呪われているどころじゃない
ラインハルト様の言うとおり、王都の中心を離れるほどに、樹の根は少なくなり、頭に響く声も小さくなりました。
そうして王都を抜け、地面が石畳からならされた土に変わり、しばらくたった後、ふいに前の馬が速度を落とします、
「こちらです。……見た目にはただの小屋ですが、ここにも地下室があります。馬は、そこの柵に繋いでください」
男性の言葉に頷き、ついて行きます。彼が小屋の暖炉の奥の彫刻を動かし、地下室への扉が開く音がしても、二度目だからでしょうか、そこまでの驚きはありませんでした。ぼろぼろにほつれた絨毯を捲れば、埃っぽい空気が鼻をつき、薄暗い階段が下に伸びています。
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小屋に入ったとたん、まだ小さく頭の中で響いていた声は、全く聞こえなくなっていました。
連れられた地下室は、図書室のそれとよく似ています。一面に並べられた本棚に、壁に貼られた古びた資料。ベッドはなく、代わりに椅子4つ。ただ、長く誰も来ていなかったのか、思わず咳をしてしまうほど、埃が厚く積もっていました。古書と埃、そしてカビの匂いが漂っています。
ここにも地下があったのね、図書室の地下はここは示していないから分からなかっただろう、と、ミラは黒髪の男性と言葉を交わしています。ちょっと我慢してね、と呟いてから、彼女は部屋にあった椅子の埃をぱっと払いのけました。どうぞと私とラインハルト様を座らせた後、私を見てから少し困った顔をして、そうしてしゃがみ込んで、呻くように声を漏らしました。
「き、緊張した…………! 馬に乗るのなんて、六年ぶりだったから………!」
「上手だったよ。……昔から、馬に乗るのは上手かったね」
「あの、あなたは………」
穏やかな声でミラの頭を撫でる男性に、思わず問いかけました。
彼は男性の召使の仕着せに、ローブを重ねています。歳の頃は、二十半ばといったところでしょうか。黒髪が額に落ち、青い瞳が静かにこちらを見つめていました。
彼はこちらを向いて、ひどく真面目な顔をしました。
「あぁ。……挨拶が遅れました。俺はゼノン・コウン。この子の兄で、六年前、聖樹から種を盗んだ人間です」
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「ゼノン・コウン……彼は死んだと、聞いたが」
「ええ。種を飲み込んで、樹になり死んだと判断されたと思います。……まず、あなた方は樹について、どこまでご存知ですか?」
ゼノンさんの言葉に、私はラインハルト様と顔を見合わせました。そうして返事をします。
聖樹はいとし子を捕食すること。その際に種を飲み込ませること。教会はずっとそれを隠し、人を捧げ続けていたこと。
そうして今は、聖樹そのものが、私を狙っていることも。
「そこまでご存知なら、話は早いですね。……まず、クロレディア公爵令嬢。あなたが樹に狙われる理由ですが、それはあなたが樹のいとし子、それも樹になる魔法を持っているからです」
「………………………え?」
樹になる、とは。呆然とする私に、淡々と彼は続けました。
「まずは、あの樹についてですが。あの樹は魔法のあった時代、催惑樹と呼ばれた魔物でした。その枝や葉は薬になり、種を食すと強い魔力を得られます。その代わり、種を食すと強い幻覚に誘われ、樹の元におびき寄せられます。そうして近づいた魔力を持つ生き物を、樹は吸収するのです。……大昔、催惑樹はこの地を中心に、広く分布しました。魔法による攻撃しか効かないその魔物は、けれど魔力に溢れていた時代は魔法により刈られ、あるいは燃やされ、簡単に対処ができました。そうして刈られたゆえに、今あるのは一株のみです。大樹から若い苗まで、催惑樹の株はさまざまな形を持ちます。ただ、株一つに種一つ。それが、催惑樹の特徴です」
「……それで、どうして樹はエレノアを狙う?」
「それは催惑樹が、雌雄異体だからです。雌雄異体の樹木は、魔法が関わる種でなくとも、実を結ぶには雄株と雌株、それぞれを育て、受粉させる必要があります。あの樹は雄株です。そうして雄株だけでは、根を広げることはできても、個体数を増やすことはできない。種を、増やせない」
「それを、エレノアなら出来ると?」
「ええ。クロレディア公爵令嬢は、聖樹の儀で、若芽が生え、手に枝が絡みついたと聞きます。この国と樹が深く縁づいているからか、建国以来、樹にまつわる魔法を発現させたいとし子は、それ以外よりも多い。……けれどクロレディア公爵令嬢の発現させた魔法は、そのどれとも異なる。儀式の時、力が抜ける感覚はありませんでしたか?」
「ありました。目眩もして……」
「貴女の魔力が、樹になるために変換されていたんでしょう。そうして、枝は貴女を逃がさないために、手に絡みついた。……貴女は催惑樹の、雌株になれるのでしょう。種を飲めばその姿は樹に変わり、そうして催惑樹と交配し、株を増やせる。魔法のありふれた時代と違い、今は樹を滅ぼす方法も限られている。この国も、世界も一巻の終わりです」
「そ、んな……」
つがい、と確かにトレエさんは話していました。自分が怪物になり、あの恐ろしい樹が増殖して、世界中を覆う未来なんて。想像するだけで、手が震えました。
「そうか。……では、君はなぜ、それを知っている?先ほど、種を盗んだと話していたが」
「ええ。……長くなります。それでも聞いてもらえますか」
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俺が聖樹の真実に気がついたのは、十五歳の頃でした。父と、ミラを我が家に連れてきた教会の人間の手紙でのやり取りを見たからです。
以前から父は教会と連絡をとっていましたし、何かを報告しているようでした。妹が家に来てすぐは違和感を持ちませんでしたが、家族に興味のない人間が娘を増やす、ということそのものが、おかしな話でした。
……ミラが聖樹に捧げられようとしている。それを知って、俺は真っ先に樹を滅ぼす方法を考えました。
幸いだったのは俺が学園に入学していて、樹について調べるうちに、あの地下室を見つけたことでしょう。あの場所で、樹は魔法でないと傷つけることすらできない存在であると分かりました。そして種がないと、人間を吸収することができないことも。
この地下室の他に国中にこういった資料庫があることを知った俺は、ミラを国外に逃がし、自分もまた種と共にいなくなろうと決めました。どこかで樹を滅ぼす方法が見つかるかもしれない。
そしてミラが十二歳になった時、教会から、ミラに飲ませろと種が送られました。俺はそれを持って、逃げ出しました。
「あなたは、言い伝えのように、種を飲み込まなかったのですね……」
「ええ。人間が樹に変わったところで、種は残ります。それをこの子が飲んでしまっては意味がない。……教会は俺が魔法を使いたいと願い、種を盗み取ったなどと考えたようですが」
ただ、魔力も持たない人間が種をずっと所有する、というのは樹にとって望ましくないことなのでしょう。それなりの代償はありました。
そう呟いて、ゼノンさんは腕のローブをめくりました。……現れた彼の腕は、血管のように、木の根が這っていました。
「そ、れは……!」
「種を盗んで、真っ先に俺も国外を目指しました。例えば殿下の持つアルドゥールの火の魔道具など、外国にある樹を滅ぼす手段を求めて。けれど俺は、国外に一歩も出ることができませんでした。足が動かなくなるんです。そしてどうにかできないかと試行錯誤するうちに、腕にこれが生えました。……種が抵抗しているのでしょうね。国から出ようとするほど木の根の侵食は早くなります。カミドニア国内で樹を滅ぼす方法を見つけるしか、残された手段はありませんでした」
それからはこの国のこういった書庫を求めて、転々としていました。この樹が生えたからか、食事を取る必要もありません。書庫を漁り、他の書庫の手がかりを探す。6年近く、それを繰り返していました。
淡々と、ゼノンさんはそう言いました。けれどミラは眉を寄せ、耐えるような表情を浮かべています。
「それで、樹を滅ぼす方法は見つかったのか?」
「ええ。……教会の庭にある聖樹は、本体ではありません。いくら根や幹を切ろうと燃やそうと、意味はない。聖樹の本体は種です。種を魔法による力で壊して、初めて樹を滅ぼすことができます」
なるほどな、とラインハルト様はおっしゃいました。その手が軽く、剣の柄に触れています。
「なら、種は何処にある? 君が持っているのか」
「いいえ。これは本当に俺の失態でしかありませんが、今の種は聖樹の元にあります。トレエ・グランツはご存知ですね?」
頷きました。かつての犠牲者の形をとった、彼女。
「まず、聖樹についてですが……。知性として、あれは人というよりも、虫や植物に近い。特に教会の人間がいとし子を連れてきて、また種を運ぶようになった今は、何もせずとも勝手に待っていれば餌を摂れる、という習性になっていたのだと思います。けれどそこに、あなたが現れた。数百年、あるいは数千年待った、失われた種族を取り戻せる機会が」
樹は、あなたが捧げられると当然思っていた。けれど、種を出してもあなたの口には入らない。あなたはもうすぐ十八歳、魔力が一番多くなるのに。……迎えに行く方法が、トレエ・グランツだったのだと思います。まずトレエ・グランツはあなたに近づき、それから種を回収した。魅了した周囲の人間を足代わりに使って、地方に行きたいと願った。そうして、俺の元を訪れた。
「それは……君は、無事だったのか?」
ぎりぎりでした、とゼノンさんは呟きました。
「そのとき俺はカルド地方にある書庫にいたのですが、なんとなく違和感があり、確認のために外に出たら、いきなり地下室中に大量の根が張りました。そうしてトレエ・グランツが現れて、種を持ち去りました。……みすみす奪われたのは失態ですが、部屋を出ていなければ、俺は間違いなく圧死していたでしょう。そうしてトレエ・グランツは俺に気がついていましたが、俺を殺そうとはしなかった」
……あれに人間の理屈はありません。種を奪われた怒りも、毎日滅ぼすための実験に種を燃やし、塩水に浸け、砕こうとした俺に、復讐しようという考えも。ただ繁殖したい、そのためにクロレディア公爵令嬢が欲しいという、それだけなんです。
「そういえば……昔アルヴィン殿下が、トレエさんとカルド地方に、デートに行ったと聞きました。あの時…!」
その後すぐに、私はアルヴィン殿下に、婚約破棄を告げられたのです。
「ええ。…………トレエ・グランツはあなたと二人きりになり、そうして種を飲ませたがった。そうして、婚約破棄を告げた夜は絶好の機会だった。ミラが貴女を匿わなければ。匿った図書室の地下が、この部屋と同じ、魔物除けの仕掛けを施されていなければ」
貴女は今頃、トレエに種を飲みこまされ、樹になっていたでしょう。淡々と、ゼノンさんは呟きました。
「魔物除け、とは?」
「言葉の通り、魔物が人の魔力を分からなくする、魔法語を使った仕組みです。魔法の時代には一般的だったそうですが、魔物が減るにつれ、必要がなくなりました。魔物除けを敷く方法は失われましたが、魔物除け自体は、今も残っている。……この部屋も、学園の図書室の地下もです。ここにいれば、催惑樹は貴女の場所がわからない。実際あなたがミラに匿われていたひと月近くの間無事だったのは、魔物除けの部屋にいたからです」
魔物除けの部屋にいるか、火の魔道具を持つラインハルト殿下の側にいるか。どちらかではないと、あなたは樹に襲われる。
今生きているのは、本当に運が良かった。そう、青い瞳が私を見つめました。
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たくさんのことを言われてびっくりしたし疲れたでしょう、少し休みましょ、とミラに言われて、ラインハルト様が家臣の方と連絡を取るためにも、休憩を取ることになりました。
待ってね私掃除は早いのよと、ばばばば、とミラは周囲を片付けます。埃が舞い、薄暗い部屋に光が差し込むようでした。
椅子に座ったまま、同じくテーブルを拭いていたゼノンさんに、声を掛けます。
「あの……ミラは、教会の牢からあなたが連れ出したのですか?」
「ええ。……種を失って、俺は国外に行けるようになりました。一目で良いからあの子に会いたいと思い、真っ先にあの子が訪れたはずのアルドゥールの親戚の家を訪れ、そうして、ミラは一度も来ていない、と言われました。国に戻って調べれば、教会の召使になったと聞きました。そうしてあの子が教会に行ったことも知ったので、迎えに行ったんです」
格好についても、腕は隠せて顔を出さなくて済む、召使になりすましたのだと彼は言います。
「そう、なんですか。ミラは、あなたを世界で一番大好きと話していました。だから、あなたが生きていてくれて、良かった」
「ええ。…………俺も、ミラが一番大切です」
この世の誰よりも、世界よりも。淡々と、彼は言いました。




