温度差!
幸福を願えるだけで幸せだと、そう思えるほどの恋だった。
この世界はアルドゥール、そうしてヴァルデンス家の物だ、と嘯いたのは、親戚の誰だっただろうか。愚かなことをとは思ったが、否定する言葉も持たなかった。―――世界随一の大国、アルドゥール王国。その王座に就くことは、世界をいかようにも操れることに他ならない。
幸いだったのは、父も母も兄姉もみな優れた人格を持ち、この国の立場と玉座の重さ、そして己も民も同じ人間であり、ひとしく命一つにすぎないことを知っていたことだろう。
自然と理想となるほどに、素晴らしい人たちだった。公私を分けたが、私的な部分―――家族として接する時には、末の息子、あるいは弟として愛され、多くのことを教わり、導かれた。城の大広間では厳粛に王家の人間同士の議論が交わされても、私室では笑い声が響き、暖炉の火が家族の顔を穏やかに照らした。
だが、十四歳の時に出会った二つ年下の彼女との出会いは、今までの人生全てを塗り潰すほどの衝撃だった。
「お初にお目にかかります。エレノア・クロレディアと申します」
隣国カミドニア王国の外務大臣の娘がしばらく王城に滞在する、二つ年下らしい、と。それだけ聞いて彼女を出迎えた日、初めて恋を知った。王城の中庭、噴水の水音が響く中、彼女は銀髪を風に揺らし、青い瞳でこちらを見つめた。目を離せなくなるほど、体が震えるほど美しく、同じ人間とは思えないほど可憐な少女。けたたましく跳ねる心臓も、体温が上がり赤くなった頬も隠せない。
同席していた兄がおやおや、と笑い、それじゃあエレノア嬢に王城を案内する役目はラインハルトに任せようかと言った時、咄嗟に返事もできなかった。
一目で恋に落ちた彼女は、内面も素晴らしかった。愛らしく、心優しく、真摯で愛情深い。身分の低い者に驕った態度を取ることはなく、知識を求めることに熱心だった。王城の庭師の名前すら憶え、図書室では古い本を手に熱心に質問を投げかけた。
兄も姉も、両親すらエレノア嬢といるお前は普段よりずっと楽しそうだ、ならばその時間を大切にしなさいと言ってくれた。だから、彼女がアルドゥールにいる間、最も親しかったのは間違いなく俺だった。彼女がこの国の歴史を学びたいと言えば図書室に案内し、本棚の間で問われる全てに答えた。この国に咲く花が綺麗だったと言えば、王城近くの群生地へ馬に二人乗りをして連れて行った。エルシーの花が咲き乱れる丘で、彼女の銀髪が風に舞い、笑顔が陽光に輝く。ともにいると心が跳ね、息が詰まりそうなほど、彼女の細い指先も、変わる表情も、美しいと思う。
「私も、ラインハルト様といると、とても楽しいです。ラインハルト様は本当に物知りで、沢山のことを教えてくださるから。……私は、より多くのことを知りたいのです。知識があればあるほど、誰かの役に立てます。クロレディア公爵家のために、カミドニアのために。いつか、カミドニアが、アルドゥール王国に負けないほど素敵な国になるように」
それがきっと、公爵家という恵まれた家に生まれたわたしにできることだと思うのです、と、彼女は微笑んだ。その笑顔に焦がれ、けれど胸が激しく掻き乱される。
そう―――焦がれた彼女には、すでに婚約者がいた。出会った時すでに、彼女はカミドニア王国の第三王子と婚約していたのだ。
生まれた時からの婚約だそうだ。それだけで、カミドニアに生まれなかった自分を恨んだ。自らがこれ以上なく恵まれていると知っているくせに、今与えられている全てよりも、彼女の隣が欲しかった。
簡単に奪い取れるだろう、と兄は言った。
「彼女がお前と縁づくなら、カミドニアにとって大きな利益になる。第三王子の婿入りより余程だ。エレノア嬢の父も嫌とは言うまい。好きだと一言言えば、それだけで彼女は国に帰らなくなる。お前が彼女の帰国日を指折り数えて、枕を殴ることもなくなる」
枕を殴ってなどいません、と答えるだけで精一杯だった。
あと少しで彼女はいなくなってしまう。たった一言焦がれていると言えば、ずっと共にいられる。それはどんな蜜より甘い囁きだった。だが、俺が彼女を求めれば、彼女は応えざるを得ないことも分かっていた。
エレノアと一緒にいたい。この先どれだけ生きても、彼女ほど素晴らしい人には出会えないだろう。ただ、それ以上に、俺一人の願いのために彼女の未来を縛り、彼女の国を愛する心を蔑ろにすることは、どうしてもできなかった。
最後の日、本当にありがとうございました。このご恩は忘れませんと微笑む彼女に、俺も君を決して忘れない、と手を差し出した。王城の中庭、風が吹き抜ける中、彼女の手が俺のそれを握り返す。また手紙を送りますね、たくさんお伝えしたいことがあるんですと、てらいなく笑いかけてくれる彼女だから、手を離すことができた。
ただ、君の幸福を願っている。
王位継承権が転がり込んできたのは、十八になった時だった。
溺愛する侯爵家の一人娘の恋人のために婿入りしたい兄と、女王となるより研究に打ち込みたい、と迷わず玉座を手放した姉。この国はどうするつもりだと問えば、お前がいるだろうとあっさり言われた。
「お前なら大丈夫だろう」
「そうそう。あなたは私より、ジグルドよりずっと真面目だしね。私たち三人は全員王位継承者としての教育を受けたし、充分な能力を持っている。でも一番王に相応しいのは、間違いなくあなたよ」
だからよろしく、と軽く言われ、両親も頷いた時には本気かと拍子抜けしたが、首を振るつもりはなかった。
王としての重圧は、今想像するよりずっと重いだろう。万民を幸福になどできない。それでも、相応しいと言ってくれた家族や臣下の期待を裏切らないように。そして願わくば、俺が良い王となることで、エレノアに恩恵があるように。彼女の日々が穏やかで、幸福に満ちたものであるように。
即位が近づく。公務の一環でカミドニア王国に行く必要が生じたのは、王太子となって二年が経った時だった。
二つ年下の彼女は、もう十八歳、成人になる。最後に会ったのは二年前、パーティの一夜だけだった。あの時も顔を見ただけで笑えるほど心臓が跳ねたが、今のエレノアはどんな美しい女性に成長しているだろう。
「浮かれているな」
「有頂天よね」
そう、指をさして兄や姉に指摘されるほど、その日が待ち遠しかった。
エレノアがいなくなったと聞かされたのは、そんな日々の中だった。
エレノアの婚約者は彼女を嫌っていたらしい。学園で恋人を見つけ、彼女が邪魔になった。だから学園の夜会で婚約破棄を告げ、懲罰牢に閉じ込めた。
彼女は暗く冷たい地下に幽閉され――朝にはもう、いなくなっていた。
見張りもいたが、深夜に男二人が牢を訪れ、追い払ったらしい。その理由も、彼女が何をされたかも、簡単に予想が付く。
エレノアがいなくなったことを伝えたのは、彼女の父だった。
彼女がいなくなって7日も経たず、カミドニアの外務大臣は秘密裏にアルドゥールを訪れた。王城の謁見室、燭台の火が揺れる中、彼は床に額を擦り付け、クロレディア公爵家はカミドニアを裏切りアルドゥールの所有物にする、だからどうか王家と教会を滅ぼしてほしい、と俺に訴えた。
「娘はずっと、王子に蔑ろにされ続けておりました。そうして今、王家も教会も、あの子の死を、王子の不祥事ごと隠蔽するつもりです。そうしてアルヴィンは、のうのうと恋人と結ばれようとしている。許せるはずがありません。私にできることなら何でもしましょう。あの子は妻が残した、私の唯一の家族です。……愛する者を失った世界に生きる価値などありません。けれど、あの子を殺した者を殺さずには、私はあの子の元に逝く権利すらないのです」
男の必死な懇願。惨めに床を這う瞳には、壮絶な殺意があった。
彼女は死んだという。復讐したいと彼女の父は言う。
ーーー言葉の意味は理解できても、ほんの少しも実感がなかった。
エレノアはいなくなったらしい。暗く冷たい牢で一人きりにされて。あんなにも優しく美しい人が。誇りも尊厳も踏みにじられて。
もうカミドニアに彼女はいない。この世のどこにも、いない。
なら。ならば。
「そうか。あなたにも協力してもらおう。……カミドニアに行く予定を早める」
ありがとうございます、と呻く彼女の父の声は、亡霊のようだった。俺も、似たような顔をしているだろう。
エレノアの父は表向き、教会にも王家にも、従順にエレノアの死を受け入れているふりをしているらしい。カミドニアは教会が王家に勝る権力を持つ国だ。従順なふりをして、俺をカミドニアに招き入れるのが彼の役割だ。
第三王子が彼女を殺したのか、その隠蔽を教会が行う理由は何か。理由など、カミドニアに着けば全て分かる。二国の力の差は圧倒的なのだから。
ーーー知っていたのだ。彼女が婚約者と上手くいっていなかったことを。あの第三王子はエレノアを蔑ろにし、俺には相応しくない女だと抜かしていたらしい。
彼女が婚約者を愛し愛されていたのであれば、どれだけ妬ましくとも、この感情は墓まで持っていっただろう。けれど、彼女を貶すような人間が婚約者ならば、俺を選んでくれないかと思っていた。
あと数月でカミドニアに行ける。その時に想いを伝えよう。彼女が嫌だと思えば断れるように、二人きりの場で。俺が望んだからと、無理強いをしないように。断られたら身を引こう。だが、もし受け入れてくれるなら。
そんな浮かれた、無能が俺だった。
とんだ、笑い話だ。
エレノアの父がいなくなり、深く息を吸う。右手が震えていた。
なぁ、エレノア。
カミドニアで、君を見つけよう。君の棺に何もないなど、髪一束もないなど、君からもらった手紙だけが残るなんて、あんまりだ。
真実を突き止めよう。彼女を殺した者を、その理由を作った人間を、死を隠蔽した人間を、その理由を、ひとつ残らず詳らかにしよう。
そうして。第三王子を、その恋人を、彼女を牢に閉じ込めた者を、牢に入った男二人を、―――彼女を殺した人間を、俺は殺すだろう。
それができるだけの立場を持っている。カミドニアへの侵略と言われようと構わない。善い王になりたい心は、君と共に亡くした。王位継承者の立場を失って、期待してくれた家族を失望させるとしても。この剣は必ず、君を殺した者に振り下ろす。
なぁ、エレノア。
共に生きて欲しかった。けれど幸せなら、笑っていてくれるなら、それだけで良かった。
それすら叶わないなら、俺はこの世界への一切の期待を捨てよう。君が愛した優しいもの、温かいものを、もう俺は何にも望めない。
弔いにすらならないだろう。君がそれを望まなくても、人として許されなくとも、それは所詮人の理屈だ。
君を死なせた全てが憎い。殺したくてたまらない。
∮
殿下、と声をかけられ、側近に視線を向ける。
あてがわられた学園の貴賓室で手を拭う。第三王子と握手した手を、何度も、何度も。絹の布が擦れる音、ひたすらに、手のひらが赤くなるほど力を込めた。
カミドニアに行く予定を早めた俺に、家族は何も言わなかった。ただ、臣下は俺が連れていくと言った以上の人間が、共に行きます、と声を上げた。あの人たちが声を掛けたのだろう。
「……ジェイド、ジョゼファンは王城に戻れ。財務部から、まだ情報を吐き出させられるだろう。教会の帳簿を差し出させろ」
「承知いたしました。…………殿下。我々は、あなたの剣であり、道具です。いかようにもご命令を」
そうか、と呟く。俺には惜しいほどの臣下ばかりだった。王家に深く忠誠を誓っており、俺が命じれば、今すぐでもエレノアの婚約者、アルヴィン・シュヴァイカ―を殺すだろう。アルドゥールの王太子が他国の王族を殺すよりはと、汚れ役を自ら望む人間だっているかも知れない。
けれどこれは、俺の復讐だ。そうして、今あの男の胸に剣を突き立てても、アルヴィンは自分がなぜ殺されるのかすら理解しない。そんなことは許さない。
エレノアを裏切ったあの男。あいつは俺の手で、最も絶望させる方法で、必ず殺す。
∮
「おかえりなさい、ミラ! どうでしたか? ラインハルト様はお元気そうでしたか?」
「ただいま。ねえ、エレノア。あなたの幼馴染の王子様、ちゃんと学園に来たけど、なんだかすごく怖かったわよ?」
暇つぶしになればと、学園の備品からこっそり持ち込んだ刺繍セットを渡して数日。地下室に戻ると、エレノアはハンカチに小鳥の刺繍をしていた。ランタンの光が彼女の銀髪を照らし、細い指が針を針刺しに戻す。今日もものすごい美人だこと、と思いながら、彼女の美貌の幼馴染の話を振る。
「そんな……。ラインハルト様は、すごく優しい方なんです! 博識で、なのに少しも驕ったところがなくて。あの方のお兄様もお姉様も素敵な方ですが、ラインハルト様より素敵な方なんてどこにもいません。 何があったのかしら……」
「ふうん。……あなた、ラインハルト様が好きなの?」
やたら褒めるのね、と軽い気持ちで言った。すると、エレノアの青い瞳が一度瞬いた。
「……まさか。ふさわしい家柄だからと、生まれた時から私はアルヴィン殿下の婚約者でした。あの方が我が家に婿入りする予定だったとはいえ、私は王家の方の、妻となる身です。他の方が恋しい、なんて、少しだって考えるべきではないでしょう?」
「そう。なら今は?もう婚約破棄されたし、王子様の婚約者じゃないでしょう。あなた個人として、ラインハルト様のことはどう思っているの?」
個人的には美男美女で、凄く目の保養だと思う。ぜひ隣に並べてみたい、王子様の方はなんか怖いけれど。
「今の、ですか。ええっと…………優しい方だな、というのは、ずっと思っています。けれどすごく努力家で、いつも国の為に出来ることを、考えてらっしゃって。でも、時々、可愛らしいところのある方なんです。あの方のお兄様とお姉さまとは、羨ましくなるくらい仲良しなんですけれど、時々からかわれて不満げにされるお姿が、微笑ましくて」
「…………………やっぱり好きなの?」
その言葉にエレノアが瞬きする。ランタンの薄暗い光では分かりづらいが、耳も赤い気がした。
これは、もしかして。
「ふ~~~ん? なるほど~~~?そりゃあんな婚約破棄してくるクソ男よりずっと良い男よね?大事なのは今よ今」
「そ、そんな! ど、どうしてアルヴィン様と比べるんですか、す、好きなんて!だいいち、あの方はアルドゥールの王子様で、今は王太子様なんですよ、私なんてとても釣り合うはずが……! も、もう寝ます。おやすみなさい!」
かばり、と毛布に潜り込んで顔を隠そうとする彼女の手を掴み、勢いよく布を引っ剥がす。
「駄目よ、もっと王子様との話を聞かせなさい。まずは馴れ初めから!」
「な、馴れ初めってなんですか?! まるで恋仲みたいに……幼馴染です!付き合ってなんていませんから、馴れ初めじゃありません! でも、誕生日には私が好きなエルシーの花の髪飾りをくださったりとかはよく覚えて……って、何を言わせるんですか!?」
それはもちろん、楽しいガールズトークを。彼女の慌てる姿に、つい笑いがこみ上げた。