トレエ・グランツ
アルドゥール王国の王太子が来るのは、2週間後らしい。だが、エレノアが実家に出した手紙に書いた父親との待ち合わせの日は、それより早い。
その前日、普段通りを装っていたが、彼女の青い瞳は揺れ、不安げに見えた。地下室の冷たい空気の中、ランタンの光が彼女の銀髪を照らす。
―――王城に派遣された兵士のことなども考え、待ち合わせの日は余裕をもった日程にしたけれど、とうに手紙が届いているはずの今、聞く限りでは、公爵家から学園に、何の音沙汰もなかった。さんざん林などを探していたのに、王家によるエレノアの捜索自体も、成果なしということで打ち切られようとしている。裏にいるのは王家か、それ以外か。分からないけれど、この美しい少女が最初からいなくなったことにされてしまうのでは、という不安と、そんなことがあるのか、という気味の悪さは付きまとう。
「温かいものでも食べて。……きっと大丈夫よ」
召使の寮から温めてこっそり持ち出したスープを、彼女の口に押し込みながら呟く。自分の手は冷たかったし、声音には出さないよう気を付けたけれど、彼女に不安が伝わっていないだろうか。すこしも確信はなかった。娘を愛する父親なんて見たこともない。けれどそれを、不安げなエレノアに言えるはずがなかった。
そうして約束の午後五時、学園の裏門近く、アレシダの木の根元。近くの物置の整理をするふりをしながら、訪れるはずの彼女の父や、その関係者を待った。錆びたシャベルや埃まみれの木箱を動かす音すら響かないように、隠れて。だが。
「うーん、いないなぁ。ここに来るって書いてあったのに」
いつかのように手の中のシャベルを取り落としそうになり、咄嗟に強く握りしめた。金属の冷たさが手のひらに食い込む。
人が現れたのは、学園の外からではなく、校舎からだった。何より、そこにいたのはエレノアの父ではなく、彼女が今地下にいる理由ーーー婚約破棄のきっかけとなった娘だった。
「トレエ……?」
緑がかった黒髪に、可愛らしい容姿。退屈そうに太く苔むしたアレシダの木の根元を蹴り、周囲を見回す彼女は、第三王子の恋人、トレエだった。夕陽が彼女の髪に淡い光を投げ、木の葉が風に揺れてカサカサと音を立てる。
どうして、と指先が震えた。声をかけるつもりはなかった。だが、彼女は私を見つけ、あら、と呟いて近づいてくる。
「あなた、ずっとここにいたの? エレノアはここにいないのかしら。探しているの」
不気味なほどにこやかな笑顔で問われた。彼女の声は甘く、緑の瞳がこちらをじっと見つめる。
「……いいえ。クロレディア公爵令嬢は、失踪されたと伺っております」
「そうなの? 来てくれるって手紙に書いてあったのに。……やっと迎えに行けると思ったのに」
ざぁんねん、と間延びした声を漏らし、彼女は肩をすくめた。
「…………あら? そっか、あなたも」
ぐい、と顔が近づく。新緑のような瞳が大きく開き、その奥に何か異様な光が宿っているのが見えた。
ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。……それは、間違いなく恐怖だった。一歩後ずさろうとしたが、足が石のように動かない。永遠のような一瞬の後、彼女は、ぱっと顔を上げた。
「まぁいいわ。エレノアがいるから、あなたはいらない。……だから、あの子がどこにいるか分かったら、教えてね」
約束よ、と一方的に手を握られ、小指を絡められた。彼女の指は冷たく、柔らかいのに異様に力強い。トレエは再びアレシダの木の根元に戻り、いつまでも待ち続けていた。夕陽が沈み、木の影が長く伸びる中、いつまでも。―――その場を立ち去る。彼女の姿が遠く小さくなっても、背筋の寒さは消えなかった。
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「おかえりなさい。お父様はーーーミラ、どうしたんですか?! 顔色が悪いです!手も真っ赤で、こんなに冷えて…!」
地下室に戻ると、エレノアが慌てて駆け寄ってきた。心配そうに私の手を取る。彼女の温かい指が、私の冷えた手を包んだ。
「ちょっと、死ぬほど洗っただけ。それよりエレノア、来たのはお父さんじゃなくて、トレエだったわ」
教会の一件で彼女の父親が話した、呪われた娘という発言は伝えるべきか迷ったが、トレエについては黙っているわけにもいかない。この場所を手紙に書かなくて本当に良かったと思いながら、ㇳレエがエレノアの居場所を知りたがっていたことを伝える。言葉を進めるたび、エレノアの瞳が大きく見開かれ、白い手が震えた。
彼女が握ったスカートの裾が、握りこまれて小さく揺れる。
「でも、どうしてあの手紙をトレエが知ることができたのかしら……エレノア?」
「……きっと家の使用人の誰かが、手紙を彼女に渡したんだと思います。トレエさんに、喜んで欲しくて」
「 ……そんなことあるの? あなたの家の、あなたの使用人でしょう。トレエって、とんでもなく大きな家の娘とか、誰も逆らえないような相手なの?」
「いいえ。彼女はグランツ男爵家の養女です。半年前、教会で立ちすくんでいて、記憶を失っていたと聞きました。教会の伝手で男爵家に引き取られたのだとか。グランツ男爵家自体は、そこまで大きな力を持つわけではありません」
知らなかった、と瞬きをする。教会のことは詳しいつもりだったし、何かあれば知ろうとも努めていた。それでも、教会を離れて学園の召使になれば、情報は当然絞られる。
「それなら、たかが男爵家の養女のトレエのために、あなたの周りの人間が裏切るなんてーーー」
「……仲の良い友人が、授業の課題で、彼女自身のレポートの名前を書き換えてトレエさんのものにしたのを目にしたことがあります。トレエさんはこの課題難しくて分からない、レポートもできないと言っていたの、彼女の役に立てるならとても素敵なことだわ、と。ーーーわたしにも、もし同じことがあれば、トレエさんが望むならそうするべきよと、言われました。その課題を出した先生も、トレエには難しいのだから仕方ない、皆で勉強を教えるべきだと。……そんなことがずっと、何度も、学園にいる時にありました」
は、と言いかけて唇を噛む。彼女の顔は青白く、瞳の震えがよく見えた。
「彼女のために何かを用意したり、どこかに行きたいと言えば手筈を整えたり。学園に入学してから、特別扱いをするとしてもやりすぎだと感じることが、何度もあったんです。みんな、『トレエさんは特別だから』『トレエさんは素敵だから』『エレノアもトレエさんが好きでしょう』って。アルヴィン殿下はずっと私を嫌っていました。トレエさんは綺麗な人ですから、あの方が彼女を恋人に選ぶこと、大切に扱うことは受け入れられました。でも、友人や侍女までトレエさんを特別扱いするのが不思議で。ーーーわたしが同じように思えないのは、わたしがおかしいんじゃないかって、怖かったんです」
白い手が、彼女自身を抱きしめる。行き場も身を守る場も知らない、子供のようだった。かすれて消えそうな言葉が、地下室の冷たい空気に溶け込む。
「アルヴィン様、トレエさんをクロレディア家の王都の、タウンハウスに連れてくるんです。トレエさんが望んでいるからと、彼女の振る舞いを見て、私も殿下が気に入る振る舞いを学べ、と。最初は執事や侍女が、なんてことを言うのだと怒ってくれました。でも、みんなじきに『トレエさんが来てくれるのはいつだろう』と言うようになるんです。『どんなお茶なら気に入るかしら』『今日こそ夕食に誘いましょうか』と。トレエさんが、わたしについて知りたいわと言った時には、侍女長が幼い頃のわたしの絵姿を持ってきて、昔の話をしました。……止めませんでした。止められませんでした。でも、わたしはそれが嫌でした。きっと今の家のみんななら、トレエさんに手紙が届いたら欲しいと言われれば、喜んで頷く人もいるでしょう。それをおかしいと思う私はーーー」
「なに、よ、 それ…………」
「そ、そうですよね! こんなこと……」
ぱっとエレノアが顔を上げる。明らかに空元気の、無理をしているとわかる笑顔だった。
「ありえない……なによ、 そのクソ王子!?クズ超えてドブじゃない!カス!なぁにが気に入る振る舞いを学べよ、そいつこそ常識もオツムも足りないんじゃないの!? 周りも周りよ! いくら客を気に入っても、お嬢様をないがしろにしていいわけないじゃない! まったく、どいつもこいつも……!」
ありえない!と叫び机を叩こうとして、いや、この机に罪はないと我に返る。代わりに頭の中で、王子のいけすかない顔を五百発ビンタする。いい感じに腫れ上がったところで現実に戻ると、エレノアはぽかんとしていた。
「ふ、ふふ、すみません。そう言われたのは初めてだったので」
「そう? ならあなたの周りは、よっぽど見る目がなかったのね。……約束するわ。私、あなたの味方よ」
ありがとうございます、とエレノアがやっと笑った。笑顔になってくれたならよかった。この子の笑顔は、空気を軽くする。
「とはいえ、あなたのお父様に連絡できなかったであろうことには変わりないのよね。しばらく私も忙しくなりそうで……。アルドゥールの王太子が来るって話はしたでしょう。あれ、だいぶ早まって、準備で忙しくなりそうなの」
「そうなんですか。……あの、上手くいけば、ではありますが、来られる方はアルドゥール王国の王太子、ラインハルト様なんですよね?あの方なら、私を助けてくれるかもしれません。幼馴染なんです」
「そうなの? 確かに前、アルドゥールにいたって聞いたけど」
「ええ。12歳の時に1年ほど王城に滞在させていただいたんですが、滞在中はずっと、ラインハルト様にお世話になったんです。どこに行くにも一緒で。本当に優しい方なんです。きっと私の話を聞いてくれると思います」
「了解。ならどうやって連絡を取るかね。どちらにせよ、彼がこの国に来てからの話になりそうだけど」
渡りに船に、なればいいのだけれど。
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彼が学園のホールに現れた瞬間、空気が止まった。
高い天井にシャンデリアが輝き、燭台の火がさまざまな影を作る。あれだけ騒がしかった人々のざわめきが、その姿を見て、止んだ。
「歓迎に感謝する。……この国での時間が、実り多きものであることを願う」
「こちらこそ!ようこそ来てくださった。この滞在により両国の友好と、長きにわたる繁栄を願う!」
学園が出来る最大の歓待で迎えられた青年は、第三王子やエレノアの2つ年上らしい。王城でも盛大なもてなしがあったのだろうが、年が近いからとしばらく学園に滞在するそうだ。アルドゥール王国王太子、ラインハルト・ヴァルデンス殿下は、アルヴィンドブカスクソ野郎と言葉を交わし、握手する。グラスを配った先の誰かが、なんて美しいの、と呟いた。
確かに、と面で隠した顔で頷く。一つに結えた長い髪は炎のような真紅で、背は第三王子より高くーーーびっくりするほど足が長い。あれは本当に人間の縮尺?
だが、何より目を引くのはその容姿だろう。猛禽を思わせる銀色の瞳、高い鼻に薄い唇。かなり整った第三王子すら、並ぶとわずかに見劣りさせる、完璧な造形。
淑女たちが黄色い声のあと、少しでもお近づきになれるかしら、でも私じゃ相応しくないわ、と囁くのも聞こえた。プライドの塊である貴族が自分から不相応と言うなんて驚きだが、これほど美しい人間で大国の王太子なら、自然とそうなるのかもしれない。
これほど美しく高貴な人は人生で出会ったことがーーー。ごめん、いた。男女の違いはあれど、彼レベルに美しい少女が今、地下室でうたた寝してるか本を読んでる。明後日の方向に向かった思考を、エレノアを思い出すことで取り戻す。
いけない、いけない。王太子様があまりに途方もない顔をしているせいだわ。
私は彼に、トレエに悟られないようエレノアの生存を伝えなきゃいけないのに。トレエがエレノアの周りの人間をメロメロにしていたなら、彼も同じようになる前に味方にしないと。
ラインハルト殿下は、側近であるらしい騎士を何人も連れてきていた。彼らも整った容姿ばかりで周囲から熱い視線を向けられているが、反して彼らが周囲に向けるのは、王太子を害するものがいないか見定めるような、鋭い視線ばかりだった。出来るならば王太子様本人に話を持って行きたいけれど、顔の見えない召使いなんて怪しくて近寄らせないだろう。すでにエレノアに手紙を書いてもらっているから目に届く場所に置くのはありかしら、と考えていた候補を打ち消す。誰かに拾われる可能性があるなんて危険すぎる。
どうしたものかしら、と思っているうちに、歓迎のダンスが始まった。
第三王子は隣に立たせていたトレエの腰を抱き、フロアに躍り出る。ラインハルト殿下も、あらかじめ決められていたのだろう、この国でも有数の身分の高い着飾った女生徒をエスコートする。頬を赤らめた少女が応え、フロアに出ようとした―――その瞬間、彼の瞳が。
「………………っ?!」
息を呑んだ。
踊る第三王子とトレエを見るラインハルト殿下の瞳が、あまりに恐ろしかったから。一瞬だけ見せた、憎悪を超えて殺意すら宿るような銀色の瞳に、どうして誰も気づかないのだろう。
彼はなぜ、時期を早めてこの国に来たのか。
本当に、エレノアの味方になってくれるのだろうか。




