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第六話【刻まれたイマジナリー】

帰宅した僕は、靴を脱ぎながら、いつもより少しゆっくりと歩いて自分の部屋へと向かった。

扉を開けたとき、差し込んだ夕陽が床を斜めに照らし、長く伸びた影を静かに揺らしていた。

空気は澄んでいて、何かが終わったあとの静けさが、部屋中にそっと染み渡っている。


鏡の前に立つ。

そこには、確かに“僕”が映っていた。

でも――ほんの一瞬、まばたきほどの短い時間だった。

鏡の中の“僕”の顔が、ふと、“彼女”の顔に変わった。


涙を湛えたまま、どこか満ち足りたように微笑んでいた。

その唇が、かすかに動いた。


「ありがとう……」


か細い声だったけれど、はっきりと聞こえた気がした。

そして彼女は、何の前触れもなく、ただ風が撫でるように音もなく消えていった。


続けて、陽介が――蓮が、椿が、まるで約束でもしていたかのように、静かに姿を消していく。

誰も言葉を残さなかった。ただ、ほんのわずかな温もりだけが、そこに残された。


僕の胸の奥から、彼らはそっと旅立っていった。

まるで最初から、そこにいなかったかのように――でも確かに、心のどこかに永遠に刻まれたまま。


____________________



教室のざわめきが、いつもより遠く感じた。


でも、今日は違った。僕の中に、確かに変化があった。


胸の奥で小さく深呼吸をしてから、意を決して隣の男子に声をかけようとする。

けれど、口の中で言葉が絡まって、最初の一言が出てこない。

どうしよう――そう思って立ち尽くしていると、突然、背中にぐっと力強い何かが触れる感覚がした。


――陽介…?


そんな気がした。

根拠なんてないけれど、なぜだか、そうとしか思えなかった。

それだけで、心のどこかからふっと勇気が湧いてきた。


僕は自分の机からノートを引き抜き、パサッと勢いよく開いて、思い切って隣の男子に差し出した。


「ねえ、これってどうやるの? どうしても分からなくて」


踏み出せた。

一歩を――確かに。

後ろで、陽介がいつものように豪快に笑っている気がした。気のせいだと分かっていても、なぜかそれが嬉しかった。


「ん? ああ、それなら、ここにこの公式を当てはめればいいんだよ」


その男子は、僕の胸のうちに渦巻くいろんな気持ちには気づくこともなく、すんなりと教えてくれた。

――そういえば。

以前、同じ問題に詰まった時、蓮が黙って指し示してくれたことがあったな。


「ロンリーは治まったのか?」


不意に、そんな言葉が頭の中に浮かぶ。懐かしい声色のような気配に導かれて、ふと後ろを振り返ってみる。

けれど、そこには誰もいなかった。ただ、静かな空気が揺れているだけだった。


前を向き直ると、男子が不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。


「よそ見なんかして、ちゃんと聞いてるのかよ?」


「ごめん! ちょっと後ろが気になっちゃって」


「ったく……」


男子は呆れたように肩をすくめる。

それがなんだか、すごく普通で、だけどとてもありがたく感じられた。

こんな当たり前のやりとりが、僕にはどれだけ遠かったことか。


ここまで丁寧に教えてくれた彼に、ちゃんとお礼を言わなくちゃ――

そう思うのに、喉元で言葉がつかえて出てこない。

どうやってこの気持ちを伝えたらいいのかが分からない。


戸惑っていると、ふいに、そっと手を握られるような感覚がした。


――椿…なのか?


その名を胸の中で呼んだとたん、椿の面影がふわりと蘇る。

多くを語らない子だったけれど、その分、ひとつひとつの言葉に、確かな重みと優しさが宿っていた。

君の言葉には、いつも心が込められていた。

だからこそ、きっと――人の心を動かすことができたんだと思う。


だったら、僕も。

飾らなくていい。ただ、思っていることを、そのまま言葉に乗せればいい。


「助けてくれてありがとう。もしよかったら、また教えてくれると嬉しいな」


素直な気持ちを、まっすぐに届けた。


「仕方ないなぁ。……また教えてやるから、今度はよそ見すんなよな」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

目頭がかすかに潤む。


「ええっ? 泣いてんの? 俺、なんか悪いこと言ったか?」


「……その、嬉しくて」


きっと、椿の影響だ。

君がくれた優しさが、今もこうして僕の中に残っていて、心を包み込んでくれる。


そして、いつの間にか涙が乾いた頃には――

もう、椿の気配はどこにもなかった。


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