エピローグ
カミドニアを出るその日、空は眩しいほどの快晴だった。朝の光が草地を照らす。
ラインハルト様とエレノアは、三日前に王家の人間のための馬車でアルドゥールに向かったから、もう着いている頃だろうか。一緒に乗りますか、と誘われたけれどさすがに固辞して、金の装飾が施された馬車が遠ざかるのを見送った。
「……寂しい? 戻ろうと思えばいつでも戻れるとはいえ、心残りもあるだろう」
兄さまの声は柔らかく、陽光が彼の髪に淡く映る。
「いいえ、兄さま。清々するわ」
そっか、と手を差し出す彼に、指先を重ねる。この馬車だって、紋章つきの豪華なものだった。深紅のビロードの座席が柔らかく、窓枠には細かな彫刻が施されている。
根の被害の少ない道を選んで、馬車は滑らかにアルドゥールへ進む。窓から入る風が、草原の香りを運んだ。門出に良い天気ね、といえば、向かいに座る兄さまも、穏やかに目を細めた。
しばらくの沈黙。
「……あのね、兄さま。あの時、言われたことを守れなくて、ごめんなさい」
ぽつりと呟く。ずっと言いたくて、けれど言葉にできなかったことだった。新しい国に着く前に、伝えたいことでもあった。
私の言葉に、彼は一度、瞬きをした。
「謝る必要はないよ。俺も、ちゃんと説明していれば……。いや、それだとミラは、絶対に国を出なかった気がするな」
頷く。十二歳の頃も今も、兄さま一人で聖樹に立ち向かって自分は外国に逃げるなんて、絶対に納得しなかっただろう。何度も首を縦に振れば、ふ、と彼は笑う。その笑顔に、懐かしい影が差す。
「どうすれば良かったのか、昔、何度も考えたよ。けれど今ミラが生きているなら、あの時の俺の選択は決して最悪なものではなかったって、心の底から言い切れる」
でも、そうだね。俺もミラに話したいことと、アルドゥールとの国境近くで、寄りたいところがあるんだ。行ってもいいかい? その言葉に頷いた。
馬車は静かに進む。
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最後のカミドニアの村を通って、随分と離れた先。国境近くのなにもない丘の上に、その家はあった。古びた木造の小屋は、風雨に晒されて灰色に褪せている。
ありがとう、と御者の人に頭を下げてから、彼は私の手を取った。そうしておいで、とつぶやく。
「催惑樹は、この国全体に根を張っていた。とはいえ活性化する前の根は土に埋まっていたわけではなく、魔力を含んだ菌糸のような形で、土壌の中に含まれていたと考えられる。王都を中心にしていたことは間違いないのに、国中樹まみれになるわけでもなく国境に壁ができたのはそれが原因だね」
兄さまの声は落ち着いている。丘を渡る風が、草を軽く揺らした。
「菌糸を含む土壌はそこまで深くなく、樹は上に伸びる性質を持つ。だからこの国の聖樹に抵抗するための知識を収めた部屋は、地下にある方が多い。教会の人間だけではなく、聖樹そのものからも、聖樹への対抗策を守ろうとしたんだろうね」
「……知っているわ。だから兄さまは、多くの時間、地下にいたんでしょう? 食事も必要とせずに」
長く地下室で、解読や研究に打ち込んでいたという。食事も摂らず、睡眠もほとんど必要なかった、と。
ーーーそれは、どれだけの孤独だっただろう。彼が冷たい石の壁に囲まれた日々を思うと、胸が締め付けられる。
「ああ。……転々としていたけれど、特に、この小屋にいる時間が長かったんだ。面白い絡繰も多かったし、ここからアルドゥールは近いからね。もし樹の呪縛が解ける時があれば、種を持って、すぐアルドゥールに行ける」
そうはならなかったけれどね、と言いながら、彼はポケットから何かを出す。それは、火打石と火打金に見えた。陽光の下で、鈍く光る。
「それは……この小屋を、燃やすの?」
「ああ。重要度の高い資料はもうアルドゥールに運び出されているし、この場所なら延焼の危険もない。ラインハルトにも、話は通してある。―――炎が地下には届かないとしても、もう樹はない。焼くための知識も、必要ない。だから俺の過去と、決別したいんだ」
手慣れた様子で藁を集め火を起こす。火花が藁に落ちる。乾いてボロボロの小屋は、すぐに燃え上がった。炎が木材を這い、黒い煙が青空に昇る。
「……種を手にして、腕に根が生えてから、ずっと、誰かの声を聞いていた。やっとだと、早く、と。この国の言語でも、人の言語でもない言葉で、頭に響く声は何かを欲しがっていた。自らの番を、クロレディア公爵令嬢を呼んでいたのだろうね。……それが頭に響くたび、黙れと思ったよ。その言葉が、ミラに会いたいと思う俺自身と混ざって、おかしくなりそうだった」
兄さまの声は、炎のパチパチという音に紛れ、それでも穏やかだった。
「眠る必要はほとんどないから、稀にしか夢も見なかった。けれど夢では、必ずミラの姿を見たよ。いとし子であるミラに全身蔦が絡みついて、君は死んだように、少しも動かないんだ」
「そんなの……! 催惑樹は、私に興味なんてなかったわ!」
「そうだね。だからこれは、俺の悪夢だ。……今も怖いよ。魔物に乗り移られていた俺が、ミラを傷つけるんじゃないかって、ずっと怖い」
ミラ、アルドゥールに行くんだろう。……俺はそこに、いない方がいいかもしれないよ。
淡々と、兄さまはそう言った。悲しみや、諦観があればまだ良かった。穏やかな彼の瞳には、私への愛情しかなかった。
―――だからこそいま、あなたが怖いと私がいえば、この人はどこかに行ってしまうのだと、そうして二度と会えないのだと、分かった。
「そんな……そんなわけがないでしょう、兄さまの馬鹿!!!!!」
思いっきり叫ぶ。ついでに、その腕に飛びついた。危ないよ、と言われたのも気にしない。この賢い人に馬鹿と叫ぶのは、人生で2度目だ。そろそろ愛想を尽かされるかも知れない。それでも、どうしても言いたかった。
「私の方が、ずっとずっと兄さまに会いたかったわ! 信じてない神様にだって祈ったし、教会の人間に嫌な顔されたって、その必要はないからやめろって言われたって学園で働きたいって何度も何度も何度もごねて! そもそも最初から、あなたと離れたくなかった! そんなの、あの時から、何にも変わってないわ!」
涙が溢れ、頬を伝う。炎の光が、涙に映る。
だから、ねぇ、兄さま。
お願い。一緒にいて。
ぼろり、とまた、涙が溢れた。
私、こんなんじゃなかったのよ。あなたがいなくなったあの夜から、私、ちっとも泣かなかったのに。
そうか、と兄さまは呟いた。
「俺は君を、泣かせてばかりだね。……それでも俺はずっと、世界よりもミラが大事だよ。だから、うん。ミラが俺を選んでくれるなら、共にいたいと望んでくれるなら、とても嬉しい」
だからどうか泣き止んで、ミラ。俺の、世界で一番可愛い女の子。
「…………私、もう、18よ」
「うん。―――大きくなったね」
暖かい手が頭に触れて、ゆっくりと抱きしめられる。兄さまの肩越しに、青い空を見た。煙が細くたなびく。
樹が失われて必要なくなったものが、煙と炭に、姿を変える。
……あなたがいて、奪われて。何もかも、憎んでばかりの人生だった。
それでもいま、あなたと同じ空の下、同じ今を生きている。
腕の中の人を、思いっきり抱きしめた。
これからも、共にいたいと、願っている。
これにて完結となります。
後日、ゼノン視点で彼の過去や彼らのその後についての番外編を投稿出来ればと思います。
お読み頂き、本当にありがとうございました。




