囲でしょう。そして、京都の伏見稲荷大社と埼玉県吉見町八丁湖の原伏見稲荷社が火継神事を司る秦氏と関係すると云う考え方は面白いですね。火継ひつぎひつぎにも通じ、火葬と関係するかも知れませんね。宝達教授が言いたかったことはもう一点あると思われます。能登半島の能登町九十九湾入り口にある日和山が、かつては日置山と呼ばれていたと云う伝承があります。また九十九湾が日置湾と呼ばれていたようです。そして、この日和山あたりから松波漁港にかけての一帯が出雲から来た日置部が支配しており、比岐ひき郷とか日置郷と呼ばれていました。埼玉県の比企郡にいた日置部と親戚であったと考えられます。この日置部が伊呂具秦公であったのかも知れませんね。また、出口王仁三郎はカッパドキアをトルコのエルサレムと表現しているね。エルサレムの死海文書が発見された横穴(クムラン洞窟)とカッパドキアの横穴が関係するのかもしれないね。」と藤原教授が感想を述べた。

「そういえば、東松山市にある箭弓稲荷神社に3月の初午の日に火伏神事と云うのがあります。3月の二の午の日が祭りである原伏見稲荷での火継神事を受け継いでいるのでしょうかね?」と太郎が言った。

「まあ、どうでしょうかね・・・?」と藤原教授が冷ややかに言った。

「それに、4月末か5月初めには巳の晩祭と云って、養蚕倍盛を祈願する神事もあるようです。養蚕の始祖である秦氏と関係しませんかね、教授?」

「あっはっはっは。大和君の発想はユニークですね。まあ、決め手には為りませんが、参考事項ではありますね。」


「複葉8弁の丸瓦紋と16弁菊花紋との関係についてはどうですか?」と太郎が訊いた。

「埼玉県比企郡の鳩山窯跡から出土した丸瓦紋を見ていないのでなんとも言えませんが、BC2200年頃のシュメール・アッカド王朝時代のものとされるナラム・シン王の石碑にある紋は16弁の菊花紋ではなく月、太陽、金星を表わしたもので、大、中、小の三つのサイズに分かれています。光の放射を表現するのに、16個の花びら状のものが放射状に描かれています。これは、現在のイランにあるスーサ遺跡から出土したものです。BC860年頃のアッシリア王朝時代のアッシュールナシルパル2世レリーフ像の手首には天皇家の16弁菊花紋に近い形の紋章が付いたリストバンドをした図が描かれています。また、BC600年頃のカルデア王朝時代に築かれたイシュタル門にも16弁菊花紋に近い形の紋章が描かれています。このことから天皇家のルーツはシュメール人とする意見を述べる古代史研究者もいます。鳩山窯跡の丸瓦の紋章が天皇家に繋がったとしても、武蔵国は大和朝廷の支配下にあるのですから、なんらの不思議もありません。宝達教授が菊花紋を気にしているのは妹さんの左脚の太腿にあるあざの形に似ているからではないでしょうか?妹さんのあざと竹内文献の関係が何なのかですね。もう一度、竹内文書を読みなおしてみる必要がありそうですね。宝達教授は何に気が付いたのでしょうかね。これが、来年の春に発表する宝達教授の論文の急所ではないでしょうか。」

「竹内文献と16弁菊花紋の関係は大和朝廷、すなわち皇室と関係しますよね。でも、そんなに単純な話ではないのかも知れないと云う事ですか?」と太郎が訊いた。

「うーん。どうでしょう・・・?ところで、大和君は鞍馬山へ行ったことがありますか?」と藤原教授が訊いた。


「ええ。学生時代の夏休みに行ったことがあります。下宿の最寄り駅である一乗寺駅から鞍馬駅まで叡山電鉄で行き、鞍馬寺本堂から奥の院へ登ったあと、貴船側に下りて、貴船口駅から帰りました。貴船の川床で冷しそーめんを食べましたが、川に足を浸していると、真夏だったのに半袖姿だったので寒いくらいでした。」

「確かに、貴船の川床は涼しいですね。天然のクーラーがよく効いていますからね。ところで、鞍馬の火祭で有名な由岐神社には寄らなかったのですか?」

「ええ。鞍馬寺の山門駅から多宝塔駅までケーブルカーに乗って登りましたので、九十九つづら折りの坂道手前にある由岐神社へは行きませんでした。」

「そうですか。」

「由岐神社が何か?」と太郎が訊いた。

「いえね、由岐神社は940年に朱雀天皇の勅命で平安京(京都)御所から鞍馬寺境内に遷されました。祭神が大己貴おおなむち命、別名は大国主命です。そして、少彦名命も祀られています。能登の神社にも多く祀られています。」

「なるほど、鞍馬山と能登が関係あるかもしれないと云うことですか?」

「いえ、それは判りません。ただ、竹内文献の公表者である天津教教祖の竹内巨麿は鞍馬山で修業をしています。竹内家は能登に近い越中富山にありましたからね。何か因縁でもあるのかもしれません。竹内巨麿に天狗が憑依したのかもしれませんしね、あっはっはっは・・・。」

「なるほど、奴奈河比売ぬなかわひめの居た古志国ですね。帰りに由岐神社に寄ってみます。」

「ところで、大和君の用事は何でしたか?」と教授が太郎に訊いた。

「いえ。能登での調査場所のヒントを教授からご教示いただこうと思って参りましたが、先ほどのお話で判りましたので、私の用は済みました。」



能登の錫杖23;鞍馬山

京都市左京区・叡山電鉄鞍馬駅近く;2008年11月13日(木) 午後2時30分ころ


太郎は藤原教授宅から5分くらい歩いたところにある修学院駅から鞍馬行きの電車に乗って鞍馬に着いた。

由岐神社に参拝するため、鞍馬駅の無人改札を出て、赤い天狗の大きい顔像を見ながら、仁王門へ通じる階段に向かう道路を太郎は歩いていた。


その時、階段手前の道路上でタクシーから降りた一人の白人が太郎の目に止まった。

「あれは、ジョージ・ハンコック。何故、こんなところに居るのか?」と太郎は思った。

声を掛けようかと思った時、ハンコックがケネディ氏のマンションにあった本を持ちだした件を太郎には隠していたのを思い出した。

「奴は何を考えているのだろう。スティーブの話では、ハンコックはビッグ・ストーンクラブの会員だろうと云う事であったが。CIAの仕事で京都に来たのか、ビッグ・ストーンの仕事か、それとも、単なる個人的な旅行か?」とカメラケースらしきバッグを肩から吊るしているハンコックを見ながら、太郎は考えを巡らした。

ジャケットのポケットからサングラスと折りたたんでいたハンチング帽を取り出して眼と頭に装着し、リバーシブルのジャケットを裏返しにして着直した。

「この変装で、ハンコックは俺が大和太郎であるとは判らないだろう。」と太郎は思った。

そして、太郎は観光客のような仕草をしながら、ジョージ・ハンコックの尾行を始めた。


ハンコックが仁王門のところで立ち止まり、携帯電話をポケットから取り出した。

「電話が掛ってきたようだな。誰と、何を話しているのだろう。」と太郎は思い、ハンコックに近づいて行った。

人が近づいて来たのを察知したハンコックは逃げるように歩き出し、ほどなく電話を切り、ケーブルカーの駅に入って言った。

「会話の内容を聞けなかったのは残念だな。」と思いながら、太郎もケーブルカーの山門駅に入って行った。


ケーブルカーの多宝塔駅を出たハンコックは写真を取りながら本殿金堂に向かって歩いて行った。

ハンコックは本殿金堂の社務所で鞍馬寺の由緒書きを購入し、源義経の背比せくらべ石碑や奥の院がある方向への山道を進んで行った。

太郎もハンコックの後を追って行った。4人の観光客も同じ様に奥の院に向かって歩いている。

ハンコックが護法魔王尊を祀る小さな社である奥の院魔王殿の写真を撮ったり、高札に書かれた由緒を読んでいるのを横目で見ながら、4人の観光客に混じって、太郎も魔王殿を参拝した。

その後、ハンコックは山を下り、本殿金堂横から由岐神社に向かって九十九折りの坂道を降りて行った。義経供養塔や由岐神社の写真や由諸書きの写真を撮ったハンコックは仁王門横を通って階段を降りていき、鞍馬駅近くに停まっていたタクシーに乗り込んで、京都市内の方向に帰って行った。

太郎はタクシーに乗ったハンコックを見届けたあと、変装を解いて、再び由岐神社に戻って行った。


※護法魔王尊『サナート・クマラ』;

サナート・クマラは650万年前に金星から地球に降臨したとされる。

宝亀元年(770年)、鑑真和上の高弟である鑑禎上人が山城国北方に霊山がある夢を見て、辿り着いたのが現在の鞍馬山である。霊夢にサナート・クマラが現れて、毘沙門天の降臨を予言したとされる。

そして、毘沙門天の降臨を見た上人は小さな草堂を建てて毘沙門天像をその御堂に安置したとされる。

その後(796年)、藤原伊勢人ふじわらいせんどと云う人物が童子姿をしたサナート・クマラの霊夢を見て、草堂の毘沙門天像を発見したらしい。そして、桓武天皇の勅命を受けて毘沙門天を祀る鞍馬寺を創建し、平安京北方鎮護の道場としたとのことである。

それ以来、鞍馬寺の奥の院に護法魔王尊として祀られているらしい。



あらためて由岐神社に参拝したあと、太郎は神社の境内を調査したが、大己貴おおなむち命や少彦名命に関係したものは何も発見はできなかった。まして、UFOに関係するような物証は見つかることはなかった。

「あとは、能登に行ってからの勝負だな。しかし、ここでジョージ・ハンコックと出会うとは思わなかったな。たいした偶然だったな。奴は何を目的に鞍馬山に来たのだろう。」と思いながら鞍馬駅を目指して坂道を下っていた。


「偶然か、そんな訳はないか?尾行していたのは俺ではなく、ハンコックの方だったとしたら?とすると、俺の後にはハンコックの部下が尾行しているか・・・。何処かで確認をするか。」

太郎は駅近くの土産物屋に入って、外の様子を窺がった。

「ははーん。あいつか?」と携帯電話で話しながら土産物屋の様子を窺っている一人の日本人に太郎は目を付けた。

「あの携帯電話でハンコックと連絡を取っているのだな。ハンコックが仁王門のところで携帯電話を取り出して話していた相手はあの男だな。俺がハンコックを尾行していることを携帯電話で知らせたと云う訳か。だから、仁王門のところでハンコックは俺から逃げるように歩いて行った訳だ。修学院近くのどこかで待機していたハンコックは、あの男から俺が鞍馬方面行の電車に乗ったことを聞き、タクシーに乗って追いかけてきた訳か。として、ハンコックの狙いは俺ではなくて、俺の行き先を知ることであったのか。俺の行き先が鞍馬と判って、ハンコックにとって尾行は不要になった。鞍馬寺とはどんなところかを知るのが目的となった訳だな。まあ、警察やCIAは尾行が好きな奴等だから、しょうがないか。まさか、統合幕僚長の指示で自衛隊までが俺を尾行していることはないだろうな?これからは、ちょっと用心するかな。ハンコックが俺に巡行ミサイル関連の調査を依頼した本当の狙いは他にあるのかも知れないな・・・?いや、待てよ。ハンコックが何故に俺の前に姿を見せたのだろう。俺の目的地が鞍馬である事を知りたいなら、俺が居なくなってから鞍馬寺を見学すればよかったはずだ。わざわざ、俺に自分が尾行していたこと知らせる必要はないはずだ。とすると、俺に別の尾行者が付いていると警告した訳か?今、外でこの土産物屋を覗いている奴がその尾行者か。しかし、俺の尾行者に自分の姿を見せることにもなる。そいつに自分が見られても良いと云う訳か。それなら、俺に近づいて直接に話せばよかったはずだが。ああ、そうか。大使館でブリーフィングを受けた時に説明を受けたCIA秘密諜報員規定のその3『尾行者がどこに居るか判らないから、公衆の中で同僚と出会ったとしても、お互いに挨拶はしないこと。他人の振りをする。事前打ち合せによる場合はこの限りにあらず。』だな。とすると、外に居る日本人はハンコックの知り合いであるが、CIAではない訳だ。ハンコックがかつて一緒になって行動したことのある組織員か。とすると、自衛隊の情報部員か。まあ、どちらでもいいや。俺にとっては秘密にすることは何もないからな。どうぞ、ご自由に、だな。俺が知りたいのはハンコックがケネディ氏の部屋から持ち出した本の内容だ。もしかして、その本に書かれている内容にハンコックが俺を尾行する理由があるのかもしれないな。CIAの仕事ではなく、ビッグ・ストーンの職務のための何かが関係しているのか?その為に、日本人である俺の知識が必要だった。特に、古代史に関する知識。それで、ケネディ氏が古代文字に関する文献をニューヨークの本屋から取り寄せた理由も判るな。やはり、ケネディ氏もビッグ・ストーンだった訳だな。とすると、ケネディ氏が殺される前にサングラスの男が持ちだした紙切れに何が書かれていたのかだな。古代文字に関する何かが書かれていたのかもしれないな。その内容の読み方を喋らなかったケネディ氏を犯人が殺したと仮定すると・・・・。また、何故に殺害現場が国会前庭だったのかだな。古代ローマ風建築の日本水準原点標庫か。その必然性はあるのか?単なる偶然だったのか?古代史に関わる場所を知るために、ハンコックは俺を尾行している訳か、日本の古代遺跡のある場所を知るために。秘密結社ビッグ・ストーンクラブのねらいは何なのか・・・。」と太郎は思った。

以上の様に推理した太郎は土産物屋を出て、宿泊先の京都Tホテルに行くため、尾行者を無視するように鞍馬駅に向かった。


能登の錫杖24;宝達志水

・石川県能登・宝達志水町の宝達山山頂;2008年11月14日(金) 午後2時ころ


京都駅前にある京都Tホテルを午前7時に出発した太郎は北陸本線の金沢駅に降り、駅前の日産レンタカーで乗用車サニーを借りて宝達山山頂に到着した。

山頂の手前にある道路脇の小さな空地にサニーを駐車させて、神社の方へ太郎は歩いて行った。

そして、山頂にある『宝達山大権現』と縦書きされた扁額へんがくが飾られている手速比売神社奥社(上社)に参拝した。

昭和54年4月吉日の署名がある石碑に彫られた由緒を読んだあと、社祠に参拝した。

社祠の正面には新しそうな石製の狛犬が建てられている。

「学生時代にオートバイで来た時、この社祠前の屋根を支える二本柱のそばにスフィンクスに似た小さな古い狛犬があったがな・・・。どこかへ持っていかれたのか・・・。そのスフィンクス狛犬の横には小豆色あづきいろをした小さな焼き物の狛犬もあったな・・・。小豆色の狛犬はかなり年老いていた雰囲気の顔立ちに出来上がっていたな。あれも、どこかに持っていかれた訳か。まあ、今は立派な一対の石の狛犬が在るのだから、古い狛犬などは必要ないか・・。」


遠くに見える立山や白山をしばらくの間ながめた後、太郎は手速比売神社奥社を辞した。

11月から休業になった『山の龍宮城』と書かれた木製の休養施設の前を通って、太郎はサニーを宝達山麓にある下社に向かって走らせた。

「浦島太郎の昔話から龍宮城は海にあると思っていたが、龍は天に昇るのだから、山の上にあっても可笑しくはないな。それに、浦島太郎が乗った亀がアダムスキー型UFOだとしたら、山にある方が似合っているな。あっはっはっは・・。」と太郎は思いながら、分かれ道でハンドルを右に切って山道の道路を下って行った。



・宝達山麓の手速比売神社下社;2008年11月14日(金) 午後2時30分ころ


サニーを手速比売神社下社前の路上に止め、神社参拝のために太郎は車から降りた。

「下社 羽咋郡押水町東間ラの弐番地鎮座か。祭神 又の名を奴奈宜波比売ぬなかわひめ命か。崇神天皇の御宇創建と云はれ旧大海一郷の総社にして応永年間 能登国守護畠山満則神領三百石を寄進・・・か。しかし、東間あずまラとは変わった番地名だな。エジプト神話の太陽神ラーを思い起こすな・・。畠山満則か、そういえば、埼玉県武蔵嵐山に館を構えていた畠山重忠は秩父の山奥を流れる大血おおち川の生まれだったな。畠山氏は出雲王朝に征覆された能登の雄呂血おろち族と関係があるのかな?」と思いながら太郎は由諸書の石碑を読んだ。

太郎は由諸書を読んだ後、手速比売神社と彫られた小型のオベリスクを思わせる石柱を右横に見ながら、狛犬の間を通り、石の鳥居をくぐって拝殿に向かった。


「おおっ、これは。なんと・・・。」と拝殿を見つめて、太郎は息を呑んだ。

金色に近い黄色に塗られた壁と扉、金文字で『社神売比速手』と右から横書きされた扁額が飾られた拝殿が黄金おうごん色に輝いているように太郎には感じられた。

「やはり、金鉱がある宝達山の神様らしいなあ。金色こんじきに輝いているわい。」と思いながら、太郎は神様に挨拶をした。



・宝達志水町のモーゼパーク;2008年11月14日(金) 午後3時ころ


駐車場にサニーを止めて、伝説の森モーゼパークの玄関とでも呼ぶべき3本の石柱が建っているポケットガーデンの階段を太郎は登って行った。

さらに、ロマンの小路から安息の小路を通り、10分くらい歩いてミステリーヤードに出た。

そこには、モーゼ伝説の説明が書かれた石碑が置かれている。

その石碑には遺跡名・河原三ツ子塚古墳群と書かれており、1号から3号までの古墳の大きさが書かれている。

(通称)ミツコツカ、(伝承)モーゼの墓、とも書かれている。

さらに5分くらい山道を歩いて、モーゼの墓とされる三つ子塚古墳群の1号墳と思われる場所に太郎は着いた。草が生い茂っており何も発見できないまま、太郎は2号墳の方へ歩いて行った。

草生した小高い丘に登ると10センチ角で長さが1メートル50センチくらいの墓棒が垂直に立っているのが目に入った。

墓棒には『モオゼロミユラス』とでも墨で縦書されていたような、はっきりとは読み取れない文字の痕跡が見られる。


※竹内文献によると、日本で2回目の修行を終えたモオゼロミユラスは宝達山を離れて現在のイタリア・ボローニャの地へ向かい、その後アラビア半島のシナイ山に戻ったとされている。竹内巨麿に謂わせると、ローマ建国の祖である人物名ロミユラスとモオゼロミユラスが重なると云うことである。モーゼの墓の話を持ち出したのは竹内巨麿ではなく、酒井勝軍さかいかつときであったのかも知れない。

酒井勝軍は、エジプトのピラミッドは墓ではなく、巨大な祭礼場・神殿であると考えていたらしい。エジプトやインカ帝国のピラミッドは人工であるが、日本は超古代において三角形の自然の山をピラミッドのように祭礼場としていた、と云うのが酒井勝軍の考えであった。そこで、酒井勝軍は竹内家の協力を得て、竹内文献の中にピラミッドに関係するような文書がないかを調べた。そして、ヒラミット(日来神宮)と云う文字を発見するのである。

年三月としいやよつき円十六日まどいむひみことのりし吉備津根本国に大綱手彦、天皇霊廟、亦名またのなメシヤ、日の神、月の神、造主神つくりぬしきがみ日来神宮ひらみっと』と云う意味のことが古代文字であるモリツネ文字で神体石に記されていたらしい。この文章の意味をどのように理解するのかは不明であるが、酒井勝軍は日来神宮ひらみっとをピラミッドと解釈したようである。

竹内文書によると、モオゼは583歳の時、宝達山で亡くなったとされる。遺体は宝達山ネボ谷に葬り、後年、富山県呉羽の安ネボ山にも分骨したらしい。何故にネボ谷がモーゼパークに相当

するのかは不明。


そして、墓棒の前の地面の置かれている小豆色の小さな焼き物に目が止まった。

「あれ、これは学生時代に宝達山山頂の手速比売神社奥宮で見た狛犬の焼き物じゃないか。こんなところに来ていたのか。年老いた雰囲気の顔はモーゼを想像させるな・・・。でも、奥宮にあった小豆色の狛犬は正面を向いていたが、ここにあるのは顔を横に向けているな。」と太郎は思った。


モーゼの墓とされる2号墳を見た後、太郎は帰途に就いた。

モーゼの墓からの帰り道にある3号墳近くのテラス浮船海望に太郎は登った。日除け屋根の下ある木製のベンチに座って、太郎は少し休憩を取った。

「モーゼパークが出来た頃にはこの浮船海望の周辺には樹木が生えておらずに日本海が望めたのであろうが、今日では眺望できないのが残念であるな。この奥の3号墳に行くのも茂みを掻きわけないと行けそうにないな。もういいか・・・。」と思い、そのまま駐車場のある方向へ太郎は山道を下って行った。

「あれ、何かあるな。」と太郎はモーゼの墓記帳所・モーゼクラブと書かれた小さな掘立小屋を見た。その中には、ある霊能者が見たと云う三ツ子塚古墳の中の状態図が描かれていた。

「ふーん。モーゼとその妻と孫の御墓か。古墳の中はこの様になっているのか・・・。」と半信半疑な気持ちで、太郎はその状態図の横に書かれているモーゼに関する竹内文献に書かれている内容の説明文を読んだ。



能登の錫杖25;羽咋市・志賀町

・羽咋市 気多大社  2008年11月15日(土) 午前9時30分ころ


太郎は宿泊地の羽咋市千里浜海岸を9時前に出発し気多大社に到着した。


気多大社の祭神は本殿に大己貴おおなむち命(大国主命)、若宮社に事代主命、白山社に菊理姫命、本殿裏に広がる『入らずの森』と呼ばれる社叢内の地蔵山と呼ばれる奥宮に須佐乃王命、奇稲田姫命が祀られている。奥宮は巨石を積み、石垣をめぐらした磐座いわくらになっており、小祠が2社あるらしい。その他、天太玉命、火具土命、などが祀られている。


気多大社の西側には泰澄大師が夢想のお告げにより718年に建立した、神宮寺の正覚院がある。

正覚院は855年に亀鶴蓬莱山きかくほうらいさん太神宮寺の勅号を給い、寺宝『八咫の神鏡』などが保存されていると云う由諸書の高札を太郎は読んだ。なお、正覚院の通称は西のお寺である。


気多大社の神々、正覚院に参拝した後、入らずの森の裏にある折口信夫の句碑を見、その横にある池の堤を散策した。そして、正覚院裏の丘から日本海を望みながら太郎は気多大社前にある駐車場に向かって歩いて行った。


・志賀町の能登金剛・義経の舟隠し  2008年11月15日(土) 午前10時40分ころ


気多大社から国道249号線で40キロくらい走ると能登金剛に着く。

いつも世話になっている弁慶寿司の板前に土産話でも持って帰ってやろうと思った太郎は、松本清朝の推理小説に登場するヤセの断崖近くにある義経の舟隠しを見学に来ていた。

「ひゃー、怖いな。海に吸い込まれそうだ。コバルトブルーの海の色が美しいな。」と思いながら、太郎は細長く深い入り江の奥にある岩場に打ち寄せる白波を眺めている。

能登半島には、奥州平泉に向かう義経や弁慶の伝説話が多く残されている。

伝説によると、義経一行は48艘の小船を連ねてこの岩場に着いたらしい。まあ、それくらい多くの舟が隠せるほど入り江が細長いと云う話であろう。

義経は側室・蕨姫わらびひめの父親である平忠時や、かつて平家一門であった畠山氏を頼って能登に来たようである。義経一行は能登から越後、奥羽へ向かい、関東平野を避けて平泉を目指したのである。松尾芭蕉が奥の細道で歩いた道を逆行して行ったようである。

「夏草や つわものどもが 夢の跡」


・羽咋市 コスモアイル羽咋  2008年11月15日(土) 午後1時30分ころ


義経の舟隠しを見学後、太郎は国道249を走り戻って羽咋市に戻ってきた。

市内の国道沿いにある回転すし屋で昼食を取った後、太郎はコスモアイル羽咋を訪問した。


実物大のペンシル型ロケットがモニュメントとしそびえ立っている。空飛ぶ円盤型のドームの横にある広い駐車場に日産サニーを太郎は駐車させた。

NASAやロシアの協力を得て、実物の月着陸船などを展示した本格的な宇宙博物館である。

アポロ司令船、ルナ24号、ルナ・マーズローバー、マーキュリー宇宙船、ヴォストーク宇宙船、バイキング火星着陸船、ソ連製モルニア通信衛星等々、丁寧に見学していたら4時間以上は必要である。これ程の宇宙船に関する博物館は世界中を探してもここにしかないのではないかと太郎は感心した。

UFOがよく目撃される土地柄であるので、UFOを主体としていると思っていた太郎は、アメリカやソビエト時代の本物の宇宙船が数多く展示され、技術説明もしっかりされているので認識を新らたにした。

もちろん、コスモアイル向けに特別制作された、UFOに関する海外の研究家や科学者が意見を述べたビデオ映像も紹介されている。


宇宙船展示室を出て廊下を歩いて行き、宇宙人の人形などが展示されているショーウィンドウの中に置かれている説明文と漢文で書かれた気多古縁起の写しの前で太郎は立ち止まった。

「そうはちぼんとはアダムスキー型円盤に似た仏具か。そして、そうはちぼん伝説か。羽咋市にある西山(眉丈山)の中腹に火の玉が出て一の宮権現の方へ飛んで行った訳か。荘八坊そうはちょぼんから『潮干る玉』を奪った一の宮権現が一の宮の奥に隠れたのか。一の宮の奥とは気多大社の入らずの森のことだな。とすると、一の宮権現とは奥宮に祀られているスサノオのことか?それとも、この地方を平定した大国主のことか?それと、気多大社の神宮寺であった正覚院にある気多古縁起か。太神宮が率いる九万八千の軍神が干珠・満珠を用いて戦うと海から成山が現れた。成山は神力を使って空を自在に飛行し、あたかも天地の雷神が十方に震動し、海嶋の龍王が怒り暴れたようであった。そのため三韓の軍は快滅(壊滅)し、我が(王)朝の国土は安泰であったと書かれているな。我が朝とは出雲王朝のことか、それとも大和王朝のことかが不明だな。三韓から推定するとこの古縁起の話は大和朝廷の神功皇后時代の事とも考えられるな。しかし、成山なるやまとは鳴山なるやまであり、音を轟かせて飛ぶUFOと推理できなくもないか・・・。干珠とは正八坊から奪った潮干る玉であったのかも知れないな。霊的な何かが働いた訳か?たしか、正覚院の称号は亀鶴蓬莱山太神宮寺だったな。太神宮とは一の宮権現、すなわち正覚院本尊の大日如来か?大日如来は本地垂迹説では天照大神であったな。しかし、気多大社の本地ほんちである地蔵菩薩とすれば、奥宮の地蔵山に祀られている須佐乃王命のことになるか?」と太郎は想像を逞しくした。


UFO科学者が意見を述べているビデオ映像を重点に見学した太郎は、2時間半程度でコスモアイル羽咋を後にした。


昨日から尾行していると思われる1台の車に気が付いていたが、太郎は無視して調査旅行を続けていた。

尾行者は日本人二人である。尾行者も、太郎が尾行されていることに気が付いている事を知りながら、なお且つ尾行を続けている節があった。

「狐と狸の化かし合い、ならぬ運命共同体旅行か・・・。奴らはビッグ・ストーンクラブなのか?それとも、自衛隊か、ケネディ氏殺人の犯人グループか?いずれにしても御苦労な事だ。俺もな・・・、ふふふー。」と太郎は可笑しくなった。

時刻が午後4時を過ぎていたので、太郎は昨日と同じ千里浜海岸の宿に泊まることにした。


・羽咋市 千理浜海岸の旅館  2008年11月15日(土) 午後5時30分ころ


風呂から上がった太郎は、夕食までにまだ時間があるので、明日の行動予定を確認するため石川県の道路地図帳を見ている。


「コスモアイル羽咋で見たそうはちぼん伝説の説明では眉丈山は西山となっていたな。眉丈山は鹿島郡中能登町金丸の近くにある志賀町の山だから羽咋の東北、気多大社の東になるな。西山と呼ぶには、さらに東側の町から見ないと西方向にならない訳だ。とすると、明日行く予定の石動山がほぼ東にあるな。火の玉が気多大社の方角へ飛んでいくのが見えた訳だから、眉丈山麓にある金丸が目撃地として、宿那彦神像石神社があるな。藤原教授が言っていた少彦名命が乗っていた天鏡船と火の玉は関係するのだろうか?石動山の真東の富山湾岸に須久名彦名神社があるな。そして、そこから北に行くと、教授が言っていた七尾市黒崎町の宿那彦神像石神社があるな。それに、正八坊と云うのは近江から来た坊人と呼ばれた僧侶であったのかもしれないな。まあ、明日を楽しみにするか・・・。しかし、この地域では出雲系の神様を祀る神社がほとんどだな。」と地図を見ながら太郎は思った。



能登の錫杖26;鹿島郡中能登町石動山

・石動山資料館  2008年11月16日(日) 午前10時30分ころ


金丸の宿那彦神像石神社では特にあたらしい発見はできず、宮地から酒井へ抜ける県道234号線から国道159号を七尾市方面に向い、ラビア鹿島交差点から県道18号線に入り、中能登町石動山ラ部一番地2にある石動山資料館に到着し、太郎は2階にある展示品の見学を行った。


大和太郎は藤原教授の話していた石動山古縁起「石動山金剛証大宝満宮縁起」の漢文を読んでいた。と云うより、漢字の並びからその意味を汲み取ろうとしていた。

「三つの石は護命石と云い、それぞれ『朝字』、『動字』、『竹字』と云うものらしいな。三千大千世界の万物を生んだ気の種子であるのか。それぞれの石が光り、『福』、『智』、『愛』の三徳を生んだ訳か。これはそれぞれに『日』、『月』、『星』の光を表すと云うことか。朝字石は光明大梵王宮、動字石は金剛証大宝満宮、竹字石は岩金嶋宮に相当すると云う事か?天地開闢から百十万六千年で四世代の地神が過ぎた訳か。そして、彦火火(出見)か・・・?後の文章は紙が巻かれているので見られないのか・・・残念。」


つづいて、太郎は「石動山縁起」の漢文を解釈していた。

「天から三個の光る石が落ちてきた。また、自分で流れる石であるから石動山と云い、伊須流岐比古神社のことである。また、泰澄法師が開いた白山霊神と同一体である。泰澄たいちょうが越知嶺で出会った神人が日本国は神国であると言った。(日本国が出来てから)国常立尊の神世が最初であった。神世の七代目がイザナギ尊とイザナミ尊である。」と書かれていると太郎は理解した。

「古事記・日本書紀(略して記紀)に書かれた国生みの神はイザナギとイザナミであったが、この「石動山縁起」の文面ではもっと別に国生みの神が居ると云う事なのか?単に今の世は七代目の神が霊的に支配している世の中とでも云っているのかな?」と思いながら太郎は五社権現本地仏の五体の像写真展示の前に来た。

倶利伽羅くりから不動明王(剣宮)、蔵王権現(火宮)、虚空蔵菩薩(大宮)、十一面観音(白山宮)、勝軍しょうぐん地蔵(梅宮)か。勝軍とは、ピラミッド研究者の酒井勝軍さかいかつときと同じ漢字だな。何か因縁でもあるのかな?倶利伽羅不動明王の像は背びれのある大蛇か龍が剣に巻き付いているイメージだな。倶利伽羅とは龍のことかな?確か、大阪と奈良の境にある生駒山の倶利伽羅峠近くには八大龍王が祀られていたな・・・。」と写真の像を見ながら他愛もないことを太郎は考えていた。


五社権現本地仏の像写真の後、三幅対の掛け軸に描かれた三本の独鈷宝剣の絵を見た太郎は資料館を後にした。


・伊須流岐比古神社  2008年11月16日(日) 午前11時ころ


資料館を出て、その向いにある複元された大宮坊を見学した後、太郎は歩いて伊須流岐比古神社に来た。

「これが動字石か。古縁起では三つの石が天から降って来たことになっていたが、一個しかないな。それに苔生こけむしているが、焼け焦げた跡も見られないな。宇宙から降って来た石なら黒く焦げていても良さそうだが。あれ、ここの説明書きでは安山岩となっているな。隕石ではないのか。どこかの火山の爆発で飛んできたのかな。写真でみた竹内文献の十戒石は黒く焦げたような色であったな。あっちの方が隕石みたいだな。しかし、石動山に三個の石が降ってきたのではないのか。この山にあるのは動字石一個だけか。朝字石と竹字石は他の山か何処かにあるのかな?うーん、よくわからないな。」と思いながら、拝殿に向かった。


伊須流岐比古神社と彫られた石柱を見ながら、石の階段を上がり、石の鳥居をくぐって行くと二本の厄除け錫杖が野ざらしで立て掛けられている場所に出る。

「宝達教授が持っていた錫杖を思い出すな。」と思いながら、太郎は錫杖に触れてみた。

厄除け錫杖から少し歩くと拝殿に至る。拝殿の後には石動山山頂の大宮から明治時代に移築された本殿がある。


飢饉の時にイワシが湧いたと云うイワシガ池を見たあと、動字石の横の道から石動山山頂に向かって歩いて行った。

明治時代に神仏分離令が出される以前は石動山には五社権現が祀られていた。石動山全体が祭殿となっていたのである。

山を登り始めて、最初に出くわしたのが梅宮跡である。天目一箇あめのまひとつ命を祀っていた。本地仏は勝軍しょうぐん地蔵菩薩としていた宮である。天目一箇命は鍛冶の神様であり、刀剣に関係する神である。

山頂には大宮(本社)と白山社があった。祭神はそれぞれ、イザナギ尊、イザナミ尊としていたようである。太郎が見た現在ある社祠は白山社であった。本地仏は虚空蔵菩薩と十一面観音である。

山頂からの登りとは別の下り道には、大物主を祀っていた火宮跡と市杵島姫命を祀っていた剣宮跡がある。本地仏は聖観世音菩薩(火宮)と倶利伽羅不動明王(剣宮)である。

そして、伊須流岐比古神社への戻り道には行者堂がある。行者とは修験道の祖である役小角えんのおづののことである。役小角は716年に石動山に登山したとされている。


※石動山は方道仙人が崇神6年(2〜5世紀?)に開いたと云う説と泰澄上人か智徳上人が717年頃に開いたと云う説がある。古縁起の内容はこの開山時期より遥か昔の話であり、神仏祭祀はもっと古くから行われていたと考えられる。出雲王朝かそれ以前の古志王朝時代からこの山で祭祀は行われていたのではないだろうか?(著者記)


太郎は伊須流岐比古神社前の駐車場に止めていた日産サニーに乗り、高坂剣主神社の前を通って富山湾側に向かって車を走らせた。



能登の錫杖27;七尾市

・七尾市黒崎町 宿那彦神像石神社  2008年11月16日(日) 午後3時ころ


祭神の少彦名命は大己貴命と別れ、光輝く小舟で海の彼方からこの地に到着した。この地の豪族である阿良加志比古神と協力してこの地を平定したとされている。

本殿に参拝した太郎は境内にある奇妙な石に目が止まった。直径1メートル、高さ1メートルくらいのマクドナルドハンバーガーの形に似た重ね石であった。

「奉納された石組みのようだが、UFOに似ているな。いつ頃からここにあるのだろう?UFOマニアが奉納したのだろうか?」と思いながら太郎はデジカメを取り出して撮影した。


※七尾市は古代には香島津と呼ばれていた港町である。北海道と往来した松前船などの寄港地でもあった。能登島の海岸部は古代から製塩が行われ土器製塩の遺跡が多くあり、朝鮮半島の高句麗系墳墓と類似した横穴式石室のある古墳も発見されている古くからの文化が根付いている町である。


・七尾市田鶴浜町赤蔵山 赤蔵神社  2008年11月17日(月) 午前9時ころ


七尾市内のホテルを8時30頃出発して、国道249号の三引口交差点を左折し、9時前に赤蔵山憩いの森に太郎は到着した。

金山所在地の古文書に関係したものでも見つかればと思い、太郎は赤蔵山を訪れた。

山頂の奥の院まで上り降りてきた。そして、亀山天神があったと思われる場所を見てみたが、何も発見できず、赤蔵山を辞した。

亀山天神の名前の由来も不明のままであった。

「全くの徒労であったな。まあ、上杉兼信の能登攻めでほとんどの神社仏閣が焼け落ちたのだから、何か残っているはずはないか・・・。じゃあ、これからは学生時代に遊んだトヤン高原と甲へ行くか。なつかしいな。しかし、最近の地図からはトヤン高原の名前は消えて沖波山しか出てこないな。どうしてだろう?鉄道が廃止されたためかな。」と思いながら赤蔵山憩いの森から国道249号に入り、太郎はサニーを穴水町に向けて走らせた。



能登の錫杖27;穴水町甲

・穴水町沖波山(旧トヤン高原)・立戸浜  2008年11月16日(日) 午前11時ころ


国道249号で立戸浜海水浴場方面と書かれた道に右折し10分くらい走ると、甲方面への分かれ道に出る。そこを右折して道成りにサニーを走らせ、甲村の海岸線に出て、太郎は立戸浜着いて、道路脇の少し広くなったスペースに車を停めた。


「学生時代に宿泊した民宿もなくなっていたなあ。電車も走っていないし、時代は変化していると云うことか。人影も無いしな。しかし、この海水浴場は遠浅の海のままなんだろうな?真夏でも湘南海岸みたいな人混みにはならない海水浴場だったな。かつてのトヤン高原も海が見えないくらいに雑木林に変っていたしな。トヤン高原の名前が地図から消えていたのも判るな。海の見えない丘は高原とは呼べないかな。やはり、沖波山の時代に変ってしまった訳だ。」と太郎は砂浜を歩きながら、過去を懐かしむように目の前に広がる海の彼方を眺めていた。

「そういえば、あそこに見える甲村の円山まるやまには神社があったな。名前は忘れたな。どのようになっているのか、行ってみるか。」と海岸線の遠く右前方に見える小高く丸い山、かぶとのように見える山を太郎は見た。


・穴水町甲、円山の加夫刀比古神社 2008年11月16日(日) 午前11時30分ころ


海岸線の県道34号を走り、兜小学校の手前のT字路で左折して細い道に入り、太郎はそのままサニーを直進させて、さらに未舗装の道を進んで鳥居前に出て、そこの道端に車を停めた。

加夫刀比古神社と彫られた石柱が石の鳥居前にある。

「ああ、藤原教授が言っていた神社だな。」と太郎は先日の藤原教授の話を思い出していた。

コンクリートの階段を上がり社殿に出た。この地の人らしい男性と出会い太郎は祭神が誰であるのかを聞いた。

「本来は大己貴命、少彦名命、稲倉魂命です。大正時代になって、近くにあった神社の神様である火具土命、蛭子命、速玉乃男命を合祀しています。」と云う返事が返ってきた。

「そうですか。創建年代などはご存じですか?」

「いえ、知りません。と云うより判っていないと言った方が良いでしょう。誰も知らないのです。」

「そうですか。ありがとうございました。」

その男性は太郎が来た方向へ帰って行った。


太郎は参拝を終えて、社殿の周りを歩いたあと、何も発見できなかったのでそのまま神社を後にし、富山県高岡市に向かった。



能登の錫杖27;富山県高岡市〜京都修学院

・高岡市にある射水神社  2008年11月16日(日) 午後4時ころ


宝達教授の妹である宝達奈巳さんが持っているはずだと云う御守りが射水神社のものであったので、射水神社とはどのようなところであるのかを確認する為に大和太郎は高岡市に来た。


「先に行った二上山麓の二上射水神社境内にはご神体の男神坐像や天の真名井、築山があったが、ここ高岡城内の射水神社は社殿だけで、特に参考になるものはないな。二上山から城内に遷座した意味は何だったのだろう?事前に調べた内容以上のものは何も発見できなかったな。高岡城内の新しい社殿に天孫ニニギ命を祀るのが明治新政府の目的であったのだろうか?射水と云う名称に何か意味があるのかな?天の真名井だから清水神社とか、聖水神社なら判るのだが・・・。城の周りにある堀の水量は豊富だが・・・。とすると、堀に囲まれた高岡城内が天の真名井と云うことだろうか?二上山頂の奥宮にあるのは日吉社で二上大神は祀られていないと云うことだが。そうか、築山神事では、4月23日の祭の時だけ天から二上神が築山に降りてくると云う話だから、通常、二上大神は射水神社には居ない訳だ。しかし、二上大神の正体は誰だろう?ご神体は男神だったな・・・。」と思いながら、太郎は高岡城内を散策し、その後、城内の駐車場に戻り、サニーに乗って城の近くにあるビジネスホテルへ移動し、そこに宿を取った。


※越中総社射水神社;

祭神の二上神ははるか古代に高岡市にある二上山に降臨したとされる。江戸時代には二上大権現と呼ばれていた。明治初年に射水神社と改称され、高岡城に社殿が移されたのは明治8年であり、それまでは二上山の麓に社殿があった。延喜式神名帳には射水神社とあり、続日本紀に越中国射水郡二上神叙従五位下とあるのが記録上の初見である。なお、神階授与は南栃市高瀬にある高瀬神社と同時・同階で行われている。奥宮は二上山山頂に現在もあるが、日吉社祠があるだけである。二上山麓にある射水神社の石造りの神庫には御神体とされる木造男神坐像(平安期の作)が安置されている。境外摂末社には日吉社・大山咋神、悪王子社・地主神、諏訪社・建御名方神、院内社・菊理媛神、悪王子社・地主神が祀られてある。


ところで、竹内文献を世に出した竹内巨麿は養子であったが、別に南朝後醍醐天皇の直系・竹内宿禰を名乗る家系がある。この家系は二上山麓の射水神社を拠点にしているらしい。この南朝派竹内家には、『言霊ことだまの行法』など、いろいろな秘術・口伝があるらしい。戦国時代の南朝派竹内家の祭主は京都の法華宗と関係があったらしく、二上山山頂の奥宮には日吉社祠の他に南無妙法蓮華経と彫られた石碑がある。


※天の真名井;

記紀(古事記、日本書紀)によると、天照大神と須佐乃王命が誓約うけひをした時に使ったかがれを払う清水は高天原にあるこの井戸から汲んだ水を使った。

須佐乃王命が持っていた剣を天の真名井の水で清めた後、天照大神がこの剣を噛み砕くと3人の姫神が産まれた。この姫神が宗像三女神の奥津島比売命、辺津島比売命、市寸島比売命です。天照大神が持っていた玉を天の真名井の水で清めた後、須佐乃王命がこの玉を噛み砕くと5人の男神が産まれた。天忍穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命である。このことによって、須佐乃王命は天照大神を裏切ることはないと証明された、とされる。(意味不明?)

以上の話から、天の真名井は神が約束事を行う神聖な場所と想像できる。


※高瀬神社;富山県南栃市高瀬

越中一の宮である。祭神は大己貴おおなむち命、天活玉あめのいくたま命、五十猛いそたける命である。社家は八兵衛(八平)を名乗る。祭神につての伝説は気多大社と同体説(大己貴命)、高麗からの渡来説(五十猛)がある。この神社近くの遺跡からは土師器、須恵器などが出土している。この神社の『火縄授け神事』は京都八坂神社の正月元旦参詣で庶民が神社から火縄に火をもらい、火が消えない様に縄をくるくる回しながら家に持ち帰り、お雑煮を焚くかまどの種火とする『をけら参り』に似ている。京都八坂神社の祭神は須佐乃王命であり、五十猛命の親神である。また、この神社の近くには平安時代初期の奈良・東大寺の荘所跡とされる高瀬遺跡がある。天活玉あめのいくたま命は大国主命の第57代目の子孫であり、大和朝廷が越の国に派遣した軍団長・吉見笠見命であると謂われている。いろいろと訳ありの神社ではある。



・京都市左京区修学院の藤原教授宅  2008年11月17日(月) 午後3時半ころ


高岡市内のビジネスホテルを早朝に出発した太郎は午前中にJR金沢駅前に着いた。駅前にある日産レンタカーにサニーを返し、北陸本線で京都に向かった。そして、午後3時過ぎに叡山電鉄修学院駅に到着した。

D大学での授業を終えて帰宅した藤原教授に大和太郎が能登調査旅行の報告をしている。

デジタルカメラの映像を教授のパソコンにダウンロードし、その写真映像画面を17インチモニターで見ながら、太郎は教授に現地の状況など説明をし終えた。


「ありがとう、大和君。この情報を基にして、いろいろと研究してみます。2週間後くらいにお互いが研究・検討した内容を持ち寄って議論しましょう。」と藤原教授が言った。

「判りました。では2週間後くらいに教授に電話をいたしますから、その時に会議日時を決めましょう。」と太郎が言った。

しばらく雑談をした後、太郎は教授宅を辞して、午後6時20分発の東京行き新幹線に乗車するためにJR京都駅に向かった。


             

              〜能登の錫杖:中編 完〜

                目賀見 勝利

                (後編に続く)


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