第七話【イマジナリーシンドローム】
それから、季節は静かに歩を進めていった。
日ごとに空気が和らぎ、風の中にほんのりと春の匂いが混じるようになってきた、そんなある日のこと――。
廊下をゆっくりと歩いていた僕は、不意に一人の女の子とすれ違った。
……あれ?
胸の奥で、何かが跳ねた。
その横顔に、どうしようもなく“彼女”の面影を感じたのだ。
思わず振り返り、気づけば無意識のうちに駆け出していた。
「あの! ちょっとだけ、いいですか?」
勢いのまま声をかけると、女の子は少し驚いた様子で立ち止まった。
「えっと……どうしたの?」
どこか見覚えのある、でも確かに初対面のような、不思議な距離感。
それでも僕の中では、何かが確かに動いていた。
「僕は……あなたに救われたんです。覚えてませんか?」
唐突な問いかけに、彼女はぽかんと目を丸くして、それから首を傾げた。
――そうだ。覚えているはずがない。
僕が見ていたのは、心の中にいた“彼女”で、現実の彼女とは違う人間なのだから。
それでも、胸の高鳴りは収まらなかった。
しばらく沈黙が流れた後、彼女はふと目を細め、はにかむように笑った。
「あっ、もしかして――校門の前で財布落としてた人?」
その言葉に、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
そうだ。
あの日、僕が落とした財布を、何の見返りも求めず、自然に拾って差し出してくれた女の子。
そのさりげない優しさが、やがて心の中で形を変え、僕だけの“彼女”となったのだ。
「もしよければ……お礼をさせてもらえませんか?」
申し出に、彼女は少し目を見開いてから、ふっと肩をすくめて笑った。
「じゃあ――購買のパン、奢ってよ。私、ずっと気になってるのがあるんだ」
「はい、わかりました! 昼休みに、購買前で待ってます!」
彼女は照れくさそうに笑って、軽やかにその場を後にした。
その後ろ姿を目で追っていると、不意に背中をポンと叩かれる。
「っよ! さっきの子、誰? もしかして……彼女か?」
振り向けば、そこには、現実に存在する友達がいた。
目の前にいて、言葉を交わせて、笑い合える、本物の友達。
僕は笑って、そっと首を振った。
「いいや、違うよ。今はまだね」
だけど、きっとこの先に、何かが始まる。
そう信じられるのは、今も心の奥に“あの彼女”が静かに微笑んでくれている気がするから。____________