新月
空が白み始める頃、彼女は小屋の窓から、糸のように細い月を眺めていた。薄闇に浮かぶその姿は、まるで消えゆく夢のようだった。
「エレノア。ちゃんと眠れた? ……怖いわよね。もうすぐだもの」
私の声は、静かな小屋にそっと響いた。エレノアは月から視線を外し微笑む。彼女の青い瞳は、夜明け前の薄光に映えて、どこまでも澄んでいる。
「少し、早く起きてしまっただけです。けれど、ちょうど良かった。ーーーねえ、ミラ。もしも、どうしても私が樹に飲み込まれることになったら。その前に、私を、殺してもらえませんか」
息が詰まった。指先が震え、心臓が一瞬止まるような感覚があった。だが、驚きはなかった。この子はずっと、それを考えていたのだろう。
「あなたが、樹になる前に?」
「ええ。死にたいわけでも、命を捨てるわけでもありません。ラインハルト様やアルドゥールの皆様が、そうならないよう戦ってくださっているのも分かっています。けれど、もしどうしようもなくなったら。私は、私のせいで誰かを死なせてしまうより早く、この国や世界に害をなすより早く、人のまま終わりたい。あなたに、終わらせて欲しいんです」
ランタンの淡い光に照らされた彼女の瞳は、まるで夜の海を閉じ込めたようだった。自棄や恐怖はなく、ただ強い覚悟だけが宿っていた。
「ラインハルト様は、きっと私を手に掛けることはできない。だから、あなたにお願いしたいんです」
すこし言葉を失い、彼女を見つめた。やがて、唇の端に小さな笑みを浮かべる。
「良いわよ。……その時は、一緒に死んであげる」
エレノアも微笑んだ。私の命が彼女にとってどれほど重いか、エレノアの命が私にとってどれほど大切か、互いにもう、知ってしまっている。だからこの言葉は、私を担保にした呪いだ。とびきりの重石になれば良い。
「ありがとうございます。今日の、夜ですね。……手を、繋いで貰えませんか?」
「もちろん」
隣に立って、窓の外を眺める。空が色を変えていく。藍色が紫に、紫が橙に溶け、夜明けの柔らかな光が小屋を包む。言葉もなく、2人っきりでその瞬間を共有していた。
∮
エレノアが小屋の戸を開け、一歩外へ踏み出す瞬間、心臓が強く跳ねた。冷たい夜霧が二人を包み、遠くの森から鳥の声がかすかに聞こえる。
「大丈夫?」
「ええ。……行きましょう」
二人で馬に乗り、王都とは逆の方向へ進む。林を抜ける頃、エレノアがこめかみを抑える仕草をした。彼女の顔に、かすかな苦悶が浮かぶ。
「エレノア、声がするの?」
「ええ。……私の名前を呼んでいます。『ようやく見つけられた、早くきて』って」
「そうか。……急ごう。あと少しで丘だ」
すぐ隣の馬に乗った、ラインハルト様が言った。
月のない空の下、白い野花が咲き乱れる丘にたどり着く。星々が瞬き、静寂が辺りを支配している。そこには、篝火が格子状に配置され、10メートルごとに地面を照らしていた。炎は夜の闇を切り裂き、揺らめく光が丘を不思議な雰囲気に包む。
その場所にたどり着いた途端、後ろの地面がぼこりと膨らんだ。土がうねり、何かが這い出るような音が響く。
「来たか。……馬から降りろ。パニックになれば振り落とされる」
ラインハルトの声が鋭く響く。彼の臣下たちも了承の言葉を漏らし、馬から降りた。
ラインハルト様は樹が王都を包んですぐに、逃げたい騎士は逃げても良いと言ったらしい。これから向かうのは怪物であり、人の理屈は通用しないと。戦わなくとも構わないと。それでも、誰も逃げなかった。
「貴方とカミドニアに来た時から、我々は貴方のために死ぬ覚悟を決めているのです。……ご命令を。露払いにはなりましょう」
そう誰もが言い切ったなかで、選りすぐりに強い20人近くがここにいる。残りは王都で避難の手伝いや、教会中庭の樹の近くで待機しているはずだ。
ざわざわと、空気が揺れた。
『エレノア』
声がした。振り返ると、そこに在るのが当然のように、彼女がいた。いびつで、けれどどこか美しい木人形が。ごつごつとした木肌に、蔦でできた髪が揺れる。その姿はトレエに似ていて、けれどどこまでも、人の形を模しただけの異物だった。
『みツけた。……わたシの、アなた』
「いいえ。私は、あなたのものでも、番でもありません」
エレノアの声は落ち着いていた。
『どうシて? あナたは、わたシのなのニ。……そレとも、コレではイやナのかしら。なラ、これは』
ぼこりとまた、根が膨らんだ。トレエの形の木人形の後ろに、他の木人形が現れる。人とかけ離れた、歪な形。それでも、蔦でできた髪の形に、かすかに見覚えがあった。あの地下室の資料で見た、今までのいとし子であった、犠牲者たち。それが、トレエも含めて、7つ。
『あなタは、気にイってクれる?』
トレエ――いや、木人形全てが、全く同じ言葉を同時に発した。その声は冷たく、風に揺れる、夜の木々のざわめきのようだった。
「なんて、惨い……」
「ああ。ーーー終わらせよう。彼らと、この国の呪いを」
ラインハルト様が剣を抜いた。闇夜を紅が走る。赤銅色の輝きが、戦いの始まりを告げた。
∮
周囲を囲むように、四方から根が生えた。それは瞬く間に蔓となり、鞭のように人間たちに襲いかかる。騎士たちはざわめき、そして---。
「は! やり返せるって良いなぁ!」
一人が叫び、剣を抜いた。他の騎士たちも次々に剣を手にし、篝火にかざす。松明の炎が刃に映り、剣はまるで生き物のように輝いた。振られた刃は、蔦を切り裂き、燃やした。
ここにある篝火は、ただの松の根に火をつけたものではない。燭台の一つ一つに、一枚ずつ板が仕込まれている。
その板には、魔法文字が刻まれていて―――その板は魔法の時代、かまどとして使われた、ただの調理器具だったらしい。
∮
樹の対抗策を求められた時、真っ先に兄さまが挙げたのは、王都に近い別の地下室から持ち出すよう依頼した、板のようなからくりだった。
「魔法の時代は、燃料すら魔力で代替していました。ただの文字が彫られた石板に見えますが、これは当時、一般の家庭で使われていた道具です。ミラ、エレノア様、手を翳して力を込めて貰えますか?」
私が言われた通り手を翳すと、板の上にぽうっと白い炎が灯った。エレノアが同じことをしても赤い炎が灯り、同じ部屋にいる騎士が驚きの声をあげる。炎は柔らかく揺れ、まるで生きているようにすら見えた。
「この通り。これの上に食材や鍋などを置いていたそうです。次にラインハルト殿下、お願いできますか」
ラインハルト様が同じように試すが、板はうんともすんとも言わない。彼の眉がわずかに上がる。
「これは……魔法の素質のある人間にしか使えない、ということか?」
「ええ。というよりも、俺たちがこれを使う能力を失った、の方が正しいと思います。あなたの持つ剣や聖樹の枝のような、そのものが魔力を持つ魔道具とは違って、これはただの道具でしかない。ただ、あなたの剣を通して、これに火を付けることが出来るかを試したい。『共有』という魔法文字を、剣と板の両方に彫らせて欲しいんです」
かつて俺は、魔力を持たない人間がこの台で魔法の火を起こす方法を見つけるため、2年近くを費やしました。魔法の火は不可能でしたが、台座同士の火の共有の理論はできた。魔法の火を台座に灯せば他の台座にも魔法の火が灯るというもので、ただ、まだ試せたことの無い、机上の空論です。……ですが、上手くいけば、殿下の剣の炎を持った篝火を、複数箇所に用意できるでしょう。
「他にも30ほどの候補がありますが、7日という短い期間で樹に有効な手段を用意するなら、これが最適です」
催惑樹を腕に宿らされながらも6年近く研究を続け、この国どころか世界で最も樹を調べ尽くした彼の言葉を、否定する者はいなかった。
∮
7日で集められ、加工できた板は30枚。従って篝火も、30台が限界だった。
火の粉が跳ねる中、剣が駆ける。アルドゥールで最も優れた騎士たちが、人智を超えた魔物を切り捨てる。剣と台座の火の共有が成功し、出来た篝火を見て、彼らは素晴らしい、と喜んだ。
切っても傷一つつかないなど全くふざけている、逃げるしかないなど騎士の名折れ、この上なく腹立たしかった。だがこれで勝てる。
言い切るさまに、松明を振り回すつもりかしら、それでもあのムッキムキの武人たちなら充分すぎるくらい強そうね、と思っていたけれど、彼らは堂々と剣を握った。
あの魔法の火は剣を翳して火を移しても一瞬で消えてしまう。ならその一瞬に樹を焼き切れば良いのだ、といい、実際そこらに生えていた聖樹の枝を切り捨てて見せた。ちょっと何言ってるかわからない。
切り捨てられ燃える蔦のなか、ラインハルト様は一歩踏み出す。
エレノアと木人形の間に立った彼は、襲い来る枝を光のような速さで切り捨てる。彼に襲いかかる枝の本数は、他の誰とも比べ物にならないほどに多い。それでも彼は空気を唸らせ、人の胴体ほどの太さの蔦を切り裂き、枝の上を走ってトレエの木人形にたどり着いた。
「―――死ね」
美しい赤銅の剣が、木人形の首を切り落とす。断面から炎が上がり、身体が燃え上がる。周囲の木人形が、一斉にラインハルト様に襲いかかった。あるものは髪にあたる蔦を蠢かせ、あるものは全身に茨のような棘を生やす。逃すまいと、大量の蔦が彼を囲む。
―――ラインハルト様の長い赤髪の先が、ふわりと揺れた。彼は屈み、蔦の隙間を縫って正面の二人を切り捨てる。根を蹴って体勢を整え、振り向きざまに後ろから襲いかかる一人を。そうして蠢く枝を数歩で駆け上がり、真上から木人形の一人を貫いた。剣の軌跡は、そのまま炎となる。とびきり美しい、舞踏のように。
「凄い……」
エレノアが、呆然とつぶやく。本当に。剣も相当な実力者だと聞いていたが、ここまでとは。枝は次々に生えるが、騎士達とラインハルト様の切り捨てるペースも負けていない。兄もラインハルトの近くで、篝火に邪魔な蔦を蹴り付け、まとめて燃やしていた。
勝てるのではないか、と一瞬思った。種を燃やすまで、あれは滅びないというのに。
「ア“ぁぁぁぁぁぁぁ!」
7体目、最後の木人形がラインハルト様によって切り捨てられ燃えた瞬間、突然、樹の咆哮が響いた。空気が唸り、地面が揺れる。それは初めて樹が見せた、明確な怒りだった。
地面が盛り上がった。いや、枝が絡み合い、足場のように持ち上がったのだ。咄嗟にエレノアを抱きしめる。対してラインハルト様の足元は、穴が出来るように沈んでいく。そうして、壁を作るかのようにラインハルト様とエレノアの間に蔦が伸びる。
「ッ邪魔だ、失せろ!!」
彼は叫んだ。夜を割くような一閃。蔦を切り裂き、裂けた部分を足場にして、赤髪の彼が蔦を深々と刺し貫く。煌々と咲く炎が闇を照らすが、壁に阻まれ、その姿は見えなくなった。
「エレのア」
そうして、蔦のこちら側。しゅるりと細い蔦が、エレノアの足に絡みつく。やがて、彼女と、私の身体にも。
「たネを、のンで」
地面から木の幹が盛り上がった。生物の順序を無視した、しわがれた老木。その幹は枯れ、老いさらばえていた。ゆっくりと、一本の枝が作られる。その先には、一つの花が咲いていた。
「まッてた」
緑の五枚の花弁が、ひらりと落ちる。花が失われ、がくの根元が膨らむ。
「ずっト」
残ったのは種だった。3センチほどの、クルミにも似た。
これを飲み込めば、彼女は死ぬ。きっと世界も、終わる。
「―――あなたは、ずっと、ひとりだったのですね」
静かな声だった。エレノアが、ぽつりとつぶやく。枝の動きが止まる。まるで彼女の言葉を理解したかのように。
「沢山いた仲間はいなくなって、魔法そのものも失われて。どれだけ大きくなっても、根を広げても、魔法を使える者を飲み込んでも、ひとりきりで。だから、私を求めたのでしょう」
細い蔦に絡まれたエレノアの腕が、ゆっくりと持ち上げられる。白い手が、そっと種を包んだ。
「私がいれば、仲間を増やせる。ーーー寂しくなくなる」
ざわりと、葉のない老木が揺れた。彼女の言葉に応えるかのように。森の中、風にざわめいたかつてを、思い出すかのように。
「でも」
「私がともにいきたいのは、あなたじゃない。ーーーミラ!」
任せて、エレノア。
袖口に隠したナイフを握りしめる。魔法文字が彫られた、手のひらに収まる小さなナイフだ。すべての篝火の色が、赤から白に変わった。
∮
「まず、エレノアはこの部屋か小屋の中にいてくれ。その上で魔法について、検証を頼む。ゼノンはこの国にある他の資料庫の位置を――」
ラインハルト様が今後の指揮を取ろうとした時、提案と試したいことがある、と手を挙げた。
「試させてほしいのは、その剣についてです。以前、それは魔石を混ぜ込んだ鋼で鍛えてあるから、人が振れば、その魔力に応じて切ったものが燃えると聞きました。一度、握らせてもらっても良いですか?」
「構わない。重いぞ」
ラインハルト様に剣を手渡される。これをよく彼は片手で待てるな、と驚くほどに、その剣は重かった。
美しい赤の鞘から剣を抜く。―――炎が溢れた。剣は赤ではなく、白く燃える。部屋が眩い光に満ち、まるで昼間のように明るくなる。
「これは……いとし子はそれぞれ魔法を発現させると聞いているが、この白い炎が君の魔法か?」
「はい。洗礼の儀の時、この炎は私の手を焼くことなく、樹を焦がしました。そこで、ご提案とお願いがあるのですが」
「……まさか」
「ええ。この剣を折って、欠片を、私にいただけませんか」
∮
ずっと、考えていたのだ。
形が変幻自在というふざけた魔物である聖樹は、種を持ってはいるものの、戦う時になったなら、ラインハルト様を警戒して、彼が脅威でなくなるまで、エレノアに飲み込ませるための種を出すことはないだろう。
しかし、かつて聖樹であったトレエ・グランツは、ラインハルト様のことなど少しも興味を持っていなかった。彼女がこの人を警戒するようになったのは、アルヴィンに剣を向け、炎を見せた夜会の日からだ。彼が魔道具に熱を待たせたとき初めて、トレエは表情を変えた。つまり、聖樹は自らを滅ぼす魔道具を、目視するまで存在に気づけない。
そうしてこの剣が魔石を混ぜ込んだ鋼で鍛えてあるから、人が振れば、その魔力に応じて切ったものが燃えるというのなら。彼の剣が剣という形故にではなく、その素材ゆえに魔法の力を持つのなら。
この剣を折れば、そのまま武器の数が増えるのではないだろうか。
その武器は聖樹に気付かれず、油断させ、種にその刃を届かせることが出来るのではないだろうか。
「……一応これは国宝の、その中でも重要なものなのだが」
「分かっています。ですから、無理にとは言いません。しかし」
「良い。分かっている。……………王都でいちばんの鍛冶師を探し、依頼しよう。まずはごく小さな欠片をつくり、それでも魔道具として使えるか試す。上手くいくようなら、君に扱える大きさの武器にする。君、剣術、というよりも武器を握った経験すらないだろう。扱いやすいよう、手のひらに収まるくらいの大きさがいいだろうな。それでいいか?」
彼が迷ったのは、わずか三秒ほどだった。はい、と返して、深々と頭を下げる。
剣を折ると聞いて、彼の家臣たちはうげえと顔をしかめたり、財物管理官にどやされる、と頭を抱えていた。しかし、誰一人反対はしなかった。そうして王都で最も優秀な鍛冶師に、剣の加工を依頼してくれたらしい。
五日後、私の手元には赤銅色の美しいナイフが届けられた。ラインハルト様の剣は少し短くなり、先端が斜めになっていた。
「全く、あの美しき剣の強度を僅かにも落とすことなく折るなど、しかもたった五日しかないなど、ふざけた依頼です。しかし、この依頼が鍛冶職人として最も栄誉ある仕事であることもまた事実!いいですか、わしがどれほど苦労したか―――」
剣を届けに来た鍛冶師は力説し、ラインハルト様も興味深そうに頷いていたが、彼らの会話は専門用語ばかりで微塵も理解できなかった。頭を下げた日から臣下たちには毎日ナイフの素振りをさせられていて、現物が届きましたな、これでより身が入ることでしょう、と引きずられていったのもあるが。
∮
「家臣は陽動だ。俺も厄介な蔦を潰し、あれを焦らせる。エレノアからは離れないようにするが、どうしようもなくなる時はおそらく訪れる。だから君は決して、彼女から離れるな。……篝火が白に代わった瞬間に臣下たちにも種を狙うよう伝えてあるが、君があれを壊せるなら、それが一番いい」
「ええ。―――あのからくりも、あなたの魔力で火を灯すので、本当に良いのですか?」
「ああ。白い炎を、催惑樹は僅かも覚えても、警戒してもいないだろう。なら、手札は限界まで伏せておいた方が良い」
石板と剣の炎を共有させる、という試みは兄さまとエレノアの試行錯誤にによって、上手くいったらしい。折った後に剣を惜しんでもしょうがない、とラインハルト様も剣に文字を彫ることにあっさり了承して、剣とナイフ、両方に共有の魔法文字は彫られている。とはいえ、彼はいとし子ではないただの人間だ。複数の魔法の火を灯し、その中で大立ち回りをするのは、大きな負担になるだろう。それでも彼は、勝率を少しでも上げるため、自らが篝火を灯すと迷わず言い切った。
そして今、チャンスが訪れた。
「――――――今だ!」
ラインハルト様か、兄さまか、誰かの叫ぶ声が響く。袖に隠していたナイフを強く握り、魔力を込める。やり方は、自然と分かっていた。
篝火が赤から、力強く眩しい白に変わる。自らの手からも白い炎が迸り、腕に絡みついた蔦が燃え落ちる。―――ピクリともしなかった、腕が動いた。
「ア“」
怪物が慌てる声。……こんな時ですら私の名前を呼ばないなんて、本当に失礼だわ。
上半身が自由になる。エレノアの手元、クルミほどの種にナイフを振りかぶる。白い炎が上がった。枝が揺れ、避けるように動く。ナイフが種を掠り、
ーーーーーー逃した。
「ま、だです…………!!」
ァ、とまた魔物のうめきが聞こえた。
樹は、炎を恐れるように枝をざわつかせ、軋む。けれどエレノアは、種を持つ手を決して離さなかった。白い炎が、より強くなる。蔦が自分の足首に絡みつく。けれど、怖くはなかった。
炎はもう二人を包むほどになり、種を逃がしたくとも、枝は邪魔ができないようだった。パチパチと絡んだ枝が燃え、種につながった枝も炭化していく。
震える指先。そうしてついに、エレノアの白い手が、種を奪い取った。
「ミラ、―――私の手ごと!」
刺してください、と彼女の唇が動く。もう一度、ナイフを振り下ろす。
確かな、手応えがあった。
「エレのア」
「ドうシテ」
ざわめく魔物の、悲鳴。
……どうして、か。本当に、どうしてこんなところにいるのかしら。
ずっと、許せなかった。教会も、国も、世界も憎んで、誰よりも自分を許せなかった。あの人を死なせた、その理由を作った自分を、憎み続けていた。
私一人だったら、ここにはいなかった。教会の中庭、聖樹の根元で、なにも成せずに樹に飲み込まれていただろう。
けれど、今。
6年、1人で戦い続けてくれた人がいる。国宝を折ってまで、任せてくれた人がいる。こんな若者に最後を任せて申し訳ない、せめて伝えられる限りを教えようと、託してくれた人たちがいる。
そして、あなたがいる。
彼らがいるから、今がある。
彼らの未来が、美しいものであって欲しい。
左手をエレノアの手に添えた。そして、力を込める。
ぱきり、と音がした。種が、真っ二つに割れた。
樹そのものが白い炎に包まれた。光は丘を飲み込み、夜を昼に変えた。




